冬の終わりの最後の嵐 この腕に点滴の針を刺すたびに、僕はあの頃を思いだす。
「針を通して僕の精神状態が判るって、言ってましたっけ。どうです? いまの僕は」
「よく覚えてるな」
ドクターは笑ったきり答えなかった。僕はあの頃より細くなった腕に点滴のチューブを固定する。
窓の外では降る雪が冬の嵐に渦巻いて、向かいのビルの姿さえも隠している。気密の良い窓ガラス越しに見る景色には風の音も冷たさもない。白いカーテンが激しく揺れているかのようだ。
「荒れてるな、外」
妙に現実味のない景色を見てドクターが言う。ドクターは杖を長いソファに立て掛け、身体を沈めるように深く腰掛けて窓の外を見ている。
「天気予報では、明日の朝には止むと言ってましたよ。気温も少しずつ上がっていくそうです」
「そうか」
「暖かくなったら、花でも見に行きませんか」
「花か。らしくねえな」
「悪くないでしょ、お花見。猫も連れて」
ドクターは、ああ、悪くねえ、と呟いてソファに長々と横になった。黒い猫がドクターの足を枕にごろんと寝転ぶ。猫の毛並みにはよく見ると白い毛が混ざっている。ちょうど飼い主であるドクターの髪のように。
「どこか行きたいところ、ありませんか、ドクター」
ドクターは目を閉じている。この人が点滴を打っているあいだに少し眠るのはいつものことだった。膚の色と目元に浮いた隈が、花の季節を待てるかどうかと告げている。
僕が再びドクターと暮らすようになって数年が過ぎた。師弟、同居人。僕とドクターの関係はそれ以上でも以下でもない。
僕らをもっと深い仲だと考える人もまれに居る。僕自身にはこの誤解を真実にしたいと思っていた時期もあったけれど。でもそれは僕ひとりで決められることではないし――いや、それは言い訳だ。
僕は眠るドクターを眺めた。手に入れることから目を背けたものに、あさましくも僕は心残りがある。僕はその場を立ってブランケットを持ってくると、ドクターと猫にそっと掛けた。
ドクターが目を開けた。
「起こしてしまいましたか」
「いや、起きてはいた……どうした?」
「え?」
「腹に鉛でも詰めたみてえな顔してたぞ、いま。何かあったか」
「特には……ありません」
「言いてえことがあるなら言え。いろいろ言えるのも今のうちだ」
言外に続くものを否応にも察した僕は笑顔を見せて対応する。いつもの軽口だ。受け流せ。ところがドクターは今日に限って、変に真剣な目をした。
「思い詰めた顔でじっと見下ろされるの、けっこう怖いんだぜ?」
「殺されるとでも思いました?」
「どうだろうな。それなら確実に約束を果たせそうだが……」
約束。若かった僕は強気の一筆をドクターに残した。それを言葉に出来た動機も、その動機のせいで最後にやってくるもののことも、当時の僕にはきちんと理解できていなかった。
僕は床に座って、ソファの側面に背中を預けた。ドクターのほうに顔を向けると目の高さが合う。ドクターは顎で僕に喋るよう促した。僕は視線を自分の膝に落とす。
「ドクターは先代のKが亡くなったあと、どうしてましたか」
「どうしてたって……ずいぶん古い話、持ち出すじゃねえか」
「あなたがいなくなったあとのことが見当もつかなくて」
ドクターは、ああ、と呟いた。
「オレは……手本にならねえだろ。気楽に構えろよ。病気の爺ィの世話から解放されるんだぞ」
僕は膝を抱えた。拗ねた子供のようで情けないと思いつつ。
「あなた僕がどれだけ――いえ、何でも」
何でもないんです、あなたのことなんか。失ったらそりゃあかなしいでしょうけど、きっとすぐに立ち直れるでしょう。
それだけの軽口を言うのが僕にはひどく難しかった。喉が詰まって、目の奥が熱くなる。
失うことへの恐れ、約束された喪失の痛み。受け止めてみせると大見得を切ったあの日。
もうあの時みたいに若くはない。
ドクターは僕が落ち着くのを待っていた。ドクターは僕の頭に片手を載せ、幼子をあやすように軽く叩く。
「……ごめんなさい」
万一ドクターと僕が、今よりももっと濃い関係だったら。僕が望んだような関係だったら。きっとやがて来る痛みをどうすることも出来ないに違いない。
だから僕らは師弟、同居人。それ以上でも以下でもない。自分のために線を引いたのに、すでに耐え難い痛みがあるのはなぜだろう。
僕は外を見た。雪はいっそう激しくなって、白いカーテンは重たい帳に変わっていた。白く分厚い幕が僕を閉じ込めている。
「好きだったんですよ、あなたのこと」
こんな風に閉じ込められては、他に聞くものも居ないだろう。
「ああ、知ってた」
ドクターは当たり前のことを言うように答えた。
「毎日甲斐甲斐しく世話を焼いて、それで点滴の針から何も伝わらねえと思うのか?」
僕は黙っていた。
「置いてかれるのは、辛ぇからな。お前ぇをそこから、少しでも遠ざけてやりたかった。とうとうできなかったが」
ドクターは目を閉じて、深く息をついた。
「情があると、弱いな、弱くなった……」
その顔は少し笑っているようにも見えた。
僕は愚かだ。
こんなことなら、あの手紙を書いたときのように、愛しておけば良かったのだ。
「僕は、あなたのことが、本当は今でも」
僕はきっと、この一瞬を抱えて生き続ける。約束されたかなしみも痛みも、このさき常にこの一瞬とともにあるだろう。
窓の外は白く塗りつぶされ、時が止まったよう。流れるのは涙だけ、雪に覆われた一瞬の永遠。