うなぎになったんだなぁ どうしてこうなった。
尾形は頭を抱えようと思ったが、胸ビレは短く頭まで届かない。ぐるぐると体を回せば、そこにあるのは平べったいうなぎの尻尾で、それは自分の体からしっかりと伸びている。どうしてこうなった。
昼飯を終えて、火鉢の近くでうとうとしていた。寺の中は人が出払っており静かだった。いつの間にか少し寝ていたようで、土間から人の声がしたので何事かと様子を伺いに行ったのだ。しかしそこに人影はなく、水の張られた木桶だけがあった。何が入っているのか覗き込むと、視界が暗転した。
めまいでもおこしたのかと思った。ばしゃんっと頭から水を被る感覚はあったのだが、おかしいことにそれが全身に渡り、だというのに衣服が濡れて気持ち悪い感覚がない。そもそもあの木桶に全身が入るか? だんだんと視界が明るくなってきたので辺りを見回せば、ぼやけながらもここが木桶の中だと判断した。
そうして尾形は疑問符を浮かべる。
どうしてこうなった?
口をぱくぱく動かしたところで声が出ない。うなぎになった。どうしてだ。誰かいないのか。ばっちゃんばっちゃんと水の中で暴れてみても事態は変わらない。全身に触れる水は裏の井戸から汲んだものなのか、冷たくて気持ちよく、まるでずっと口の中に水を含んでいるかのように美味しい。
水の中に入っているだけなのに美味しいと感じるのは何なんだ。さっき口の中に水が入ったのか? 飲み込もうとしたところで口の中には何もない。
目をつぶって思考を整理したかったが、今の尾形はうなぎなのでまぶたがない。仕方ないのでぼやけた視界で木桶を眺めながら考える。
だいたいこの木桶は誰が運び込んだものなのか。水が張られていたというのに、今その中には尾形しか入っていない。これから何かを入れるつもりだったとすれば、遅くならないうちにその人間が戻ってくるだろうか。木桶の中をぐるぐる泳いでみても何も変わらない。とにかく時間が経って誰かがくるのを待つしかないようだ。
誰かが来たところで、うなぎとして捌かれる可能性もあるわけだが。
「あれ? 何か入ってる」
夏太郎だ!
姿ははっきりと見えないが、声が夏太郎のものだった。助けてくれるなら誰でもいい。尾形は必死になって木桶の中で暴れる。夏太郎に水がかかろうが構わない。全力でびったんびったんと跳ねる。
「うわわ、え、何……」
そう言って夏太郎が木桶から離れる。くそ、逃したか。と尾形が思ったときだった。木桶が大きく左右に揺れる。水がだっぱんと波を作った。
「ええー? なに……」
まだぶつぶつ言っている夏太郎の顔が近くなったことと、わずかに上下する木桶と、ぼんやりした視界の中ではあるが背景が変わったように感じることから、木桶ごと運ばれていることに気づく。どうやら先ほど木桶から離れた際に戸を開けたらしい。
半分ほど水は減ったが、特に困ることもない。尾形は木桶が寺の外に置かれたのを確認してから夏太郎を見上げた。柔らかい日差しが全身に降り注ぐ。軍服にしろうなぎにしろ黒いものに変わりはない。このまま外に置かれていたらぽかぽかと暖かくなるのだろうか。
「水だけ入ってるって聞いたのに……うなぎ?」
明るい場所で木桶の中を確認した夏太郎が呟く。夏太郎自身も木桶のことをきちんと把握していたわけではないようだ。つまり土間に木桶を置いた人間は別にいる。
「今日の夕飯? 一尾だけ? 誰か捌けるのかなぁ」
水の中に夏太郎が手を入れてきた。捌かれるなんて冗談じゃない! 尾形はその手から逃げようと全身を波打って逃げる。助けてもらおうと思った俺が馬鹿だったのだ。今俺はうなぎで、夏太郎は人間だ。うなぎを見れば食べ物と考える。それはそうだ。人間がうなぎになったなんて誰も考えない。
「うわ! まじで何!」
暴れる尾形に、夏太郎も意地になった。
「ちょっと! あんまり! 暴れるな!」
今ここでうなぎを捕まえたところで捌く必要もないし、そもそも捕まえる意味もない。しかし二人とも状況が飲み込めなくて混乱している為、捕まえようとするし逃げようとする。結果、ばっしゃんばっしゃんと水を立てながら二人で暴れることになった。
先に体力がなくなったのは、慣れない体で暴れていた尾形の方だった。その隙を逃さない夏太郎に両手で掴まれる。
「やった……!」
ぬめる尾形を両手で掴んだ夏太郎は、興奮のまま立ち上がる。うわ、何するんだ、と尾形は声を上げたかったがそれも叶わない。この体はできないことが多すぎる! 尾形は愕然とした。右目を失うよりも大変かもしれないが、そもそもこの姿では銃を構えることすらできない。何もできないではないか。大人しく食べられるのを待つなんて絶対に嫌だ。
夏太郎は両手を交互に動かして必死に尾形を離さないようにはしているが、どうしてもぬるついているため動いてしまう。仕方ないので尾形は夏太郎の腕に尻尾を絡ませて体の安定を図った。今更この高さから落とされたくはない。
そこで不思議なことに気がついた。
今、尾形の口の中には何も入っていない。だというのにほんのり塩味や苦味を感じる。どういうことだ? にゅるんと夏太郎の手の中で体を回す。口をはくはく動かしてみたところでやはり中に何かが入っているわけではない。夏太郎を見上げても、不思議そうな顔をしているだけだ。
「はは、ちょっと間抜けな顔してる」
そう言って笑う夏太郎の腕を、尾形は力一杯絞めた。あくまでもうなぎの顔の話をしているとはいえ、間抜けと言われて黙ってはいられない。
「い!」
痛みに驚いた夏太郎が尾形から手を離したので、結局ぼちゃんっと木桶の中に戻った。水面や木桶の底に体を強く打ち付けるかと思ったが、高さがあったので体をうまく流せたおかげでそれほど痛みはなかった。木桶に沿って体を伸ばす。夏太郎は絞められた腕を軽く振りながら、木桶の中の尾形を覗いた。
「何なんだ、コイツ……うなぎのくせに……あーあ、びっしょびしょ! 誰かさんのせいで着替えないといけないや」
わざとらしく大きな声で、尾形に対して文句を言ってくる夏太郎は新鮮で面白い。人間のときにこんなことはなかった。土方に対して軽い態度を取る尾形を面白く思っていないのは表情から分かっていたが、その不満を直接言ってくることはなかった。尾形は笑う代わりに木桶の中をぐるりと回った。
文句を垂れながら夏太郎は法被を脱ぎ、雑に畳んで木桶の縁に置く。釦を外す夏太郎を見ながら、尾形は木桶に沿って上体を起こした。
「んー? どうしたんだよ」
シャツを脱いだ夏太郎が優しい声で話しかけてくる。コイツこんな声を出すのか。尾形が今までに聞いたことのある夏太郎の声は、もう少し固くて小さなトゲを感じるものだった。でもそういえば、前にたまたま聞こえた土方と夏太郎の会話では、確かに柔らかい声だった気がする。尾形は、今夏太郎がどんな顔をしているのか見ようと体を伸ばす。うなぎの視力では夏太郎の表情が見えない。
木桶の縁に胸ビレをかけようとしたとき、尾形の体はぐらりと反転した。
「あ! こら!」
夏太郎の制止も虚しく、尾形と一緒に法被が木桶の中に落ちる。
「もー……」
まずい。法被の下に身を隠して、尾形はじっとした。もしかしたら怒った夏太郎にこのまま捌かれてしまうかもしれない。どうにかして自分が尾形だと夏太郎に知らせなくてはならないのに、喋れなければ何も伝えられない。土の上を這って文字が書ければ……とも思うが、この体でどこまでできるのか見当がつかない。
こんなところで一生を終わらせるつもりはない。うなぎになって捌かれて死にました、と話したところで誰が理解するだろうか。
「大丈夫?」
夏太郎が法被をどかす。暗かった世界が明るくなる。
尾形は水の中に入ってきた夏太郎の腕に絡みついた。
「永倉さんがうなぎ入れたの忘れてたのかな。水だけ入ってるって話だったけど、土間暗いし。それとも別の人が勝手に入れたのか……うーん、君はいつからあそこにいたの? って聞いても分かんないか」
半裸になった夏太郎の腕に全身を絡ませてにゅるにゅると伝う。やはり妙に味を感じる、と尾形は首をひねった。口の中で感じるのではなく、全身で感じる。どういう仕組みかは分からないが、今、尾形の体は全身が舌のような感覚だ。
「なになに、くすぐったい」
また笑った。先ほどよりは顔が近いので何となく表情が見える。うなぎになっていなければその顔がはっきりと見えただろうに。
「でも一尾だけじゃなぁ。みんなで食べるには足りないよなぁ」
肩まで上がってきた尾形の口先がつんつんとつつかれる。かぷとその指先を口の中に入れると、やはり全身で感じるものと同じ味がした。うなぎの体ってこうなってんのかよ、と新しい知識が増えたところでどうにもならない。
夏太郎はうなぎである尾形を食べるつもりだ。この場から逃げるのが得策のような気はするが、水なしでどこまで動けるのか分からない。そもそも夏太郎から逃げたところで別の人間に拾われる可能性もある。知らない奴に食われるよりは、知ってる奴に食われるほうがまだマシに思える。
突然うなぎになったのだ。戻るときだって突然だろう。どうせ一尾だけでは夕飯を賄えない。もう少し数を増やすまでは食べられないはずだ。それなら今すぐどうこうならなくてもいいのでは?
尾形がそう腹をくくって夏太郎の首に頭を擦りつけた瞬間、また視界が暗転した。
「う」
「わ」
目を開けるより先に、体が元に戻った感覚があった。手のひらと膝で土を感じる。ゆっくりとまぶたを持ち上げれば、目を丸くする夏太郎の顔がはっきりと見えた。俺が見たかったのはこの顔ではないな、と判断する。うなぎを相手していたときの柔らかい空気はどこかに行ってしまった。うなぎと戯れていたと思っていたのに、突然尾形に押し倒される形になっているのだから、驚くのは当然だし空気が固くなるのも仕方ない。分かってはいても面白くはない。
「お、おが、たさ……」
「ははぁ、俺を捌くつもりだったな?」
夏太郎がぶんぶんと頭を横に振る。一つに縛った髪が辺りの乾いた土を払って埃を立たせる。その顎を捕まえて、べろりと頬を舐めた。やはりうなぎのときに感じたのは夏太郎の味だ。
「な、あ」
「そんな顔をするな。俺も意味が分からない」
そう言って尾形は上体を起こして夏太郎の腹の上に座った。どうやらうなぎになったときに服も脱げていたらしい。膝で直接土を感じたのはこのためだったか、と夏太郎の胸の上で手のひらの土を払いながら考えた。脱げた軍服は土間に落ちているのだろうか。
「お前はうなぎにあれだけ優しくするんだ。俺にもその優しさ、分けてくれよ?」
「な、にを」
むき出しの腹をなぞる。牛山や永倉に鍛えられてきたおかげで茨戸の頃より筋肉がついてきた。うっすらと線が入っている。
「なぁ、夏太郎?」
尾形の指はどんどん上がっていき、胸の間を通り過ぎて鎖骨の隙間も越えていく。夏太郎はどんどん近づいてくる尾形の指と顔を何度も見比べていた。
「優しさって、うえぇ、うなぎ」
「お前だって分かってるだろ?」
夏太郎の顔の横に左手をついた。
喉仏をなぞり、顎に指をかける。
「かーん? お前はいつも俺に冷たい」
「つめ、たくはない、でしょう……ちょっと、緊張してるだけで……」
「じゃあ今日から俺をうなぎと思えばいい」
人差し指で夏太郎の下唇に触れたとき、夏太郎が渾身の力を込めて尾形の胸を押し返した。突き飛ばさなかったのは夏太郎の優しさか。思ってもみなかった行動に、尾形の体はそのまま後ろに倒れる。
「う、うなぎって、何訳分かんないこと言ってるんですか!」
「……」
それもそうだな、と尾形は思う。一瞬前まであった夏太郎への強い興味が、急になくなったのも分かった。前髪を撫でつけて尾形は立ち上がる。春先の日中とはいえ、全裸でいられるほど外は暖かくない。
風邪を引く前に寺に戻ろう。
「え、あの」
「つまらん」
「はあ?」
慌てて体を起こした夏太郎は文句を言いたそうにしていたが、尾形と目が合うと口をつぐむ。それから木桶に目を動かし、大きなため息を吐く。
「もー……ほんとに……」
小声のそれを尾形は無視した。手ぬぐいでも濡らして全身を拭いておこうか。それとも風呂屋に行くか? 膝や脛についた土を軽く払いながら考える。何だったんだかな。