疲れてるときって判断力が鈍るからね 一秒でも早く家に帰って寝たい。そう思うのに、駅前のタクシー乗り場は長蛇の列が出来上がっている上に、タクシーが出払っているようで列に動きはない。俺は倒れそうになる体をどうにか起こしながらタクシーが戻ってくるのを待つ。
明日の仕事は始発で行こうか。始発で行ったところで間に合うのか。使えない上司がヘラヘラと笑って仕事を増やすせいで、元々の仕事もスケジュールが押している。というか、上司からの謎仕事がなければとっくの昔に終わっているのだ。それがあのクソ上司のせいでまだ終わっていない。謎仕事を無視して自分の仕事だけやりたい気持ちはあるが、それで困るのは会社なのだ。やらないわけにはいかない。やらないわけにはいかないから腹が立つ。
いっそ、今日は家に帰らず会社近くのホテルに泊まればよかったか。そういえば夕飯がまだだった。最後に何かを食べたのはいつだったか。昼……いや朝……昨日の夜……片手で食べられるゼリー状飲料はどこかで食べた気がする。
しかし夕飯を食べるぐらいなら今すぐ寝たい。ふかふかの布団に横になりたい。いや、横になれればどこでもいい気がしてきた。今、このアスファルトの上でも構わないから横になりたい。何でもいいから早く寝たい。
そう思っていると、後ろから肩を叩かれる。振り返るのもだるくて無視していると、先程より強い力で叩かれた。
「ねー!」
「……何だ」
「タクシー、全然来ないですね」
「そうだな」
だからなんだ。
振り返ると、目が合うより先に頭のてっぺんで結ばれた髪が視界に入る。元気よくあちこちに跳ねているそれは、話しかけてきた声音によく似ていた。
目線を下ろせば、顔を真っ赤にした男がニコニコ笑っていた。酔っ払いかよ。はあー、俺が死にそうになりながら仕事をしている横で遊び呆けていたヤツが並んでタクシー待ってるのか。腹立つな。
「風がないから暑いし」
「そーだな」
考えないようにしていたことを、わざわざ言うな。風がないと言いながら、お前が手にしているのは小さい扇風機じゃねぇか。お前は自分だけ風を吹かせて前髪をなびかせている。俺は首筋にじっとり汗をかいているというのに。風がないと言うならその扇風機を止めろ。もしくは俺に当てろ。
そういう思いが目から出ていたのか、男はカラッと笑うと「使います?」と扇風機を俺に当ててきた。風が吹くだけで少しマシになったような気がするが、結局動いているのは温い空気なのでそこまで涼しくはならない。ないよりはマシだが、あったところで気休め程度の気がする。
「お兄さん、このままタクシー待ちます?」
「? どういう意味だ?」
「やー、手っ取り早く涼しいとこ行きたくありません?」
「涼しいとこ? 電車もバスもないだろ」
「そー……なんですけどぉ……」
男が扇風機を自身に向けて、その上に顎を乗せる。突然奪われた弱風に、俺はこめかみに汗が垂れるのを感じた。気休めなんて思って悪かったから戻ってきてほしい。この短い時間ではあったが、俺はミニ扇風機に心が奪われた。この地獄のような熱帯夜に一筋の光でありオアシスであり癒しである。
ミニ扇風機の上に乗っている男の顔を見ると、先程とは打って変わって湿度のある笑みを浮かべている。何だその目は。どういう感情で俺を見上げているんだ。
ゆっくりと男が口を開く。
はらはらと前髪が揺れる。
男の右手が俺の左腕に触れる。振り払う暇もなしに、手首から肘に向かって男の親指と人差し指と中指が上ってきた。くすぐったい。
「いつ来るか分かんないタクシー待つより、一緒にホテル行きません?」
「は……」
男が一歩、踏み込んでくる。近くなった男からは酒と煙草と香水の香りがした。
訳が分からない。俺は疲れすぎて幻覚を見ながら幻聴を聞いているのだろうか。
「ホテルなら涼しいし、すぐ横になれますよ」
「それ、は……」
なんて魅力的な提案なんだ。今すぐホテルに入れば、始発で出勤するにしても三時間は寝れる。このままタクシーを待ってから帰宅したのでは、一時間寝れるかどうかも分からない。それなら確かにホテルでもいいのか。その発想はなかった。何でもっと早くに気づかなかったのだろうか。家と職場以外にも寝る場所はある。
「ね? 近くにいいホテルあるんです。一緒に行きませんか?」
肘の内側で男の指が止まる。汗をかいて湿っているだろうから、あまり触らないでほしい。男の親指が半袖の隙間から入ってきて、二の腕を優しく撫でた。
俺を見上げる男の瞳はいやに輝いていて、普段なら絶対にしない選択を俺はした。
疲れていたから、寝不足だったから、空腹だったから、男の目に飲まれたから。
「いいぜ」
早く寝れるなら何でもよかった。嬉しそうに腕に絡まってくる男を振り解かなかったのは、そうでもしないと真っ直ぐ歩けない気がしたからだ。酔っ払いより足元がおぼつかないなんて、笑えるだろ。