どんぐりひろいやさんかんたろお2 腕の中にいる夏太郎を抱き寄せる。
と、記憶よりも毛深い手触りに尾形はばちりと目を開けた。
どういうことだ? 家に毛皮のコートはないし、カバンやマフラーもない。夏太郎の持ち物の中にもそういった毛皮のものはなかった。
恐る恐る布団をめくると、中にいたのは一匹のタヌキだった。
スヤスヤと眠るそれを起こさないように布団を戻す。尾形は強めに目をつぶった。どういうことだ? ともう一度考える。
確かに昨晩、夏太郎を家に上げた。木の根っこが家だと言う子どもを、そのまま放置しておくほど血も涙もない人間ではない。いや、他の見知らぬ子どもだったら交番に連れて行って終わったかもしれない。どうしてだか夏太郎は放っておけない気持ちになった。
そんな夏太郎を連れて帰ってきて、警察や児童相談所は明日以降に考えようと思った。夕飯を食べて、風呂に入って、布団を被せた。そこまでは覚えている。その記憶のどれもが人間の子どもの姿をした夏太郎だった。
だというのに、今尾形の布団の中にいるのはタヌキだ。紛れもなくタヌキだった。野生動物の保護はどこかしらに申請が必要だったな……? そもそも俺はこのままタヌキを家に……? というか夏太郎はどこに行った……?
など尾形が頭をぐるんぐるん回していると、布団の中身が動き出した。タヌキが起きたのだ。尾形は反射で身構える。攻撃される可能性はゼロではないし、この状況で噛まれるなり引っかかれるなりしたら軽傷で済むとは思えない。
布団から顔を出したタヌキは尾形の顔を見ると
「くゆー!」
と嬉しそうな声で鳴いた。
テレビで犬猫が笑ってるだの怒ってるだの、表情が変わる話をしているのを見るたびに「思い込みだろ」と思っていた。しかし今、確かにこのタヌキの顔を見て「嬉しそうだな」と尾形は思った。
頭を撫でると、さらに表情が溶ける。
「くぅ、きゅ」
もっと撫でろと要求するように手のひらに頭を押し付けてくる仕草には覚えがある。もしかして、もしかしなくても。
「夏太郎?」
「きゅう!」
鳴いたタヌキが頬ずりをしてくる。待て待て待て。どういうことだ。タヌキが夏太郎で、夏太郎がタヌキ? 一昨日の酒は残っていないし、睡眠時間もたっぷりとったはずなのに頭が痛くなってきた気がする。
目の前も少し暗くなったような……と尾形が目をつぶると、何かに気づいたタヌキが布団の中から勢いよく飛び出した。
遅れて尾形が体を起こすと、タヌキは夏太郎のカバンの中を短い前足でがさごそと漁っている。器用にやるなぁ、と丸い背中を眺めながらベッドから降りる。
タヌキはカバンの中から一枚のモミジの葉を出した。それを頭の上に乗せてくるりとその場で飛び跳ねるように一回転すると、そこにいたのはタヌキではなく夏太郎だった。
「えへへ、おはようございます」
「……おはよう」
隣にしゃがむと、夏太郎も座る。頭の上に乗せたモミジの葉を取ると、夏太郎は「あの」ともじもじしながら口を開く。尾形は、小さな手の中でくるくると回されるモミジから夏太郎に視線を動かした。
「おれ、タヌキなんです。にんげんにばけて、どんぐりひろいやさんしてました。ほんとはないしょなんですけど……」
「そうか」
「ばけるのあんまりうまくなくて、ながくにんげんになってるとタヌキがでちゃうんです」
「タヌキが出る」
「はい。みみとかしっぽがでちゃって。ほんとうはだめなんです」
「ダメなのか?」
夏太郎を抱き寄せる。モミジの葉の動きが止まる。
夏太郎は尾形を見上げて、少しだけ困ったような顔をした。
「だめなんです。タヌキってしられると、こわいめにあうって」
「怖い目」
「おれはしらないんですけど、みんないいます。だからきをつけようねって。ほんとうはきのう、ひゃくのすけさんがねてるときにちょっとだけみみとかしっぽがでてたんです」
「それは知らなかったな」
夏太郎の頭を撫でながら、そういえば確かに昨日、頭に丸いものが見えたような気がしたり、足の上をもふもふとした何かが通ったような気がしたが、どちらも気のせいではなかったのか、と思い直す。
それからこの場合はどこに相談すればいいのか分からなくなった。夏太郎は自分のことをタヌキだというから野生動物として扱えばいいのか。何かしらの申請をしていないと一時的な保護すらダメだと聞いたことがある。
しかしそれは通常のタヌキの場合だろう。人間に化ける方のタヌキはどうなるんだ。
考え出したら止まらなくなるな、と尾形は結論を出して夏太郎の背中を軽く二回叩いて立ち上がった。
「飯にするか」
「はい!」
念のためにタヌキの食事について調べてみたが、雑食であることとドックフードを食べさせるのが早いことしか分からなかったので、マヨネーズやバターを使わないサンドイッチを朝食にすることとした。
ゆで卵を作る間にレタスを千切り、キュウリを薄切りにする。バターロールをトースターで温めながら、これぐらいの塩や油は大丈夫だろうかと心配になってきた。パンを一つ二つ食べたところで腹を壊すとは思いたくないが、尾形はタヌキを飼ったことがない。人間が食べたものを動物に与えるなと聞くが、動物が人間になっている場合はどうなんだ。
誰に聞けば答えが出るか分からない問いをかき混ぜるように、沸騰したお湯の中に沈む卵をぐるぐるとかき回した。
「ひゃくのすけさん、おれ、おてづたいします!」
ぴょこりと横に立った夏太郎が片手を上げる。尾形は少し考えてから夏太郎の頭を撫でた。
「ゆで卵ができたら潰してくれるか?」
「はい! つぶすのがんばります!」
もう一度頭を撫でて尾形はコンロの火を止めた。冷水にゆで卵を入れてバリバリと殻を剥く。その様子を目をキラキラさせながら見てくる夏太郎に、尾形は笑った。
「やるか?」
「いいんですか! おれ、ちょっとだけやりたかったんです」
「卵の殻剥きぐらいなら問題ないだろ」
水を張ったボウルをリビングのローテーブルに運ぶ。ここまでくればあとは全部こっちでもいいか、と考えた尾形は、切ったレタスとキュウリを乗せた皿を夏太郎に運んでもらった。トースターから出したバターロールは尾形が運ぶ。
手伝いができて夏太郎はずっとニコニコしていた。卵の殻をつるりと剥くのも、剥いた卵をつぶすのも夏太郎は初めての経験である。尾形が切り込みを入れたバターロールに具材を挟むのだって楽しい。
出来上がったサンドイッチを前に、夏太郎は何度も尾形の顔を見る。
「おれ! つくりましたね! おてつだいいっぱいしました!」
「そうだな、半分ぐらい夏太郎が作った」
よしよしと頭を撫でると夏太郎は得意そうに笑う。
二人で仲良く手を合わせて
「いただきます」
「いただきます!」
できたてのサンドイッチを頬張った。
ノートパソコンの電源を入れると、興味津々の様子で夏太郎が横から覗き込んできた。
「ひゃくのすけさん、それってなんですか?」
「あー、これは、あー……仕事道具……」
「おしごと? ひゃくのすけさんもおしごとしてるんですか? どんぐりひろうんじゃないですよね?」
「どんぐりは拾わないな……」
画面を覗き込んだ夏太郎は、尾形がパスワードを打ち込む姿を見てキーボードを認識した。パソコンが立ち上がるまでの数秒、好奇心で指を伸ばしてくる。
「気になるか?」
そう尾形が尋ねると、夏太郎は飛び跳ねて驚く。まるでいたずらが見つかった子どものようだ。どうしてバレないと思ったのか。
「ちょっと待ってろ、もう少ししたら好きに押していいところ開くから……」
「わ、あの、いえ、その、おれ」
「ボタンがあったら押したくなるもんなぁ」
夏太郎の頭を撫でると、えへへ、と笑う。立ち上がったパソコンのメモ帳を全画面表示させて、夏太郎を膝の上に乗せた。
「ほら、好きに押せるぞ」
「わあ〜〜〜、え! え! ひゃくのすけさん、すごいです! なんか、いっぱい、わあ!」
このまま夏太郎にタイピングを教えたら、一芸タヌキになるのだろうか。目をキラキラさせる夏太郎の頭を撫でながら、そもそもコイツはすでに字が書けるんだよなぁ、と思った。
興奮気味にキーボードを叩く夏太郎の動きを数秒だけ止めて、ローマ字入力からかな入力に変える。すると、画面に出てくるものが見覚えのあるものになったのが面白くなったのか、夏太郎の頭からタヌキの耳がひょこっと出てきた。
人間に化けるのがあまりうまくない、とはこのことか。
尾形は笑いをこらえながら、夏太郎にキーボードを見るよう促す。
「これ、分かるか?」
「か、です。かんたろおのかですよ」
「そうだ。じゃあこれは?」
「んです! あ、こっちにたがあります!」
「じゃあろはどこだ?」
「んんー?」
首を傾げる夏太郎の柔らかい腹を揉む。一つに結ばれた髪の束の中に鼻を入れると、夏太郎が腕の中でくすぐったそうに身をよじった。
「あ! ありましたよ! ろ、ここです!」
「ははぁ、じゃああとは」
「お、ですね?」
「まぁ、それでもいいが……」
画面に並んだ「かんたろお」の文字列から改行して尾形は「かんたろう」と打ち込む。振り返った夏太郎が尾形を見上げた。
「これ?」
「そう、本当はかんたろう、だな」
「じゃあかんばんのもじ、なおさないとですね!」
ぴょんっと尾形の上から降りた夏太郎は自身のカバンに向かって走る。中から引っ張り出した白紙の画用紙とクレヨンを床に広げた。尾形が体を伸ばして様子を伺うと、それに気づいた夏太郎がタヌキの耳をピンと立てる。
「ほかにまちがってるところありますか?」
「ん? いや、ないだろ」
「じゃあ、おをうに……」
出来上がった新しい看板は「どんぐりひろいやさん かんたろう」になった。「かんたろお」も可愛らしかったが仕方ない。夏太郎自身に正しい名前の読みを教えたのは尾形だ。うまいうまい、と頭を撫でる。
「そういえば今日はどんぐり拾い屋さんしなくていいのか?」
「きょうはてんきがよくないのでしないです。おてんきじゃないとどんぐりがちゃんとみえないので」
画用紙とクレヨンをカバンにしまうと、夏太郎は尾形の膝の上に自ら乗っかった。天気の問題もあるのか、と納得してしまった。夏太郎がそう言うのだからそうなんだろう。どんぐり拾い屋さんをしていない尾形には分からない事情だ。
「あと、その、ちょっとおねぼうさんだったので……」
と恥ずかしそうに夏太郎は両手で顔を覆った。寝坊したとは言え朝八時には起きていたぞ、と思ったが、昨日は朝七時であの状況だった。それで考えたら確かに寝坊したのかもしれない。
「だからきょうはどんぐりひろいやさんおやすみです」
そうかそうか、と夏太郎の頭を撫でる。そのまま背中をぽんぽんと叩いていると、夏太郎はうとうとし始めた。
尾形のシャツを掴みながら何事かをうにゃうにゃ言っているので、それに合わせて適当に相槌を打つ。しばらくすると夏太郎は静かになった。今のうちだな、と尾形はキーボードを叩く。
子どもがいる同僚や上司が「在宅は通勤がないから楽だと思ったけど、うまく集中できないな〜」とぼやいていたことを尾形は思い出した。すぅすぅと眠る夏太郎の顔を見る。確かに暴れまわる子どもがいたら、仕事どころではないだろうなぁ、と考えた。
夏太郎の前髪を横に流すと「んむぅ……」と言いながら、尾形の胸に顔を押し付けてきた。暴れてなくても可愛さで仕事に集中できないこともあるんだな、と尾形は思い直す。
窓の外ではポツポツと雨音がし始めた。
「じゃあ、おしごといってきます」
「ん。昼ぐらいに差し入れ持ってく」
「さしいれ?」
「お仕事頑張ってるなぁって、まぁ、弁当だな」
「わーい、うれしいです! がんばってどんぐりひろいますね!」
「おー、いってらっしゃい」
「夏太郎? 寝るなら布団いくぞ」
「んー、くぅー」
「タヌキになってるぞ」
「うー……」
「ひゃくのすけさん! きょう! どんぐり! かってもらえました!」
「おー、それは良かったな」
「もうおれみならいじゃないですよ、りっぱなどんぐりひろいやさんです!」
「すごいすごい。じゃあお祝いの飯だな」
「! け、けーき、ですか?」
「そうだな、お祝いつったらケーキだもんな。買いに行くか」
「うれしいです! おれけーきすきです!」
「百之助は最近付き合いが悪い」
「そうか?」
「そうだよ! 最後に僕と飲んだのがいつだと思ってるんだ!」
「あー、先週?」
「三ヶ月前だけど! 何? 女でもできた?」
「……面白くない冗談だな」
「ウソウソ! じゃあさぁ、今夜行こうよ。どうせ暇だろ?」
「行かない」
「はあ〜〜〜〜? 何、男ができたの?」
「できてない」
「じゃあ何でぜんっぜん飲みに行かないんだよ! 在宅ばっかでほとんど出社してこないし!」
「それは前からだろ」
「前は週に一、二回は来てた」
「……そうか?」
「はあ〜〜〜〜……。ま、お前が元気そうにしてて安心したけどさ」
「じゃ、帰るから」
「はあ? お前、コラ」
「お先〜」
「ただいま」
「おかえりなさい!」
玄関まで走って迎えにきた夏太郎を抱きとめる。基本は在宅勤務とはいえ、月に一、二度は出社する。そのときは夏太郎だけで留守番してもらうが、今のところ大きな問題は起きていない。せいぜい翌日の昼過ぎまでべったり甘えん坊になるぐらいだ。可愛い可愛いと頭を撫でる。
後ろ手で鍵をかけようとするが、そこにドアがなかった。不思議に思って振り返ると、職場で別れたはずの宇佐美がそこに立っていて、尾形はもちろん夏太郎も背筋を伸ばして驚いた。
「な」
「へー、最近お前が付き合い悪いのコレかぁ」
宇佐美の目から夏太郎を隠すようにコートの中にしまう。夏太郎は体を硬くしたまま尾形にしがみついた。驚いた拍子にタヌキの耳と尻尾が出ている。
バレたところで宇佐美が何かするとは思わないが、何かしらうるさいのは目に見えていた。
「百之助にこういう趣味があったとはねぇ」
そう言ってコートの中を覗き込んでくる宇佐美に背中を向けた。尾形のあからさまな態度に宇佐美は少し機嫌が良さそうだ。
「お前、勝手に」
「もう出まーす。飲みに行かない理由が分かったし。確かにこれは言いにくいよね。今度一緒に遊ぼうね、おちびちゃん」
自分に向かって話しかけられているのが分かった夏太郎は、顔の半分だけ覗かせて宇佐美を見上げた。にんまりと笑った宇佐美が視線を合わせるのに腰をかがめる。
「百之助のこと、よろしくね?」
「んん、はい……」
手を振る宇佐美につられて夏太郎も手を振った。「じゃ!」と尾形の背中をバシバシと強めに叩いて宇佐美が出て行く。尾形は急いで鍵を閉めた。
「ひゃくのすけさんのおともだちですか?」
「とも……あー、知り合い……」
「こんどあそぼうねって」
「あそ、ばなくても、いい……」
夏太郎の背中を撫でながら暖かい部屋の中に入る。
歯切れの悪い尾形の返事に夏太郎は首を傾げた。
翌日から三日間、夏太郎はタヌキの姿のままだった。