それでも満月は昇る傍を歩いていたヴァルバトーゼの体が不意にかしいだ。すぐに腕を伸ばしてかつての逞しさの面影もない細い腕を掴まえて体を支える。
「すまない」
その声も常のような張りはなく疲労が滲んでいる。以前の閣下ならば決して聞けない声だった。
「そろそろ休まられてはいかがです」
「だが……」
「魔力を失った貴方様は以前よりも体力が落ちていらっしゃるのです、一度眠りましょう」
「……すまん世話を掛けるな」
「閣下の世話を焼くのが私の務めでございます」
ふっと細い体から力が抜ける。その体を丁寧に抱えると主人を休ませるべくフェンリッヒは近くの空き家に入った。横抱きにした体はひどく軽い体だった、今にも風に吹き飛ばされてしまいそうなそんな感想を抱かせるほど。
適当に埃や砂を払って主をこの家でまともに形を保っている生地が傷んだソファの上に寝かせて薄い毛布をそっと掛ける。本来なら棺で寝るのが吸血鬼の習慣だがヴァルバトーゼの持っていた棺はとっくの昔にならず者の悪魔たちに壊されてしまった。
血を吸わなくなり魔力を失ったヴァルバトーゼはあっという間に衰え弱くなってしまった。
かつての力が漲る体も痩せ細り、魔力はほとんど感じられず、振るう力は弱々しい。加えて魔力の無い体は頻繁に休息を欲するようでここ最近の閣下は眠ってばかりいる。今日も二日ぶりに起きたところだったのだが数時間も経たない内にこのように眠ってしまった。
魔力の無い状態が悪魔にとってどれほど苦痛か、以前姦計に嵌められたフェンリッヒは嫌と言うほど思い知っている。
それでもなおこの方は人間との下らん約束ごときのために頑なに血を吸おうとはしない。頑固などでは足りない異常なほどの意思の強さ。それは美点でもあり主を苦しめる元凶にもなっている。
悪魔なのだから苦痛を厭って欲望のままに人間の血を吸えば良いのにと思うがそれをしないのが我が主なのだと堂々巡りの考えだけが頭を占める。
「次はいつお目覚めになるのですか閣下」
主が動いてくださらないと私も動けないのですよと深い眠りに落ちている主に向けて呟く。
別に魔力を失った貴方でも構わないなどとほざく気はない、俺が惚れ込んだのは暴君の貴方だ。
けれど今の姿を見ても月の誓いは欠片も揺るがない、誓った当初に思い描いていた未来とは似ても似つかないと言うのに。
前に閣下に付いてくる必要はない、別の主を探すが良いと言われたことを思い出す。傭兵をやっていた頃の自分なら言われるまでもなくそうしていただろう、けれど。
「知っていますかヴァル様、人間と言うものは他人同士であっても長らく過ごしているとお互い似てくるそうですよ……私のこの頑固さはひょっとしたら閣下の影響を受けたのかもしれませんね」
静かに眠る主の寝顔を眺める。こんな状況であっても心折れず瞳からは決して力が失われない閣下の精神の在り方が不変であることだけがフェンリッヒを勇気づける。今はただこの眠りを守ろう、それしかできることはないのだからと独り心に誓った。