星の夜 星を見に行かないかという誘いに、ハウレスの主人であり恋人でもある女は、にっこり笑って頷いた。拒否されるとは思っていなかったが、それでも受け入れられると嬉しいものだ。ハウレスは微笑みを返し、彼女に手を差し出した。
陽はとうに落ちて、屋敷には夜闇が蟠っている。ロウソクだけが光源の視界では足元が疎かになるからと、女が夜の屋敷を歩くときは、その日の担当執事が手を引いてエスコートするのが常となっていた。
主人の部屋のある二階から階段を上がり、三階の細い廊下を奥へと進む。見張り台へと続く階段を上がって扉を開け放てば、一気に視界が開けた。
「屋敷の中より、外のほうが明るいんだね」
歓声に続けて、女が言う。彼女の視線はすでに、数多の宝石を散りばめたような星空に釘づけだった。
「そうですね。今夜は月がないのでもう少し暗いかと思っていましたが……ここは、空に近いからでしょうか」
応えるハウレスの視線は、空を仰ぎ見る女の横顔に向けられている。花や景色、今年の夏にフガヤマで花火を見たときもそうだった。主人とともに美しいものを見るとき、ハウレスの視線はいつも彼女の横顔に吸い寄せられてしまう。
だって、美しいのだ。暗い色の瞳に星を映し込んだ彼女の横顔は、ハウレスにとっては満点の星空よりよほど魅力的だった。
「……っくしゅん」
すっかり女に魅入っていたハウレスを我に返らせたのは、彼女の溢した小さなくしゃみだった。今の季節はまだ、そこまで冷え込みが厳しいわけではないが、部屋が温かかった分、寒く感じるのかもしれない。
ハウレスはとっさに、恋人を抱きしめた。こうして触れ合うとき、彼女はいつも「ハウレスは温かいね」と言ってくれるのだ。
「……ふふ」
大人しく腕の中に収まった女が、今度は小さく笑い声を立てる。どうかしたのかと訊ねると、彼女は嬉しいのだと答えた。
「嬉しい、ですか?」
「うん。だって、執事としてのハウレスはきっと、こういう方法は取らないでしょう?」
言われて初めて、ハウレスは自分の行動の大胆さに思い至った。
確かにそうだ。執事としてのハウレスであれば、くしゃみをした主人にこんな態度は取らない。来たばかりではあるが体を冷やすといけないからと言って、部屋へ戻ることを提案するか、さもなければ、自分の上着を脱いで差し出すだろう。こうなることを想定して、最初からブランケットを用意しているような気もする。
「そう、ですね……すみません、とっさに体が動いてしまって……」
「謝らないで。嬉しいって言ったでしょう?」
細い腕が、ハウレスの背に回る。彼女は体の力を抜いて、凭れるように恋人の胸に顔を埋めた。
「執事だから、主の私を大事にしてくれるんじゃなくて。ただの私を、私だから大事にしてくれてるんだってわかって、嬉しいの。それに、執事としてじゃなくて、恋人として傍にいることに慣れてくれたことも」
主人と使用人としてではなく、互いを思い合う恋人として。それは自分だけではなく、彼女にも言えることだろうとハウレスは思った。
ハウレスたちが良き執事で在ろうと振舞うように、彼女もまた、良き主人で在ろうと心がけている。線を引いて、踏み越えないように。どんなに疲れて辛くとも、過分なわがままを言って困らせないように。
今、こうして温もりを求め身を寄せてくれるのは、ハウレスが彼女の恋人だからだ。主人ではない彼女は結構甘えただし、可愛らしいわがままも言う。そういうところが愛しくて堪らないと、ハウレスは常々思っていた。
「しかし、これでは星が見えないですね」
「確かにそうだねえ」
楽しそうに笑い声を立てた女が、ハウレスの胸に手をつく。意図を察して少しだけ身を離すと、間近に星のような瞳が見えた。
「もう少しだけ、こうしていたい……って言ったら、困る?」
「いいえ。俺も、同じことを考えていました」
「……そっか」
はにかんだ恋人と、そっと額を合わせる。どちらともなく目を閉じて、やがて唇が重なった。
もう少し、あと少し、このまま。愛しいひとと温もりを分け合うひとときに浸っていたい。同じ願いを抱いていると知っているから、二人はしばらく腕を解けなかった。
そんな恋人たちの頭上で、星々はただ静かに瞬いている。宝石を散りばめたような輝きは、人間たちがその美しさを逢瀬の口実にしていることなど、知らぬ存ぜぬと言わんばかりだった。