チョコレート・ムースの話 譲介がコーヒーを淹れていると、すぐ横に深皿がふたつ置かれた。深皿の中はチョコレート色のもので充たされている。
譲介がドリッパーから顔を上げると、TETSUがスプーンをふたつ持ってきて、深皿の横に置いた。
「コーヒーのお供ですか?」
「そんなところだ」
コーヒーを二杯淹れたところでめいめいがテーブルにつく。譲介はさっそく深皿にスプーンを入れた。褐色のムースを口に含むと、きめ細かい気泡が舌の上で柔らかく溶けていく。甘いチョコレートの味が消えるころに一瞬浮かび上がる、カカオとは違う香り。何だろう。
「おいしい!」
譲介が声をあげるとTETSUは満足げな顔でコーヒーを啜った。
「お菓子作り、出来たんですね」
「いや、これだけだ。他はやったことねえ」
「これだけ?」
「これだけ」
譲介の問いに答え、TETSUは静かに笑った。
「昔、旅先で教わったんだ」
それはTETSUがようやく世間の裏側を歩くことに慣れてきた頃の話だという。
「海外のある田舎町に半月ほど滞在したことがあった。そのときの宿には小さな食堂があってな。このチョコレート・ムースはその店のレシピだ」
「そういうのって教えて貰えるものなんですか?」
「滞在中こればっかり食ってたからなあ……滞在最後の夜に、日本に帰るからって頼んだら教えてくれたんだ」
譲介はチョコレート・ムースを嬉しそうに食べる青年のTETSUを想像した。いま、向かいに座る老齢のTETSUは静かにスプーンを口に運んでいる。
「悪くねえ出来だ。店の味にゃ及ばねえが」
「レシピは覚えてるんですね」
「ノートに書いてあんだよ」
「なるほど」
相槌を打ってから譲介は気付く。
「昔のノートって、一也が持ってるんじゃありませんでしたっけ」
「だから一也に探させた」
TETSUは席を立ち、譲介に一枚のプリンタ用紙を見せてきた。メールにノートの画像が添付されたものだ。
『見つけたので送ります 譲介によろしく』
ノートのページの上半分には、TETSUの筆跡でオペの記録が書き込まれていた。下半分にはチョコレート・ムースの材料と製法が急いだ字で書き付けられている。チョコレート、カカオパウダー、濃く淹れたコーヒー……。
「わりと早く見つけてきたんで助かった。さすがだな」
譲介は不意に気になってTETSUに訊ねた。
「その村には、先代のKと?」
「いや、ありゃKェと出会う前だったからな。このムースは一人で作って、こっそり食うのさ」
「一也にはバレちゃいましたね」
TETSUは苦笑した。
「そうはいっても、あの町の連中以外でこれ食ってるのは世界でオレたちだけだろうぜ」
「一也は?」
「卵を使うからな。眼鏡のカノジョにゃ出せねえから、作らねえよ」
譲介はもう一人の旧い友を思い出す。なぜ彼女に出す前提なのか。
ちょうど目に入ったカレンダーが答えになった。今日は二月十四日。日本人にとってはチョコレートに気持ちを込める日だ。このところひどく忙しくて頭から抜け落ちていたのだ。
譲介は今更ながら、二人で食べるチョコレート・ムースの特別なことに気がついた。譲介はムースの残りを味わって食べる。
「おかわり、ありますか?」