栄養を摂らないと頭は回らない家入さんと七海と僕の三人で出かけた日。二人を待たせてゴミを捨てて戻ろうとしたとき、女性の話が耳に飛び込んできた。
「あの二人素敵」
向かおうとした場所を女性陣が取り囲んでいる。まるでそこに入るなとでも言うように。
「誰か待ってるのかな」
「まさか!デートでしょうに」
私服姿の二人は確かに大人っぽくて、デートですと言われたらそうなんですねと頷きそうな気迫がある。
「行く場所の相談でもしてるんじゃない?」
外野の声など聞こえないかのように二人は話し込んでいる。僕も気にせず「お待たせ!」と話の中に入っていけばいいのに二の足を踏んでしまう。原因はわかっている。僕が彼に恋をしてしまったから。
「お似合い、か…」
確かに、僕といる時より七海も熱心に話しているし、家入さんも楽しそうだ。気がついてしまうと、胸が苦しくなってきた。
『ごめん、先に帰るね』
メールを送り、急いでその場を立ち去った。
***
「大丈夫か?」
灰原の様子がここ数日おかしい。
「大丈夫だよ」
そんなはずはないのに。現に彼の前に置かれた膳はほとんど手がつけられていない。力なくにへらと笑う顔も可愛いななんて思う気持ちは封印して、友人として向き合った。
「ならしっかり食べろ。いつもの食欲はどうした」
「いやだな、僕が食いしん坊みたいな言い方」
「…たくさん食べる人が好きじゃなかったのか?別に食べることは悪いことではないだろう」
彼の一言で前より食べるようになったおかげで心身共に成長している自覚がある。何より彼の食べる姿を見るのが私は好きだった。
***
「栄養失調。何かあるなら相談に乗るけど?」
目を覚ますと医務室にいた。急いで来てくれたのか、タバコの匂いを纏った制服姿の家入さんが横に立っていた。
「いえ、特には…」
「本当に?」
こう言う時、女性は鋭いなといつも関心してしまう。でも、自分の気持ちを言葉にするのはとても難しかった。
「…恋を諦めなくてはいけなくなったのに、心の整理がつかないだけです」
そうだ。七海の横に立つべきは僕じゃない。僕は家入さんにはなれない。七海の隣にはいられない。
「それは…」
「失恋か?そんなもののせいで食欲無くしてたのか!?馬鹿馬鹿しい!!」
「七海!?」
どこから聞いていたのか、ドアを荒々しく開け放った七海は顔を真っ赤にして怒っている。
「誰だ、灰原を振った奴は、いや、いい。とにかく落ち込むな、そんな奴忘れろ!」
「忘れろって…」
ひどい。きみに恋慕した僕には、情けをかける必要もないってこと?
「いくら七海でも、僕の気持ちをバカにすることは許さないよ」
***
そっか、失恋したのか。原因がはっきりしてからも食欲は戻らなかった。無理に食べても吐いてしまうため、点滴を打ちながら生活している。七海ともあの日から碌に話をしていない。僕があからさまに避けているが、七海も先輩たちも特に何も言わない。感じ悪いよな、とは思うけど、今だけは許して欲しい。もう少し、もう少しでこの想いを消化してみせるから。
「灰原」
「…なに」
今日もまともに食べられなかった。食堂を出て行こうとすると七海に声をかけられる。無視したいところだが、進行方向に両手鍋を持った七海が立ち塞がっていて先に進めない。
「おかゆを作りすぎてしまって…食べないか?」
これは僕のための嘘。七海は調子の悪い時でもお米の粥は作らない。彼はパン粥派だ。
「…少しなら」
「そうか」
取り皿を持ってくる!と鍋を僕に手渡して台所へと駆けて行った。
「あいつ、お前のために大急ぎで作ったんだよ」
近くの机にいた家入さんがにやにやと嬉しそうに笑っている。
「米炊くところから、卵を入れるタイミングまで全然わからないって私に聞いてきてさ」
「…そうですか」
七海に料理の仕方を聞かれたことはない。僕にはなくて家入さんにはあるもの。家入さんに悪気がないのはわかっている。けど惚けを聞けるほど僕は大人じゃない。
「じゃあ家入さんが食べてください」
鍋を手渡して振り向かずに部屋へ戻った。
***
「灰原のために、って言ったのに、あいつ、栄養不足で頭が回ってないな」
「あれ、灰原は?」
「帰ったぞ」
「は!?」
***
ガチャガチャとドアノブが回る。でも残念。鍵をかけたから、勝手に僕の心の中に入ることは許さないよ。
「灰原、私は何かしたか?」
「…別に、なにも」
「じゃあ何故食べない!」
「僕の問題だから、しばらく放っておいて」
「十分放っておいた!」
怒声とドアノブを回す音が耳に響く。
「失恋に効くのは時間薬だって聞いたから、十二分に放っておいた。なのになんだ、全然忘れる気がないじゃないか」
そうだ。僕はこの気持ちとまだ決別できていない。
「…忘れるの、手伝ってくれる?」
はじまりは七海と家入さんの二人きりの光景。それが誰から見ても親密なものであれば、僕も諦めがつくはずだ。
「…!もちろん、何をすればいい?」
「…家入さんを連れてきて」
「は?」
「手を繋いで、キスをして、僕の目の前で、二人で」
そうだ。忘れられないなら粉々に砕いてしまえばいい。初心な七海には悪いけど、ここまで拗れた責任は取ってもらう。
「灰原」
「誤解だ。私と七海はそんな関係じゃない」
誰の声?と振り返ると窓から家入さんが入室してきたところだった。
「なんで?え?窓から?どうやって?」
「七海と話すときは、灰原、お前の話しかしていない」
「え?」
「ご飯の美味しい店の話とか、灰原好みの甘味のある店の話とか、今日の灰原のどこが可愛かったかとか」
「え?」
「家入さん!」
ゴッとドアを叩く音がする。だが動揺することもなく家入さんは話を続けた。
「あの日だろ?灰原だけ先に帰った日。外野がうるせーなとは思ったけど、こんなことになるなら大声で否定しておけばよかった」
「え…?」
「私は七海のことも灰原のことも可愛い後輩としか思ってないし、七海も私のことはヤニ臭い先輩としか思ってない。だからお前はまだ失恋していない」
ピタ、とドアの前の音が止まった。家入さんが鍵をはずしドアを引くと七海が前のめりに飛び込んできたが、彼女はそれを受け止めることもなくするりと避け外に出た。
「あとは二人で話し合え。じゃあな」
***
「あの、ごめん、七海」
「いや、その、私も悪かった。灰原の気持ちを蔑ろにするようなことを言って」
「いいよ。ごめんね、好きになって」
「…は?」
失恋していない、と家入さんは言った。だけど、今なら、振られてもなんとか立て直せる気がする。
「気持ち悪いよね。もう少しで忘れられると思うから」
「忘れなくていい!」
「七海?」
「さっき家入さんも言ってたが、私とあの人は別に付き合ってもいないし恋愛感情もない!」
「でも、それと僕の七海への気持ちは別じゃない?」
七海が僕の肩を掴む。鼻先がぶつかって翠色が視界を覆った。
「私は!灰原が好きなんだ!」
「…え?」
好き?すき?鋤ってなんだっけ?理解の追いつかない単語について考えながら意識を手放した。
***
その後、気絶から目が覚めた僕は「付き合ってほしい。返事がイエスかはいならお粥を渡す」と言われて空腹を抱えながら小一時間悩むことになる。