安息の地を探して 天高く、馬肥ゆる秋。
近頃の馬たちは元気いっぱいで、よく食べ、よく走り、よく眠る。前後の話の流れは忘れたが、先日バスティンは主人にそんな話をした。
彼女がいたく興味を引かれた様子だったので、ならばとバスティンは提案したのだ。次の休日に、馬たちの様子を見に来るか、と。
それを聞いて、元より動物好きの主人は目を輝かせた。馬たちのストレスにならないのなら、触ったり乗ったりしてみたい。そう話す彼女はすでに楽しそうで、無表情が常のバスティンまで、つられて笑みを浮かべてしまうくらいだった。
だというのに――これは一体、どうしたことだろう。
「……主様」
「あ……うん。ごめん、ちょっとボーっとしてた。せっかく時間を取ってくれてるのに、ごめんね。今度はちゃんと聞いてるから、もう一回説明してもらえる?」
馬たちと触れ合うことをあんなに楽しみにしていたはずなのに、ブラシを手にした主人はずいぶんぼんやりとしている。表情にも声にも覇気がなく、まるで萎れた花のようだ。
バスティンが、主人を心配していることが伝わったのだろう。馬たちも気遣うように彼女の様子を伺っている。やがて一頭が歩み出て、ブラシを手に所在なく立っていた彼女の頬に、鼻面を寄せた。
すると僅かではあるが、主人の纏っていた空気が柔らかくなる。彼女を見守りながら、手際よく馬をブラッシングしていたバスティンは、アニマルセラピーという言葉を思い出した。
単純に疲れているというだけではなく、憔悴した雰囲気の主人のことはもちろん気になる。本当は今すぐに、なにがあったのか聞いてしまいたい。バスティンにとって、主人はかけがえのないひとだから。
けれどバスティンは、まずは馬たちに任せてみることにした。
彼女の手で救われる以前、人との関わりを遠ざけていたバスティンを癒してくれたのは、他でもない動物たちだった。物言わぬ彼らだからこそ、心の凝った部分を解きほぐしてくれることもあるのだと、彼は身をもって知っていた。
「主様。主様さえよければ、こいつに乗ってみないか」
しばらくして。主人の表情がずいぶんと柔らかくなったのを見て、バスティンは声をかけた。
「うん……乗ってみたい、けど、私にできるかな」
「大丈夫だ。俺がちゃんと教える」
不安そうに言う主人に、バスティンは力強く頷いてみせた。後押しを受けた彼女が頷くのを待って、バスティンは馬の背に鞍をかける。慣れた動作でひらりと跨ると、馬上から手を差し伸べた。
「……教えるって、そういう?」
「? 他になにがあるんだ?」
主人は戸惑ったように目を瞬かせたが、バスティンには彼女がなにに躊躇いを感じているのかよくわからない。ハテナを飛ばしたまま再度手を伸ばすと、今度こそ主人の手が重ねられた。
鐙に足をかけるよう指示をして、握った手をぐいっと引き上げる。小柄な体が、すとんとバスティンの前側に収まった。
「……わああ」
顔を上げた主人から、感嘆が漏れる。その気持ちは、バスティンにもよくわかった。視点が高くなった分、視界が開ける。いつもよりずっと遠くまで見渡すことができて、それだけで爽快な気分になる。
「主様、怖くはないか?」
「ううん、大丈夫。すごいね。高くて、いつもより遠くまで見える!」
「ああ。このまま少し、進んでみよう」
「うん!」
手網を引いて、まずは常歩から。
蹄が地を蹴る音が、ゆったりと響く。バスティンは主人のほうへ一瞥を投げた。最初、躊躇っていたわりに、怖がる様子はない。
「少し、速度を上げる。しっかりと俺に身を預けていてくれ」
「うん!」
次いで、速歩。
足音のテンポが上がって、揺れが大きくなる。主人はバスティンの指示を守って、背中をぴたりと彼の胸につけていた。
触れた場所から温もりが溶け合う。今さら距離の近さに気づいたバスティンは、鼓動が速くなるのを感じた。
「結構速いけど、まだまだ速く走れるんでしょう?」
「あ、ああ。どうする、少し走らせてみるか?」
「うん、お願い!」
応じる主人の声は、すっかり普段の力強さを取り戻していた。バスティンは馬の腹を蹴る。
駈歩は、びゅんびゅんと風を切って進む。このときの景色が後ろへ流れていくさまは、バスティンを風とともにどこまでも行けそうな心地にさせる。
言葉どおり少しだけ馬を駆けさせると、バスティンは手綱を操って徐々にスピードを落とした。慣れないうちは、長時間乗っていると尻が痛くなるからだ。
「すごかった! あんなに速くて、風を切ってビュンビュン進むんだね! なんだかこのまま、どこまででも行けちゃいそう!」
主人はどうやら、バスティンと同じことを感じたようだった。興奮冷めやらぬ様子の彼女に、彼は思わず微笑む。
「主様が望むなら、俺がどこまででも連れていく。主様を苦しめるもの全てを振り切って、この世の果てへでも」
「……バスティン」
驚いたようにバスティンを呼んだ主人は、やがて緩く首を横に振った。
辛いのならば逃げてもいいのだと、伝えたいことは上手く言葉にならなかった。だが主人は、バスティンの言葉に込められた真意を、きちんと汲み取ってくれたらしい。
「ありがとう。でも……私は、帰るよ。一緒に帰ろう?」
「…………ああ、そうだな」
主人の答えは、バスティンが望んでいたものではなかった。辛いのなら逃げ出してしまえばいいものを。しかし彼女は戻るという。
「……主様。これだけは、どうか覚えていてほしい。もしも世界中の全てが敵になったとしても――俺は最後まで、あなたの味方だ」
ならばせめて、と。祈るような気持ちでバスティンは言葉を紡いだ。彼女には、のびのびと健やかに生きていてほしい。そのためならば、バスティンはどんなことだってできる。
「……ありがとう。バスティンのおかげで、もうちょっと頑張れそう」
「……そうか。だが、頑張りすぎには注意だ」
「うん、わかってる。気をつけるよ」
「そうしてくれ」
バスティンは馬首を返した。来た道を主人と二人、パカパカと鳴る蹄を聞きながら戻っていく。
もしもまた、彼女が萎れてしまいそうになったら、ここへ来よう。日々の憂いも疲労も、馬上で切る風の中に捨ててしまえばいい。
彼女の望むまま、どこへでも行こう。どこか遠く、逃げることを選びたがらないこのひとの心が、休まるところまで。
今日の夕食はなにかな〜と、主人はずいぶん平和な話を始める。背後で決意を固めていたバスティンは、そんなことはおくびにも出さず、彼女の話に相づちを打つのだった。