口付ける場所の、その意味は5月23日。
仕事で共に来たフェンリッヒとエミーゼルは、目の前で色めき立っていた者たちが目に入る。
「今日ってキスの日よね!!」
「まぁ、そうなんですの?初めて聞きましたわ」
「おねえさまは乙女のイベントには詳しいデスね!」
きゃあきゃあと響く三人娘の会話を、たまたま耳に挟んでしまう。
エミーゼルは少し眉間に皺を寄せて、軽くため息混じりに口を開く。
「またなんか言ってる…どこから来るんだ、その情報」
「知らん。どうでもいい」
「あ、フェンリっちとエミーゼルじゃん!ふたりが一緒って珍しいね」
ふたりに気付いたフーカが手を振る。
面倒臭いのに絡まれた、とフェンリッヒは苛立ちを隠すことなく舌打ちをした。
当然、そんなのに臆するフーカではない。
「お前って、そういう情報は知ってるんだよなぁ」
「なに?ああ、キスの日のこと?アンタ、興味あるんだ〜?」
「ババ、バカ!!」
完全に反応が思春期のそれである。
フーカは「ふ〜ん?」とニヤニヤとした笑みを浮かべて言いながら、フェンリッヒを見た。
「フェンリっちは、そういう相手引く手数多っぽいわよねえ」
「…勝手な妄想で物を言うな。というか、もしそうだったとしてもキサマには何の関係もない」
傭兵時代は依頼だったり情報のためだったりで、女性と関係を持ったことはあっても、フェンリッヒ自身恋人というものに興味がなかったので、そういう人間の恋人同士が騒ぎそうなことは当然知る訳もない。
「なんか、歩いててもたまにフェンリっちのことクールで好き〜って言ってるコいるけど、これの場合はクールじゃなくて辛辣って言うのよね」
「せめてそういうことは本人がいない所で言ってろ。それに、優しくする必要がどこにある?くだらん」
「え〜、じゃあフェンリっちはキスされそうになったらどうするわけ?」
「この女は……そうだな、誰が相手でも、その喉に喰らいついて掻っ捌いてやる」
「か、かっさば…」
フーカたちどころか、悪魔のエミーゼルでさえ引くような声と言葉に、フェンリッヒは不満気に鼻を鳴らした。
そこに近付くひとつの足音。黒いマントがパサリと揺れる。
「フェンリッヒ。ここに居たか」
「…閣下!申し訳ありません、遅れました」
「構わぬ。それが報告書か」
「はい」
「ではこちらへ来い。小僧、ご苦労だったな」
「あ、ああ。じゃあボクは帰るよ」
主従がいなくなり、エミーゼルは帰ろう─としたのだが、服を掴まれる。
「仕事終わったんでしょ?なら話しましょ」
「は!?何をだよ!」
「あの動揺は、そういう方がいらっしゃるということですわよね?」
「ぜひお話聞かせて欲しいのデス!」
「違うっての!放せ〜っ!!」
ラヴ話大好き3人組に引っ張られていくエミーゼルであった。
執務室にふたりだけになる。
フェンリッヒは背筋を正して報告をした。
「…ひとまず、こちらが報告書でございます。問題視しておられた、地獄ヶ原の方面の汚染は、大統領府の協力もあり、大分緩和されるはずです」
「うむ。………問題ない。さすがは小僧と我がシモベだ」
「お褒めに預かり光栄でございます」
「それと…こっちに寄れ、フェンリッヒ」
「?はい」
疑問を持ちつつ寄っていくと、机を隔てて、ヴァルバトーゼがフェンリッヒのジャケットを持って引き寄せる。
唇が重なり、状況が掴めないフェンリッヒは目を丸くした。
顔が離れると、ヴァルバトーゼは意地の悪い笑みを浮かべる。
「クックッ、なんだその顔は?…それで?喉に噛み付いて掻っ捌くのか?」
「…!!閣下、聞いていらして…!!」
「まぁ、喉に噛み付かれることはあるがな」
「うぐ…っ」
「俺があまり肌を出さぬ服を着ているとはいえ、さすがに噛みすぎだ」
「…申し訳ありません。気持ちが昂るとどうしても……」
申し訳なさそうにするフェンリッヒに、ヴァルバトーゼはフフ、と笑った。
「別に怒ってはおらん。飼い犬に噛まれるのも、たまには悪くない」
「…わたくしを犬扱いするのは、地獄広しと言えども閣下だけでしょうね」
「当たり前だ。お前を犬扱いする輩がいたら俺が噛み付いてやる」
得意げに言う主に、フェンリッヒはため息をつく。だが、その表情は嬉しそうだ。
「そもそも、キスの日とやらは人間が勝手に決めたことでしょう。閣下が乗っかることはないのでは?」
「まあ、そう言うな。こういう日に“恋人”としてそういうイベントを踏むというのも悪くはないであろう」
「はあ…」
“恋人”という契りを交わしたのはつい最近の話。
この主の、人間の真似事に興味を持つことと、持たないことの境目がわからない。
「それに、恋人というのもあるが…」
「はい?」
「…その、お前となら、そういうのも楽しいかと…思ってな」
急に素直になったと思えば、急に顔を赤らめて目線を外す。それを素でやってのけるヴァルバトーゼに、フェンリッヒは頭を抱えた。
「…そうですか。なら、わたくしも乗っかってみましょうかね」
「は?」
フェンリッヒは素早く距離を詰め、ヴァルバトーゼのチョーカーの留め具を外し、その首に噛み付いた。
「っあ…っ!」
噛み付いた後に舐めて吸い付く。
それだけで、赤い華がそこに咲いた。
「急に何を…!」
「申し訳ございません。我慢が出来ませんでした。…しばらく、チョーカーの位置にはお気をつけくださいませ」
チョーカーを付け直した後、トントンと首を指で叩く。
意味がわかったヴァルバトーゼが睨みつけるが、潤んだ瞳などに凄みがある訳はなく。
「…ヴァル様、あまり煽らないでくださいね。まだ仕事中ですので」
「あ、煽ってなどおらんっ!!」
「…これが天然だから困る」
フェンリッヒは散らばった報告書を集め、机の上に丁寧に纏めて置いた。
「ちなみにヴァル様。キスというものはする場所によって意味がある、というのはご存知ですか」
「む、そうなのか?」
「ええ。唇は愛情。首は……─ふふ。秘密にしておきますか」
「…なんなのだ、お前は」
「少しの意地悪ですよ。それでは、わたくしは一度出ますので」
「あ、ああ…」
─首へのキスは、執着。
愛情や恋情などといった、かわいいものではなく、もっともっと深い感情。
主がどんな感情を持っているのかは知らないが、自分はそんなことで満足出来る欲ではない。
知識欲のある主はきっと、意味を調べることだろう。その時に、己の感情を知ってくれれば、と執事はひとり黒く微笑んだ。
(…流石にそこまで叶うとは思っていませんが─あなたのすべてが貰えればわたくしは満足ですよ、ヴァル様)
──後日、首へのキスの意味を知ったヴァルバトーゼが、フェンリッヒが向けてきた感情の名を知り、しばらく顔を見れなくなったとか。
終わり