待てと言うならいつまでも 主人の帰宅時刻五分前になったのを確認し、ユーハンは出迎えのため本邸の玄関へ向かった。
今朝、主人は「帰宅はいつもどおりだと思う」と告げ出掛けていった。彼女が「いつもどおり」というときは、十分から二十分くらいの誤差はあるものの、だいたいこのくらいの時間に帰ってくる。
ユーハンは姿勢よく立ったまま、主人の帰宅を待った。だが、十分経っても、二十分経っても、彼女が戻ってくる気配はない。尤も、不思議な指環の力で二つの世界を行き来する彼女の帰還は、予兆も気配もなく、突然であるのが常なのだけれど。
そのうち帰ってくるだろうと思っていたユーハンだったが、予定の時間から一時間が経って、さすがに不安を感じた。
事件や事故に巻き込まれたのではないか。突然の病気や怪我で、身動きが取れなくなっているのかもしれない。彼女を狙う不届きな輩に襲われて、恐ろしい目に遭っていたとしたら。
良くない想像ばかりが、もくもくと膨らんで影を落とす。堪らなくなって、ユーハンはぎゅっと拳を握りしめた。
こちらの世界にいるときであれば、たとえなにを犠牲にしてでも、彼女を害する全てからきっと守ってみせるのに。世界を超える術を持たないユーハンは、あちらで主人が危機に瀕し助けを求めていても、駆けつけることさえできない。
「……――様」
怯える心を宥めるように、普段は呼ばない大切なひとの名前を呼ぶ。深呼吸をしながら、脳裏に彼女の穏やかな笑顔を思い描けば、雷雲のような真っ黒い不安の塊が、少し小さくなった気がした。
「心配事のほとんどは、実際には起こらない……でしたね」
ユーハンは、先日の講習で習った内容を思い出した。執事として身につけなければならない知識は多岐に渡る。二重生活を送る主人を癒し、支えるため、このところユーハンはメンタルケアについての学習に力を入れていた。
主人のために学んだ知識が、己の心を守るのにも役立つとは。それは言い換えれば、彼女の存在がユーハンを守ったとも言えるだろう。主人が聞いたら、大げさだと苦笑しそうだ。誇張など一切なく、ユーハンは心からそう思っているというのに。
「……早く、お顔が見たいですね」
命を救われてからというもの、ユーハンは寝ても覚めても、彼女のことばかり考えてしまう。そうやって想いを向けられる相手がいるのは幸せなことだ。
ユーハンは夜が更けても、主人を待ち続けた。背筋を伸ばした美しい姿勢のまま、玄関に立ち続けたけれど――シャンデリアに点された火を消す時間を過ぎても、彼女は帰ってこなかった。
◇
小さく呻き声を上げ、女はぱちりと目を開いた。自分が寝ていたことに思い至ると、慌てて身を起こし時計を見やる。時刻は深夜の一時を過ぎていた。
「うっわ……がっつり寝ちゃった……」
押し寄せる眠気に耐えきれず、帰宅してすぐ、仮眠のつもりで横になったところまでは記憶がある。部屋の電気は煌々と灯されたまま。服も帰ってきたときのままで、化粧すら落としていなかった。
せめてアラームを設定できればよかったのだが、そこまで意識が持たなかった。すぐそばに転がっていたスマホをつけるとアラームの設定画面が表示されたので、寝る前の彼女が、どうやら同じことを考えたらしいというのが伺えた。
「……さすがにもう寝てるだろうけど」
呟きながら、女はメイク落としシートのケースを開けた。しっとりとしたシートを引っ張り出し、顔の表面でどろどろになっているメイクを拭き取る。ボディ用の汗ふきシートで体も拭き、服を着替えると、さっぱりして人心地ついた。
彼女は通勤用のカバンを手に、肌身離さず持っている金の指環を取り出した。
「よし、行こう」
屋敷の消灯時刻はとうに過ぎている。このままこちらで夜を過ごしても構わないのだろう。けれど、本日の担当執事はシノノメ・ユーハンであるということが、女はどうにも気にかかった。
予定通りに帰れなくて心配をかけてしまうことは、誰が担当執事であっても変わらない。むしろ担当であろうとなかろうと、執事たちは皆、心配してくれるだろう。
だが、ユーハンは大切なものを喪ってからまだ日が浅い。帰ってくるはずの者が帰ってこないというのは、傷を負ったばかりの彼の心には負担が大きいのではないか。
それに忠義心に厚い彼は、いつもどおりに帰ると言った女の言葉を信じて、まだ起きて待っているような気がした。
彼女は指環を嵌めた。くるりと世界が回るような感覚のあと、目を開ける。すると、そこは見慣れた屋敷の寝室だった。
◇
――主様は、今夜はもう、お戻りにならないのかもしれない。
消灯時間を過ぎても帰ってこない主人に、ユーハンは落胆を隠さず嘆息した。
本当なら、別邸へ戻って休むべきなのだろう。悪魔執事は貴人に仕えるただの執事と異なり、天使の襲撃があれば戦わなければならない。それに備えて日々のトレーニングも欠かせないので、体が資本なのだ。
けれど、ユーハンは主人の寝室に場所を変えて、彼女を待ち続けることを選んだ。
いくらか小さくなったとはいえ、大切なひとの身になにかあったのではないか、という不安が完全に消えたわけではない。このまま部屋へ戻り休んだところで、どうせ眠れないであろうことは容易く想像できた。まんじりともしない夜を過ごすのならば、起きていたほうがいくらかマシだ。
そういうわけで、ユーハンは主人の寝室にいた。暖炉に火を点し、ロウソクの明かりが絶えないようにして、部屋の主が戻るのを待っていた。
そうして深夜一時を過ぎたころ、ユーハンの待ち人は、ようやく姿を現した。
「あ、主様……?」
「わ、やっぱり待ってた!」
予兆も気配もなく突然現れた主人に、ユーハンはとっさに呼びかけることしかできなかった。彼女は仕事に向かうときの服装ではなく、ユーハンからすると些か心許ないのではと思うような、生地の薄いワンピース姿だ。
向こうで化粧を落としてきたのか、飾り気のない素顔は稚さを纏っている。彼女は薄い眉をぺしょりと下げると、許しを乞うように両手を合わせて頭を垂れた。
「帰ってくるの、こんな時間になってゴメン!」
「あ、主様! 顔をお上げください!」
「本当にゴメン。いつもどおりって言ったのに……」
主人に頭を下げさせるわけにはいかないと、慌てたユーハンの必死の説得によって、彼女は顔を上げたが、申し訳なさそうな表情は変わらない。その様子から、なにか危ない目に遭ったわけではなさそうだと推察して、ユーハンは密かに胸を撫で下ろした。
「謝る必要はございませんよ。こうして帰ってきてくださっただけで、十分でございます」
「でも……」
「では、なにがあったのかお聞かせください」
主人の行動を根掘り葉掘り聞き出そうとするなど、執事の振舞いではない。しかし、帰宅が遅れたことを申し訳ないと感じてくれる彼女が相手であれば、そんな無礼も許してくれるだろう、と。そこにはユーハンの分かりづらい甘えが隠れていた。
「その……今日ね、仕事終わったあと、すっごい眠くてさ。家について、ちょっと仮眠するつもりで横になったんだけど、そのままがっつり寝てしまいまして……」
「なるほど、そうだったのですね」
「本当にごめん……」
しょぼくれる主人に、ユーハンは柔らかい笑みを浮かべた。本当に、彼女が謝る必要などないのだ。
たとえば、ハナマルが仕事をサボって寝過ごしたのであれば、ユーハンとて般若になるのを禁じ得ない。しかし主人は一日頑張って働いて、力を使い果たしてしまっただけだ。にも関わらず、目覚めるなり屋敷に戻ってきてくれた。怒るどころか、感謝しなければバチが当たる。
「主様」
「は、はい」
呼びかけられ、怯えたように居住まいを正す姿が可愛らしい。どうやら己は相当厳しい人間だと思われているらしいと知って、ユーハンはハナマルへの態度を改めるべきだろうかと一瞬だけ考えた。すぐに却下したが。
「お疲れのところ、こうして屋敷に帰ってきてくださり、ありがとうございます。主様にお会いできないまま担当の日を終えるのかと、残念な気持ちでいたのですが……お顔を拝見できて、満ち足りた気持ちで今日を終えることができそうです。お待ちしていた甲斐がありました」
本当に――別邸へ戻らず待ち続けていて、良かった。
「……うん。ありがとう、ユーハン。……ただいま」
そう言って、主人はようやく小さな笑顔を見せる。ただいま。向けられた微笑みと言葉に、ユーハンは胸の奥がじんわりと温もるのを感じた。
「おかえりなさいませ、主様」
応えると、大切なひとが己の元へ帰ってきてくれたのだという実感が胸を満たす。ユーハンに胸の内に黒く凝っていた不安は、いつしか雪が解けるように姿を消していたのだった。