守護者の定位置 ある日の、夕食後のことだった。
屋敷の主人である女は、団欒室で執事たちとトランプに興じていた。ババ抜きから始まり、神経衰弱、大富豪を経て、そのときはちょうど七並べをしている最中だった。
「よお、盛り上がってるみたいだな」
顔を出したのは、主人の担当執事を務めるボスキ・アリーナスだ。ボスキは食事をとるため一旦女の傍を離れており、その間は同じ二階の執事室に暮らすフェネスが担当を代わっていた。
「あ、ボス〜、お疲れ〜」
手札とにらめっこをしていたラムリが顔を上げて、ボスキに手を振る。軽く手を上げて応じたボスキは、フェネスの座るソファに歩み寄って、背もたれに手をついた。
「お疲れさま、ボスキ。食事は落ち着いて取れた?」
「ああ、おかげさまでな。あとは俺がやるから、フェネスはもういいぞ」
「はいはい。では主様、俺は一旦失礼しますね。お風呂はいつもの時間に入れるように、準備しておきますから」
「うん、ありがとう。よろしくね、フェネス」
フェネスは手札をテーブルに伏せると、丁寧にお辞儀をして去っていく。入浴補助を担当するフェネスにとっては、これからが一番忙しい時間なのだ。
「ボスキさん、フェネスさんの分を代わりにやってくれませんか? 七並べなんですけど」
女の向かいに座っていたテディが言う。出せるカードが手元に無いらしく、唸り始めたラムリとは対照的に、こちらは余裕の表情だ。
「ああ、いいぜ。主様、悪いが隣に移ってもらえるか?」
「え? うん、いいけど……」
ボスキの目の前には、先ほどまでフェネスが座っていたソファがある。女は首を傾げながら、言われたとおり席を移った。ふつう、主人は使用人に席を譲ったりしないものだ。だが身分のない社会で暮らしていた彼女にとって、このくらいは咎めるほどのことでもない。
ただ、理由は気になった。フェネスの置いていったカードを確認し始めた担当執事を、横目でちらちらと気にしながら、彼女はゲームに戻ったのだった。
――ボスキはいつも、自分の右側にいる。
女がそのことに思い至ったのは、ラムリやテディとトランプで遊んだあの夜から、数日を経た日中のことだった。
その日、彼女は買い出しのため、バスティンと一緒に街を訪れていた。バスティンは一人で買い出しに行かせると、頼まれたものそっちのけで、肉ばかり買ってしまう。要するに、お目付け役を任されたのだ。
普段は興味を引かれたほうへフラフラ行ってしまうバスティンだが、この日は主人と二人ということもあってか、真面目に買い出しをしていた。彼は己の身で主人を守るように、必ず通り側を歩いた。
バスティンとともに街を進みながら、女は違和感を覚えていた。なにかが、いつもと違う気がする。
店に入って買い物を済ませ、来た道を戻り始めたところで、彼女はその違和感が、自分とバスティンの立ち位置のせいだと気づいた。馬車を出てから店に入るまで、バスティンは彼女の左側を歩いていたのだ。そして、今は右側を歩いている。
「主様、どうかしたか?」
「あ、ごめん! ちょっとボーっとしてた。帰ろうか」
「ああ。……疲れたらすぐに言ってくれ」
「うん、ありがとう」
右斜め前を行くバスティンの背に、担当執事の背が重なる。思えば、ボスキはいつも彼女の右側にいた。右目を失明しているボスキが、女を視界に捉えておくためにそうしていることは、考えずともわかる。
(私……ボスキに信頼されてないのかな……)
雑踏の喧騒を聞き流しながら、ぼんやりと考える。馬車に向かって足を動かしながら、彼女は鉛を飲み込んだように気分が沈んでいくのを感じた。
◇
女がボスキ・アリーナスを担当執事に指名したのは、深い意味や考えあってのことではなかった。
誰に担当を頼むか決めるため、全員に一日ずつ担当してもらったとき、疑り深い性格ゆえ、そう簡単には人を信用できないと言われたことが、心の端に引っかかっていたのはある。こちらの事情はお構いなしで巻き込んでおいて、そういうことを言うのかと、気の強い彼女はカチンと来てしまったのだ。
でもそれは、ボスキの世話を甲斐甲斐しく焼いているアモンだって、ミヤジやフルーレ以外に心を許している様子のないラトだって同じだった。しかし、広い庭の世話を一手に引き受けるアモンは忙しそうで。ラトは、普段は気の向くまま過ごしているという話を聞いたあとでは、一ところに縛りつけるのはよくないだろうと思った。
対して、ボスキは仕事を任されてもサボりがちの上、同じく設備管理担当のハウレスに苦言を呈されても、どこ吹く風だという。ならば主人の世話を仕事にすれば、サボりを知ったハウレスが胃を痛めることも減るだろう。信用できない主人が相手でも、執事であるからにはボスキといえど早々サボったりはしないはず。
そういう、消去法と、ほんの少し意地悪な気持ち。あとは見返してやりたい、信頼を勝ち取ってやりたいと、そういう気持ちもあったと思う。それが当初、女がボスキ・アリーナスという執事に向けていた感情の全て"だった"。
そう、過去形だ。
最初にあった感情は、時間と思い出を共有することで、とっくの昔に形を変えていた。
サボり癖や直截な言動を咎められている印象ばかりが強いボスキだったが、いざ傍に置いてみると、彼は細やかな気遣いのできる執事だった。疲れているときに甘いミルクティーを用意してくれたり、なにもする気になれずにボーっとしていると音楽をかけてくれたり。落ち込んだ気分のとき、見張り台やコンサバトリー、庭などへ誘い出してもらったこともある。
忙しさに身も心もすり減らす毎日の中で、彼女は間違いなくボスキに支えられていた。いつしか彼女にとってのボスキは、十を超える執事たちの中で、最も信頼できる相手になっていた。
傍にいて、言葉を交わして。そのうちにボスキのほうも、ゆっくりとだが態度を軟化させていった。最近ではずいぶんと気安く接してくれるようになっていて……だから、彼に信頼されていないのかもしれないと思って、女は相当ショックだった。
仕方のないことなのだろうと、頭ではわかっている。ボスキは執事である以前に、戦士だ。戦いを生業にするものは、背後、つまり死角に立たれるのを嫌うと聞いたことがある。ボスキは光を失くした右目の分、死角が広い。
だが、ほかの執事たちはボスキの右側に立つことを許されている。女はそれを、仲間への信頼ゆえであると考えた。であるなら、彼女もボスキの信頼を勝ちとれば、彼の右側に在ることを許してもらえるかもしれない。
幸か不幸か、女は気が強い上、大変諦めの悪い性格をしていた。そうしてこの日から、彼女の奮闘が始まった。
それが全く見当違いの努力であることを、彼女だけが知らなかった。
◇
「……おい、主様」
ボスキの声には、呆れのような、諦めのような、複雑な感情が混じっていた。
二人は、散策に出かけるところだった。庭のバラが綺麗に咲いたとアモンが言っていたから見に行かないかと、ボスキが女を誘ったのだ。快諾されたボスキはいつものように左手を差し出して、彼女もそこに自分の手を預けた。ボスキと同じく、左手を。
「あんた、わかっててやってるよな。このところ、妙に俺の右側にいようとしているみたいだが……どういうわけだ?」
それを、あなたが聞くのか。
悔しさで、女は唇を噛んだ。聡いボスキのことだから、最近、彼女が彼の右側に位置どろうとしていることには、早々に気づいていただろう。それはいいのだ。元より隠し通す気などなかった。
だが、理由を問うのはあまりに意地が悪いのではないか。信頼されてないのではないかと自分で思うのと、本人の言葉でそれを突きつけられるのとでは、雲泥の差がある。
「こら、唇を噛むなよ。傷になったらどうする」
緩く握られている手が離れたと思えば、その手は彼女の顎に伸ばされた。きっぱりした青色の手袋に包まれた親指で下唇をなぞられ、背筋が震えるようなその感触に顎の力が抜けた。
信頼できないというなら、優しくなんてしなければいいのに。思った途端に彼女の目の奥は熱を帯び、あっという間に涙の膜が、黒に近い濃色の瞳を覆った。
「お、おい……!? な、なんで泣くんだ!? なにか気に障ることでも言っちまったか!?」
こうなってしまったら、もう腹を括るしかない。大粒の涙を零しながら、女は考えた。
信頼されたいと願いながら、ボスキを試すような行動を取っていたのが、そもそも間違いだったのだろう。全てを詳らかにするべきなのだ。その結果、彼女がどれほど傷つくことになっても。二度とボスキに担当を頼むことができなくなっても。
「……俺には言えないか?」
不安げな問いに、女は言いたくないという本音は飲み込んで、首を左右に振った。気持ちを落ち着かせるために、深呼吸を数回。まだ震える声を叱咤して、彼女は内心を吐露した。
「ボスキに……信頼、してもらえてないのが……悔しかった、の」
「…………は?」
勇気を振り絞って言ったというのに、ボスキは言葉の意味が理解できないとばかりに目を白黒させている。
「ちょっと待ってくれ。俺が、主様を信頼してない? どうしてそうなるんだ? ……あ、もしかして、あんたが来たばかりのころに言ったことを根に持ってんのか?」
「え? いや……ええ?」
わけがわからないのは女も同じだ。顔を見合わせてクエスチョンマークを大量に飛ばしながら、二人はお互いの間になにかとんでもない勘違いが生じているらしいということに思い至った。
誤解を解くには、事実を一つずつ確認していかなければならない。先に状況把握を始めたのは、ボスキのほうだった。
「えーと、だな。主様は、俺があんたを信頼してないと思ったんだよな。それはどうしてだ?」
「……ボスキが、いつも私の右側にいるから。私のことが信じられないから、死角に入れないようにしてるんだと思って」
「……なるほどな」
呻くように言って、ボスキは困ったように後頭部をかきまぜた。きれいに結われた後ろ髪がぐちゃぐちゃになる。あとで結い直すのに苦労しそうだ……アモンが。
「まず、誤解のないように言っておくが……。俺はあんたのことを、信頼できる相手だと思ってる。そうじゃなきゃ、いくら主様が相手でも、甲斐甲斐しく世話を焼いたりしない」
どちらかといえば、俺は世話を焼かれるほうだ。なんて、ボスキが悪びれる様子もなく言うので、女は思わず笑ってしまった。
違いない。けれどそれでいて、周りをよく見ており、助けを必要としている者には惜しみなく手を差し伸べるのが、ボスキという人間だ。
「信頼してくれているなら、どうして私を死角に入れてくれないの?」
信頼如何とは無関係だと知った以上、答えを得ようとするのは純粋な好奇心からにほかならない。
女は知りたかった。ボスキがなにを思い、彼女の右側に立っているのかを。
「………………だろ」
抗議のような長い沈黙の末、ボスキが低く囁いた。上手く聞き取れなかった女が聞き返すと、彼は盛大に舌打ちをして悪態ついた。ボスキの荒っぽい言動には慣れっこの彼女は、マナー指導係が見たら怒りそうだなあ、なんて暢気に考えていた。
「だから! 主様が視界に入る位置にいないと、万が一あんたになにかあったとき、とっさに動けないだろーが!」
「え、じゃあ……私のために?」
「……ああ、そうだよ!」
面と向かって伝えるのは恥ずかしいのか、ボスキは耳まで赤くなった顔をあらぬほうへ逸らした。だが、顔を朱に染めているのは言われたほうも同じだ。
ボスキが思っていた以上に自分を大切にしてくれていたことを知って、溢れ出る喜びを抑えきれなかったのだ。なにしろ、彼女はこのところずっと、担当執事から信頼されていないのではと、そんなことばかり考えていたので。
「ったく、勘弁してくれ……。余計なことは考えずに、大人しく守られててくれよ」
「……うん。変な勘違いして、ごめん」
「全くだ」
「ふ、ふふ、ふふふふ……」
杞憂どころか、完全に見当外れな心配をしていたことが可笑しくて、笑い声が女の口から転がり落ちた。ボスキに向ける信頼が独りよがりなものでなかった安堵も相まって、笑いはしばらく収まらなかった。
「あー、笑った!」
「ったく、やっと収まったか」
「うん!」
晴れ晴れとした表情で首肯する女に、ボスキが左手を差し出す。彼女は不思議そうにしながら、そこに自分の手を預けた。今度は素直に、右の手を。
「どこか行くの?」
「庭に散策に行くところだっただろ」
「……そういえば、そうだったね」
「忘れてたのかよ。ほら、行くぞ。遅いって、アモンに文句を言われそうだ」
「そうだね。でも、ボスキはその前に髪を直さないと」
言われて、ぐちゃぐちゃになった髪型に気づいたらしいボスキは、面倒くさそうに嘆息した。
「ねえ。髪を直すの、私がやってもいい?」
「別に構わねえが、ほかの奴らには秘密にしといてくれよ。執事としてあーだこーだと、怒られそうだからな」
「もちろん」
ボスキがジャケットの懐から出した櫛を受けとって、女は彼の後ろに回った。最高級の絹糸のような手触りの髪を丁寧に梳いて、いつもの位置に結い上げる。
「こんな感じ?」
「ああ、助かった。ありがとな」
女の手を握り直し、扉を開けたボスキは、ふと思いついたように振り向いた。仮面に隠れていないほうの瞳が、新しいイタズラを思いついた子どものように、愉しげ煌めく。
「なあ、主様。俺は、信頼してない相手に髪を触らせたりしないからな」
どうやらボスキは、女の言葉を根に持っているらしい。
「これからじっくりと、俺がどれほど主様を大切に思っているか、思い知らせてやる。覚悟しとけよ」
「は……はい」
口の片側を釣り上げたニヒルな笑みは、女にとっては見慣れた表情だが、妙に圧がある。彼女は神妙に頷くことしできなかった。