すずめにきいてもわからない「うわ」
思わず声が出て、俺はアパートの階段を踏み外しそうになった。
今日の最低気温は三度だ。しかも今は夜の十時で陽はとっくの昔に落ちている。さむー、なんて思いながらバイト先から家まで早足で帰ってきたのに、その家の玄関前にうずくまる人影があったら思わず声も出るだろ。心臓止まるかと思った。でもその人影の心臓はすでに止まっているかもしれない。
なんて思ったけど、膝を抱えてその隙間に頭を埋めてなるべく身を小さくしていた人物は俺の声を聞いてからゆっくりと顔を上げた。よかった、生きてる。というかマジで家の前で人が死んでいたらどうしたらいいんだ? 警察に通報?
「あー」
目が合った尾形さんはどうにか声を発したが、寒さで口がうまく動かせないようだ。俺は早鐘を打つ心臓に「大丈夫、大丈夫だったから」と言い聞かせながら階段を登りきって、自宅玄関前、つまり尾形さんの正面に立つ。
「何してんすか……」
半ば呆れながら家の鍵を開けた。いつからここにいるのか分からない尾形さんは、立ちあがろうにも体がうまく動かせないようだ。うう、と悔しそうに呻いているのを見て、仕方ないので手を貸す。尾形さんが退いてくれないと、俺も家の中に入れない。ドアが開けられないのだ。
がくがく震えている尾形さんは返事がない。ばんばん背中を叩きながら尾形さんを無理やり立たせて家の中に押し込む。玄関先で倒れこむ尾形さんの靴を脱がせて、俺は先に部屋の中に入る。こたつの電源を入れて、中に毛布も押し込んだ。
いまだに玄関先に座り込んだままの尾形さんに肩を貸して、どうにかこたつの中に下半身を入れさせた。冷えきったコートを脱がそうとしたら抵抗してきたので「代わりに毛布あげますから!」と訴えてどうにか脱がす。約束通り、こたつの中からほかほかの毛布を出して、尾形さんの肩にかけた。
すごい暖かいので、毛布ごと尾形さんを抱きしめる。がくがく震えていた尾形さんも、ぶるぶるぐらいになってきた。よかったよかった。
「夕飯食べました?」
「食べた……」
「ココア作ったら飲みます?」
「飲む……」
もぞもぞと毛布の中から腕を伸ばした尾形さんがテレビのリモコンを掴んだ。立ち上がった俺はそれを見てテレビ本体の電源を入れる。ザッピングを始めた尾形さんの後ろ頭を見て、ひとまず安心した。
マグカップに牛乳を注いでレンジに入れる。お笑い番組でチャンネルが落ち着いたようで、テレビの中から笑い声が聞こえてきた。それに合わせて尾形さんも笑ってくれればいいんだけど、そういえば尾形さんってバラエティとかネタ番組とか見ててもあんまり笑わないよな。笑わないのにそこでチャンネルが落ち着くのは不思議。好きなのかな?
温め終わった牛乳にココアの粉を入れてぐるぐる混ぜる。
「できましたよー」
尾形さんの前に置くと、少し嬉しそうな空気になった。くんくんココアの香りを嗅いでから、一口ちょびっとだけ飲む。
俺はシャワー浴びるかな。その後にココア飲むのありかも。なんて思いながら服を脱ぐ。ワンルームの我が家に脱衣場なんてひんやりする場所はない。いいんだか悪いんだか。
「これ」
ドライヤーを終えて、髪に櫛を通していた俺に尾形さんは一つの包みを見せてきた。確かに何かを大事そうに抱えているなーと思っていたけど、それが何かは聞いていなかった。
「どうしたんですか?」
「貰った」
「はぁ……」
尾形さんがガサガサビリビリと包み紙を破りながら開けると、中に入っていたのはもこもこのカーディガンとパジャマだった。カーディガンには毛の長いお高そうな猫が大きく刺繍されている。
「ここに置く用のパジャマ」
「はぁ……え? うちに置くんです?」
「そうだ。お前の服は長さが足りない」
「いやいやいや、自分ち帰ってくださいよ」
「嫌だね」
そう言って尾形さんはいそいそとパジャマに着替えた。サイズが合っているそれは、確かに手首足首が隠れている。俺のパジャマを着たときとは大違いだ。猫のカーディガンも羽織って得意げにしている。
俺もココアを飲もうかと思ったけど眠くなってきたな。明日は休みとはいえ、今日は朝が早かった。
尾形さんの背中の猫の頭を撫でる。もこもこカーディガンは手触りが気持ちよくて、うわー、これめちゃくちゃいいな。実家で飼ってた猫を思い出す。猫……撫でたい……撫でられなくてもいいから好きに生きてるのをそっと見守りたい……。
俺が尾形さんの背中の猫に頬擦りをしていると、尾形さんはテーブルの上のシル◯ニアの赤ちゃんに興味を持ったようだ。箱をつついて、持ち上げて、ひっくり返して、よーく眺めている。そういえばそれも猫だな。無意識で猫を求めているのかもしれない。
尾形さんの肩に顎を置いて、足だけこたつの中に入れる。
「それ、可愛いですよね」
「かわ……?」
「買うつもりなかったんですけど、目が合っちゃって」
「目が……?」
「言いません? ぬいぐるみと目が合って〜、みたいなこと」
「言わない……」
顔は見えないが、尾形さんは信じられない、という表情をしているんだろうな。声にその気持ちが乗っている。信じられないのは往来でキスするそっちの精神だよ、と思うけど口にはしない。
あれ以来尾形さんは俺にキスしてこない。あのときは一緒にいた男の人から離れたかった緊急事態だったんだと思うことにした。またはべろんべろんに酔っ払うとキス魔になるとか、そういうやつだ。
シル◯ニアの箱に手を伸ばすと、尾形さんが手のひらに乗せてくれた。そのまま尾形さんの腹の前で箱を開ける。
赤ちゃんは双子なので、手押し車に乗っているお座りポーズの子とそれを押している四つん這いの子が入っていた。俺は二匹を手の上に乗せてよく見比べる。うーん、どっちも可愛いんだよなぁ。でもまぁ、仕方ない。クリスマスだしねぇ。
尾形さんの手を取って、四つん這いの赤ちゃんをころりんと乗せる。
「んー?」
「あげます」
「んんん?」
不思議そうな声を上げた尾形さんは、手のひらの上の赤ちゃんをころころと揺らした。尾形さんの手の中にシル◯ニアの赤ちゃんがいるのって変な感じだな。可愛い赤ちゃんと尾形さんのゴツゴツした手の対比がすごい。尾形さんがシル◯ニアの赤ちゃんを持つタイプに見えないから余計かも。
上から手をかぶせて赤ちゃんをサンドする。
「ハッピー注入、です」
「……何だそれ」
「あー、なんか、親が言ってたんですよね。芸人のネタみたいなんですけど」
「ふーん……」
どういう生活してんのか分かんないけど、尾形さんはもう少しハッピーオーラがあった方がいいと思うんだよ。少なくとも、人んちの前でガックガクに震えながら体を小さくして待つなんてしない方がいいと思う。これは本当そう。いくら東京だからって寒いんだから死ぬぞ。
「ちゃんと家で寝てくださいよ」
「んー……」
むぎゅ、とシル◯ニアの赤ちゃんごと俺の手が尾形さんの手でサンドイッチになった。返事を濁してはぐらかすつもりだなぁ? これが夏ならそこまで心配にならないんだけど、冬だぞ? 家がこの辺にあるなら、そっちに帰った方がいいだろ。
「おーがたさーん?」
「んー」
軽く尾形さんの耳に頭突きをする。こたつの中に入れている両足を閉じて尾形さんの体を挟む。
「家」
「はい」
「ここも家」
「……俺んちですよ?」
「家は家」
「自分ちってことですよぉ」
「ここだと、夏太郎がいる」
「んぇ?」
変な声が出た。
まあそりゃ俺んちだからね? 俺がいないのに尾形さんだけいたら怖いよ? 他の人がいても怖いんだけど。
はあー、なんだかなぁ。
「夏太郎?」
「んー……、まぁ、はい」
流されちゃう俺が悪いのかな。そんなこと言ったら一番最初に尾形さんを助けたのが、とか考え始めるけど、答えは出ない。
誰かに聞いたら分かるかな?