シモベを煽るものはそれは珍しく、主従が共にいなかった日。
フェンリッヒは他の魔界へ出張のようなものへ行っていて、ヴァルバトーゼは普段の仕事をこなしていた。
出張と言っても、向こうの悪魔と化かし合いのようなことになることも少なくない。その点で言えば、話術に優れるフェンリッヒ以上の適役はいないのだ。だが、優秀なシモベがいないと言うのは、それだけで負担な訳で。
(……あいつが居ないだけで、こんなに疲れるとは…いつも無理をさせているのか…涼しい顔をして…)
普段は休憩をあまりしないヴァルバトーゼも、人目につかない所で少し休んでいた。
目を閉じていた彼の意識を浮上させたのは、女性たちの声。
最初は見つからなければいいか、と考えるヴァルバトーゼだったが、ひとりの言葉で目が冴えることになる。
「─アンタ、フェンリッヒ様狙いなワケ?」
「だって、カッコよくない!?私も仕えてもらいたーい」
「アンタじゃ無理無理」
「わかんないでしょ!出張から帰っていらしたら、声かけてみよっかなー!」
「なに、誘惑でもするつもり?惨敗するからやめときなよ」
「ふーんだ、見てなさい!私が成功者第一号になるんだから!」
それは明らかにシモベを誘惑しようとする女の声で。
シモベといっても、兼恋人なのだが。
フェンリッヒという悪魔は、基本ヴァルバトーゼにしか興味がなく、何と言い寄られても「有象無象に興味などない」とバッサリ切り捨てるほどだ。先程の女性が言うように、惨敗するのは目に見えていた。
しかし、信じていても不安にはなる。
(あいつが、もし心変わりをしたら?…俺から、離れていってしまったら?)
そう考えたところで、首を横に何度も振った。
疲れているから、こんな思考になるのだと。
だが一度胸に住み着いた不安は消えることなく。紛らわせるようにプリニーたちが心配するほどの勢いで仕事を終わらせたヴァルバトーゼは、早めに自室へと戻ることとなった。それは考える時間も増えるという訳で。
(……遅い)
フェンリッヒが帰ってくる時間はとうに過ぎていた。
時計を眺めながら、ヴァルバトーゼはモヤモヤで何も手につかない。
ため息をついた時、ドアがノックされた。
「閣下ー、お食事持ってきましたッスー」
「…ああ、すまんな。…ところでプリニーよ、フェンリッヒはまだ帰らんか?」
「え?フェンリッヒ様ならさっき帰ってきたッスけど…まだお会いしてないッスか?」
「帰ってきた…?」
なら何故、まずはここに来ない。
そう言いたい言葉をグッと喉に飲み込んだ。その言葉は、目の前のプリニーにぶつける訳にはいかないのだ。
プリニーが戻っていき、再び部屋にはひとりの状態になる。
女悪魔の言葉がグルグルしていた。
(…やはり、あいつは─)
嫌な考えが出た瞬間、ヴァルバトーゼの部屋のドアがまたノックされた。
「…開いているぞ。誰だ」
「閣下、失礼します」
「フェンリッヒ…!」
「お待たせして申し訳ございません」
入ってきたのは、彼が待ち焦がれていた人物だった。
いつものジャケットではなく、茶色の革のジャケットに身を包み、その下は黒のタートルネックのシャツを着て、長い髪は赤いリボンで纏められていたそれは完全に余所行きの格好で、彼の見た目の良さを際立たせていた。
部屋に入ると、流れるような所作で傅く。
「少しゴタつきまして…遅れましたこと、お許しください」
「……良い。顔を上げろ」
「有り難き幸せでございます」
顔を上げたフェンリッヒの表情は、穏やかに微笑んでいた。
ヴァルバトーゼ以外には見せることのない顔だ。
(…何故、何も言わぬ?あの女に声をかけられたのではないのか?気にしていないから言わぬのか、それとも……)
「ヴァル様?」
「ッ!!」
覗き込んできたその顔に思わず赤面し、ヴァルバトーゼは咄嗟に距離を取る。
だがそれを意に介さず、フェンリッヒはゆっくりと主の手をすくい上げてその甲に口付けを落とした。
「何をお考えなのかは存じませんが、今はわたくしとふたりきりなのですから─その心、わたくしにも分けて欲しいものです」
とびきりの甘い声、甘い仕草。
それは普段なら甘い空気になる所だが、今のモヤモヤを抱えたヴァルバトーゼには逆効果だった。
「─うるさい!浮気者めっ!!」
「……は?」
そこで口から勝手に出た言葉にヴァルバトーゼは焦った。
顔は見ていないが、シモベの空気と声が完全に不機嫌な時のそれになったのだから。
「…ほう?浮気者、ですか?何を疑っておいでですか」
「あ、いや、それはだな……」
「…ご無礼をお許しください」
「は?─うぐっ!?」
ソファーの上、ヴァルバトーゼは両腕を掴まれて強引に押し倒された。
倒された後に片手で両腕を纏めて頭上で掴まれ、もう片手が顎を持って強制的に目線を合わせられる。
「疑うということは、理由がおありなのですね?」
「いっ…!」
「答えてください」
ギリ、と腕が音を立てた。
その目には怒気だけが含まれている。
普段ならこんなに乱暴な真似は絶対にしない。それ程怒っているということなのだろう。
どうにも出来なくなり、ヴァルバトーゼは耳に入った女たちの話と、それが不安だったということを吐露した。
「─ということがあっただけだ」
「…そういうことでしたか。…確かに、帰ってきた時に女には声をかけられましたが」
腕を放したフェンリッヒはそう話し始めた。
その声色は、「そんなこともあったな」とでも言いたげだ。
ヴァルバトーゼも起き上がり、座って話を聞いた。
「別にやましいことがあった訳ではなく…あれが誘惑などと、笑わせるなという話ですよ」
「ゆ、誘惑されたのか」
「そのお話しから察するならば、そうなのでしょう?」
本当にしたのか、と勇気ある女性に心の中で言葉を投げかける。
といっても、当の本人には気付かれていないようだが。
「わたくしには、閣下が真っ赤な顔で震えている方が余程劣情を煽られます」
「ば、馬鹿者…」
顎に指をかけられ、微笑まれる。
このシモベは素でそういうことを言ってのけるのだ。
「そうですね。言わなかったのではなく……気付かなかった、ということです」
「そうか。…悪かった、あんなことを口走って」
「構いませんよ。…ですが、疑われたことは正直面白くない」
「は、わっ」
謝り許され終わり──とはいかない訳で。
慣れた手つきで再び押し倒され、あっという間に押さえつけられる。
ニコリと笑うその顔からは、嫌な気配だけが漂っていた。
「浮気?…わたくしが、どれ程の間あなたのことを想ってきたか、どれ程想っているのか、わかっていないのですね?」
「いや、その」
「ヴァル様以外の有象無象にどう思われようと、知ったことでは無いです。わたくしは、あなた以外要らないと言っているのに」
重なった唇が、ちゅ、と音を立てて離れる。
マズい、とヴァルバトーゼは本能的に思った。
「わたくしの想いが伝わっていないようですので、じっくりと教えて差し上げます。今日は少し気が立っているので、無茶をしないためにも我慢しようと思っていたのですが…そうにもいきませんね」
「いや、ちょっと待て」
「待ちません」
もう一度唇が重なる。
しかしそのまま離れてはいかず、唇を舐められた。
「ヴァル様。口を開けてくださいますか」
「待て、あれは…んぅ!」
舌同士が無理矢理絡められる。
息がしづらく、ヴァルバトーゼが苦手だと言うので、ほとんどしないキスだ。
絡めた指をギュッと握って抗議しても無駄だった。
(…食われる……)
文字通り貪るようなキスがようやく終わった時には、ヴァルバトーゼは息も絶え絶えだった。
「…ほら、やっぱり。あなた様のそういう顔の方が、わたくしは余程好みですよ」
「お前は…!!」
「お嫌でしたら、舌を噛んででも逃げてください」
「そんなこと出来るわけなかろう!?」
「でしたら諦めてください」
舌を噛んで血でも飲んでしまったら大変だということを分かった上でフェンリッヒも言う。
逃げていいと口は言うが、目は絶対に逃がさないと言っている。
(やっとだ。やっと手に入れたのに、この手に抱くことが出来たのに。易々と逃がすわけが無い)
そんなことを考えるフェンリッヒの口が弧を描く。悪いことを考えるその顔が、己を求めるそのギラつく目が。全てがヴァルバトーゼを煽る。
(…ああ、要らぬ事を口走るものでないな)
その教訓を胸に刻みつつ、ヴァルバトーゼは来たるシモベに備えるのだった。