「吊り橋効果というものがあるだろう。危機感を共有した二人の間に緊張と取り違えた愛情が生まれるというものだ。ならなんで私とScoutの間には愛情が発生していないんだ?」
「ドクター、眠いならベッドまで運んでやるから」
「私は酔っていない」
「典型的な酔っ払いの言い訳をまさかアンタの口から聞くことになろうとはな」
思わずため息がこぼれるが、おのれの呼気ですら酒臭い。人のことは言えないくらいに酔っ払っているのだが、それでも目の前の彼よりは幾分マシな状態だと自信をもって断言できた。なにせドクターという男がここまで意味不明なことを口走るほどにまで酒を過ごしてしまったところを、Scoutは初めて目撃したからである。
先日から彼が赴いていた会合はそれはもう酷いものであったらしい。テレジア殿下の随伴として臨んだその話し合いと呼ぶことすらおこがましい会議において、同行したメンバーいわく彼らはせいいっぱいを尽くしたのだという。それでも持ち帰られた知らせは絶望的な内容でしかなく、帰艦し緊急の仕事を片付けた後に、彼はたまたま近くにいたScoutとAceを自室へと引きずり込み戸棚の隠し扉にため込んだ秘蔵の品を大盤振る舞いしてみせたのである。そのAceはといえばだいぶん前に帰って行った。明日の担当演習が早朝であることをドクターが思い出し、無罪放免となったからである。千鳥足でドアをくぐる彼の手には開封済みとはいえずいぶんな銘柄のボトルが握られていたように見えたのだが、愚痴とやけ酒に付き合わせたドクターなりの詫びの品であったのかもしれない。つまり今ドクターの部屋には酒瓶に囲まれた酔っ払いが二人きりで取り残されているという夢もロマンも欠片もない状態なのである。
「水を持ってくるから、アンタはそこで大人しくしててくれ」
「いい。さっきから飲んでるこれは水だ。私は正気だともScout」
「そんな色のついた水があるか! ほら、せめてグラスを寄越してくれ」
その細い指から中身の残るグラスを引きはがすために手を伸ばすと、ぐっと彼の眉間にしわがよる。指揮中にはまったく表情が変わらず仮面のようだと悪評高いその相貌は、今はただの駄々をこねる酔っ払いのものでしかない。グラスと一緒に握り込んだ彼の手のひらはずいぶんと熱かったので、これは早急にベッドに運ぶ必要があるだろう。だがグラスこそ観念して手放した彼は、恨みがましい眼差しでじっとScoutをにらみつけている。
「期間が短いのが駄目なのか? だが危機に瀕した回数ならば十分多いと思うんだが」
「まだその話続いてたのか」
「君は質問に答えていない。答えないというのならば私が勝手に結論を出すぞ」
「本当に面倒な酔い方をするんだなアンタは!」
Scoutの知る酒宴でのドクターの姿はといえば、どれだけ飲んだところで顔色一つ変わらず、けれどもほんの少しだけ口数が増える。そんな酒の酔い方すら忘れてしまったかのような男だとばかり思っていた。だが目の前の完全に出来上がった酔っ払いはといえばどうだ。これはもう暴れようが抵抗されようが担いでいったほうが早いだろう。おのれがサルカズということを差し引いたとしても彼の体は恐ろしく軽々と持ち上がった。その事実にひやりと胸の内が冷えるが、今はこのたちの悪い酔っ払いをベッドに叩きこむことが先決である。担ぎ上げられたことで観念したのか、いまだブツブツと文句は言いながらもドクターの細腕はScoutの背中をしっかりと掴んでいる。その指先の意図にはできるだけ思考を割かないようにしつつ、Scoutはほんの数歩の距離にあったベッドの上へとそっと痩躯を下ろした。
「ドクター、手を離してくれ」
「返答をもらっていない」
「あのなぁ」
目を背けてはいたが、Scoutもすでに言い訳が出来ないほどには酔っ払っている。だからこちらの理性を試すようなことは勘弁願いたいのだが、酔っ払い特有のふらつきながらも据わった眼差しはScoutを逃がしてはくれなかった。酒臭いため息とともに、観念してScoutは口を開く。
「俺は確かにアンタとの付き合いは長いしこの軍の中でも古株寄りにはなってきたが、危機を乗り越えたというのならここにいる全員がだろう。アンタはこの艦にいる全員と結婚するつもりなのか?」
「…………しない」
「だろう?」
どうして彼がいきなりこんなことを言い出したのかはさっぱりわからないが、この下手な理屈を納得してくれるほど酔っ払ってくれて助かったとScoutは胸をなでおろす。まさかドクターに口で勝てなど、正気の時であれば生身で天災に単身突撃でもするほうがまだマシというものである。シャツに食い込んだ細い指を慎重に一本ずつ外し、最後の一本が離れる頃にはドクターはすでに半分ほどまぶたを閉じかけていた。
「勘違いでも私を好きにはなってくれないのか」
「……ドクター、明日もまた仕事があるんだ。とっとと寝ろ」
それ以上の言葉を彼の口から聞きたくなくて、やや乱暴に毛布を被せる。彼はまだもごもごと喋ってはいたようだが、やがて力尽きたのか毛布の山は静かに寝息を響かせるだけのものとなってくれた。今度こそ盛大なため息を吐いて、Scoutは酒瓶やらつまみやらが散乱するソファへと自身の体を引きずっていく。疲れた。申し訳ないが片付けは明日の朝ということにさせてもらおう。テーブルの上に残っていた彼が『水』だと言い張った中身を一息であおり、Scoutは今度こそ硬いソファへと身を預けた。どうせ、彼は自分の言ったことなどおぼえてはいないだろう。けろりとした顔で、それとも二日酔いにふらつきながら、朝の挨拶を交わしてそれで自分たちはいつも通りだ。何一つ変化などしない。自分と彼との間にあるものはそれだけ強固だと自信をもって断言できる。勘違い程度で満足できるような想いならば、こんなものとっくに手放していた。
「アンタが、いつか」
俺のことなんてすっかり忘れてしまったとしても解放などしてやるものか。これだけは最後まで自分だけが持っていくもの。心の底に沈める想いを追いかけるように、Scoutは静かに眠りに落ちた。