おやつの時間「あのさ、ちょっとつき合ってほしいんだけど」
KKが暁人からそう頼まれたのは、カーテンの隙間から射しこむ陽光が赤みを帯びはじめた、午後四時過ぎのことだった。
「追加の買い出しか?」
こんな時間帯に頼まれることなど、それくらいしか思い浮かばない。KKは読みかけの文庫本を閉じると、ローテーブルの上に置いた。ソファから立ちあがり、ボディバッグを取りに行こうと寝室へ向かいかけたところで、近づいてきた暁人に制された。
「一緒におやつを食べてほしいんだ」
KKは眉をあげた。
「食いに行くんじゃなくてか?」
「うん」
ソファのかたわらに立つ暁人の笑顔はどこか遠慮がちに見えた。
「そりゃ、別にかまわねえが……」
「良かった!」
胸に手をあてて笑う暁人に、KKは困惑して目を瞬かせた。そのくらいのことであれば、彼は「一緒に食べない?」とあっさり言うだろうからだ。
あの夜に暁人と出会い、恋仲になってから一年ほど経つが、今までこんな改まった言い方で間食に誘われたことはない。いったいなにを、どれほどの量食わされるのかと首をかしげながら、彼と並んでリビングと地続きのダイニングへと向かった。
単身者向けの小さなダイニングテーブルは、暁人の手ですっかり綺麗に片付けられていた。KKが出しっぱなしにしていた新聞の朝刊と広告はストッカーに仕舞われ、天板の上には食べかすひとつ落ちていない。かわりに、よくある白いビニール袋がちょこんと載せられていた。うっすらと透けて見える中身は、幅十センチほどの正方形のプラスチック容器だ。
「これを食うのか?」
「うん」
どうやらおやつの量はさほど多くないらしい。しかも、市販品だ。KKは拍子抜けしつつも、なにか食うなら飲み物がいるだろうと、椅子に腰を落ち着けることなくそのままキッチンに立った。
コーヒーフレッシュと砂糖の準備を万端に整え、沸騰したやかんの音に呼ばれてコンロの火を止めたとき、KKは肝心なことに気づいた。いつもの習慣でインスタントコーヒーの瓶を手に取ってしまったが、なにを食べるのかまだはっきりと知らないのだ。
「コーヒーで良かったのか?」
熱いやかんを持ったまま、肩越しに振り返って暁人の背中に訊ねた。しかし、良いかもなにも、すでにマグカップにコーヒー粉末を入れてしまっているのだからどうしようもない。思わずこぼした口元だけの苦笑いに、暁人の小さな笑い声が重なった。
キッチンに背を向ける形でテーブルの前に立ち、間食の準備に動いていた暁人が手をとめ、上体をひねってKKをふり向いた。
「うん。お願い」
うなずく彼はおかしそうに目を細め、肩を揺らして笑っていた。
白い湯気の立つおそろいのマグカップを手にキッチンから戻ってみれば、KKの席には黒豆入りの塩大福が置いてあった。ご丁寧なことに、大福はプラスチック容器から白い平皿へと移し替えられていた。
もしこの場を整えたのがKKだったのなら、まず間違いなく、皿を出したりはしなかっただろう。準備や後片付けが面倒だとしか思わないからだ。暁人が泊まりに来るようになるまで、KKは箸と茶碗と大皿一枚しか持っておらず、それにまったく不都合を感じていなかった。それを良しとしなかったのは暁人だ。
みっしりと調理器具で埋まったキッチン戸棚と、豊富な種類の二人分の食器が収まった食器棚、そして、こうなるまでの紆余曲折をつぶさに思いだしてしまい、KKは腹の底にむずがゆいものを感じた。勝手にゆるみかける頬と唇を誤魔化そうと、無意味に咳払いを繰り返す。息を吸いこむたび、ついうっかりで淹れてしまったインスタントコーヒーの香りが、やたらと鼻についた。
いつまでも止められないでいる咳に、暁人が顔をあげてKKを見た。
「大丈夫?」
「ああ。ちょっと喉が、な」
「水持ってこようか?」
「いや、いらねえ。大丈夫だ」
万が一にでも、なにを考えていたのか気取られてしまえば、居た堪れないどころの話ではない。KKは暁人の前に片方のマグカップを置くと、すぐに自分の席に着いた。多少の罪悪感に胸を刺されつつも、心配げに顔をくもらせる暁人には気づかぬふりで、話題を変えようと口を開く。
「それより、オマエは大福を食わないのか?」
平皿も、その平皿の上に盛られた塩大福も、KKの前に置かれたひとつだけしかない。そのかわり、暁人の前には一個の黒いどんぶり鉢があった。主に丼ものや麺を入れるために使っている大きくて深い鉢だ。
「うん。大福はKKだけ。僕はこっち」
言いながら、暁人は空になった銀色のパウチを掲げた。その上部に濃い桃色で印字されている商品名を、KKはよく知っていた。日本で子ども時代をおくったか、あるいは子どもを育てたことのある人であれば、どこかで名前くらいは耳にしたことがあるだろう。冷たい牛乳と混ぜるとカルシウムに反応してとろりと固まる、とてもお手軽なデザートベースのパウチだった。
「こりゃまた、ずいぶんと可愛らしいもんを食おうとしてるな」
「KKの『可愛い』の基準がよく分かんないんだけど」
「そうか?」
KK自身はあまり食べたことがなかったが、幼かった息子はよく食べていた。ベースの液体に牛乳をまぜるだけで出来上がるため、小さな子どもにも安心して作らせてやれるからだ。
とはいえ、そうやってこの菓子をありがたがっていたのは、仕事に邁進するあまり一人息子の成長にもろくに目を向けていなかったKK自身ではなく、ほとんどの家事育児を一人でこなしていた元妻だった。KKはただ、へたくそな字で『ぱぱえ』と書かれたカード付きの深皿を深夜に冷蔵庫から取りだし、ものの数分で平らげたことがあるにすぎない。
もはや今更でしかない疼痛を胸に感じて、KKは唇の端だけでかすかに自嘲した。湧きあがってくる暗い感情を振りきるようにテーブルの上へと身を乗りだすと、暁人の手元のどんぶり鉢を覗きこんだ。
「もう作ったのか?」
暁人がうなずいた。
「KKがコーヒーを淹れてくれてる間にね」
その言葉どおり、黒一色のシックなどんぶり鉢の三分の二ほどが、白い半固体で満たされていた。ところどころに見える小さな欠片はシロップ漬けの黄桃だろう。暁人がスプーンの先で表面をつつくたび、デザート全体が大きくふるりと揺れた。天井のLED灯を照りかえしてつるりと光る様はいかにも喉越しが良さそうで、実際にヨーグルトよりは弾力のある舌触りを思いだし、KKは目を細めた。痛みだけではない懐かしさが喉元にこみあげていた。
「これも息が長いな」
「そんなに前から売ってるんだ?」
「たぶんな。オレがガキの頃には売られてた気がする」
しかし、KKが最後に口にしたときから変わっていなければ、パウチの内容量は三人か四人前だったはずだ。一人で食べる量ではない。
KKは椅子の背もたれに背中を預けると、わざとらしく呆れた口調で、ほとんど答えの分かっている問いかけをした。
「もしかして、それ全部一人で食うつもりか?」
とたんに、暁人が両手で抱えこむようにしてどんぶり鉢を手元に引き寄せた。顎を引いて眉をひそめ、低い声で威嚇する。
「あげないよ」
「いらねえよ」
即答したKKは、二十三歳成人男性の子どもじみた態度に鼻を鳴らした。
「いらねえが、人をつき合わせておいて独り占めってのは、ちょっとどうかと思うぞ? 暁人くん」
もちろん本気で苦言を呈したわけではなかった。わざわざ説教するまでもなく、そうした思いやりに関しては、KKより暁人のほうがよほど人間が出来ているからだ。ゆえに、たんに彼がじゃれついてきただけだろうと、そう考えていたのだが。
「だから塩大福を買ったんだろ。値段で言えば、これよりそっちのが高かったんだから」
暁人がまたスプーンでどんぶりの中身をつつきながら言った。むくれた口ぶりとふくれた頬、尖った唇。そこに若干の本気を感じとって、KKは今度こそ本気で呆れた。
「オマエ、そうまでして独り占めしたかったのかよ」
「そうだよ。悪い?」
わずかにのけぞったKKを、暁人がじとっとした上目遣いで睨んだ。が、すぐに肩の力を抜いて視線をそらすと、苦笑しながら手元に目を落とした。打って変わってしみじみとした口調で、ぽつりと言葉をこぼす。
「子どものときからずっとやってみたくてさ」
それきり暁人は黙りこみ、しばらくじっとデザートを見つめていたが、やがて顔をあげ、困ったような下がり眉で口を開いた。
「KKは考えたことない? こういう……」
ほんの一瞬、暁人は言葉を詰まらせた。
「家族全員で分けあう前提のやつを、全部まるごと自分だけで食べてみたいって」
「……いや、ねえな」
答えながら、KKはテーブルの隅に置かれているデザートベースの空箱をちらりと見た。完成後の商品の写真や本物の桃の写真、そして、兎とも犬ともつかない三匹の丸っこいキャラクター。情報量がありすぎてごちゃついた印象のパッケージの左下に、白字で『4人分』と内容量の記載があった。
暁人と彼の妹、そして父と母。伊月家はちょうど四人家族だ。しかし、彼の妹は一年前に夭折し、両親にいたってはそれより前、暁人が成人しないうちに相次いで亡くなっている。今はもう、伊月家には暁人しかいない。気合を入れて実行に移そうとしなくとも、どんなものでもなにを食べても、それらすべてが暁人だけのものになる。わざわざ誰かを巻きこむ必要など、どこにもないのだ。
KKは黙って目を伏せた。暁人が間食につき合わせようとした理由に思い至ったからだ。しかしすぐに顔をあげると、湿っぽくならないよう、努めて明るい声で言った。
「家族のぶんまで全部一人で食いたいと思ったことはねえが、それはオレが一人っ子だったからだろうな。けど、気持ちは分かるぜ?」
「ほんと?」
身を乗りだした暁人に、KKは苦笑しながら思い出の断片を語った。
「ガキの頃、田舎の爺さんに、色んな菓子がごちゃごちゃに入っている、ばかでけえ大袋を貰ったんだよ。しばらくは食べ放題だっつって大喜びしてたら、『皆と分けあって食べなさい』と釘を刺されちまってな。なんでオレだけで食っちゃいけねえんだよ、ってガッカリしたもんだ」
肩をすくめて嘆いてみせれば、暁人はほっとしたように頬をゆるめた。
「なんだよ。食い意地が張ってるとかお子ちゃまとか僕には散々言うくせに、KKだって人のこと言えないじゃん」
暁人はおかしそうに笑っている。KKもまた秘かに安堵の息を吐きながら、ふてくされたような低い声を出した。
「言っとくが、十やそこらのガキの頃の話だぞ」
「僕だって、全部食べてみたいって考えたのは小学生のときだよ」
小学生であれば、まだ彼の父と母が健在だった頃だ。親にも甘えたい盛りで、どれだけ兄妹仲が良かろうと、妹とは親の愛情をめぐるライバルだったのではないだろうか。
ふたたびスプーンでどんぶりの中身をつついておもちゃにしだした彼を眺めながら、KKは背もたれに深く背中を預けた。
「しかしまあ、安心したぜ」
「え、なにが?」
オマエがこうやってオレを頼ってくれたことだよ。胸のうちだけでつぶやきながら、KKは暁人の手元を顎で示した。
「つき合ってくれってのはつまり、オマエが食いきれなかったら食ってくれって話かと思ってたんだよ」
ああ、と暁人が納得したように声をあげた。
「いくらなんでも、そんな失礼なこと頼まないよ。ただ……」
暁人の眉間にしわが寄った。泣き笑いにも似た笑顔で、彼はまっすぐにKKを見た。
「どうしても子どもの頃の夢を叶えてみたかったんだ。……あんたと」
分かってるよ、とKKはふたたび胸のうちだけで相槌を打った。しかしやはり声には出さず、かわりに、できるかぎり軽い調子でさらりと答えた。心からの言葉を。ありったけの思いを込めて。
「それじゃ、めいっぱい〝独り占め〟を楽しまねえとな」
それから、背もたれから身を起こし、苦笑しながら暁人のマグカップを指差した。
「そろそろ食おうぜ。コーヒーが冷めちまう」
「……だね」
KKの指を追い、すっかり薄れてしまった湯気を見て、暁人も眉間のしわをゆるめながらうなずいた。
中身をたっぷりとすくったスプーンを口に入れ、「美味しい」と顔をほころばせる暁人を確認してから、KKも塩大福をつまみあげた。
掴んだ皮の感触はもちもちとして固すぎず柔らかすぎず、大粒な黒豆にはほどよい弾力があった。さすが四人前のデザートベースより高かったと言うだけあって、この塩大福はしっかりとKKの好みに合致しているようだ。インスタントなりにそこそこ香ばしいコーヒーの香りと、餡子のほのかな甘い匂いに、KKもまた口元に笑みを浮かべた。
ふと目を落とすと、平皿の中央に藍色の花が咲いていた。大福の下に隠れていたものが、食べはじめたことで見えるようになったのだ。プラスチック容器のまま食べていては味わえなかった遊び心に、わざわざ暁人がこの皿を選んだ理由を悟った。
悪くないな、とKKは思った。どんな入れ物だろうと食べ物の味にはなんの影響もないが、それでも悪くない。すっかりゆるんだ口を大きく開けて、ほろほろと打ち粉のこぼれる塩大福にかぶりついた。
「この大福うめえな。後でどこのヤツか教えてくれ」
「うん。このコーヒーも、いつもより美味しいよ」
「普段と同じインスタントだぞ。適当言うなよ」
「えー、適当なんて言ってないって」
KKと暁人は目と目を見交わし、口の中をいっぱいにしたまま笑いあった。二人で食べるおやつの時間は、まだ始まったばかりだった。