trap「ただいま〜…え?」
「あ、みゆひふんおあえり〜」
いや、いやいや?なにこれ?
なにしてんの?
俺の声に応えてお迎えしてくれた涼ちんは、真向かいにいる賢汰の肩を掴んだまま視線だけをこちらにくれている。
まあそれだけなら百歩譲ってこの自称宇宙人の奇行は今に始まった事じゃないからな、で済む、…済むのか?にしても距離感はおかしいわけだが。
しかし、今回はそれだけじゃないらしい。
この自称宇宙人は今細長いプレッツェルにチョコがコーティングされた菓子を口に咥えている。その先に続いているのは賢汰の口の、中。
眼鏡の隙間から俺の方を向くターコイズと視線が交わるが、抵抗している素振りはなく。好きにさせているのか受け入れているのかなんなのか、そもそもこいつの考えてる事なんて俺にはわからない。
俺を迎えて満足したらしい涼ちんは再び賢汰へ向き合い、1口、1口と食べ進め距離を詰めていく。
そう、これは多分、所謂ポッキーゲームというやつなわけで。
てかここ共有スペースだよね!?
パキッ
「あっ、折っちゃった〜ケンケンの負けだね」
「…ん、そうだな」
突っ込みを入れるタイミングをすっかり逃してしまった俺の目の前で、非日常的が日常へ戻る。
負けと言われた賢汰は、自ら折り残った端を更に噛み砕いては飲み込み、口元を緩めていてクツクツ笑っている。
涼の方が少しむくれた様に見えたが、ただ口を尖らせているだけで大して気にはしていないようで、片手に持ったままの袋から再び菓子を取り出し口へと運ぶと、パキパキと軽快な音を立てている。
「深幸くんも食べる?」
「え…いや、俺はいいよ」
「そっか〜、ざんねん」
しゅん、とする姿を見ると、1本くらい貰ってやればよかったかな、なんて思ってしまった。
恐るべき宇宙人の訴求力。
「あ、そろそろ出掛けてくるね」
「あまり遅くなるなよ」
「うん、わかったよケンケン」
今に始まった事ではないが、きっと涼ちんの考えている事も俺には一生わからないんだろうな…
食べかけの袋をテーブルへと残し、上機嫌な返事と共にソファーから立ち上がる涼へ投げ掛ける言葉は、友人と言うよりもまるで母親のようだ。
ひらりと手を靡かせて返す賢汰へにっこりと笑って返す涼もまた子供のようで、先程までの出来事は嘘だったのでは?とさえ思った。
「いってきまーす」
間延びした声が共有スペースの扉が閉まる事で遮られると、その“パタン”という音がやけに響いて感じた。
「あー、えっと…」
いや、でも気まずいだろ普通に。
俺が帰ってこなかったら?気のせいかもしれないが、涼の目にはライブ中に時折見られるギラつきを感じた気がする。あれは、間違いなく本気の目だ。
邪魔、したのか…?いや邪魔ってなんだよ…そもそもそういう関係なのこいつら…
「取り敢えず、座ったらどうだ?」
気付けば先程のターコイズが、今度は眼鏡の向こうから真っ直ぐこちらへ投げかけてくる。
それはもう、しれっと。何事も無かったかのように。
余計に気まずいんだけど。
取り敢えず促されるがまま賢汰から距離を取るように隣のソファーへ腰を一旦降ろすと、なぜそっちに座るんだ?と言わんばかりに眉をひそめてくるものだから尚更タチが悪い。
眼差しを無視して静寂を誤魔化すようにテレビを付けた。なんて事ない夕方のワイドショーが俺を緊張から救ってくれる。
あんまりこの時間にテレビを観る事もないから、液晶の向こう側があまりに平和すぎて、なんで俺はこんな同居人らの厄介事に巻き込まれているのかと、無意識に乾いた笑いを零してしまった。
せめて座る前にコーヒーでも淹れてきていれば、文字通りお茶を濁せたものを。
テレビを見ている体で隣のソファーを見やれば、スマホを操作しながらもう片方の手で先程の菓子を口へ運ぶ、我らが参謀のなんとも珍しい姿が留まった。パキン、パキン、と、容赦なく折られていくの音とは裏腹にきちんと咀嚼しているようで、そういえばこいつの弟甘いモノ好きなんだっけな、なんて曖昧な記憶を掘り返しながらつい目を細めた。
「なんだ、やっぱり気になっていたのか」
ヤバ、と思った時にはもう遅かった。
片手に摘んだ菓子の先を俺に向け、さもおかしいと言わんばかりに口端を釣り上げる賢汰と目が合ってしまった。
「は…、はぁ!?いや、あれは、突然の事でちょっと驚いただけで別に」
「ほう」
咄嗟に出てきた苦し紛れの言い訳で濁す俺が今どんな顔をしているのか、目の前の男の表情でなんとなく伺えてしまって、自分に同情すら覚えてしまう。そんな可哀想な俺に更に追い討ちをかけるかのように、その1本を口に咥え、ほら、と言わんばかりに賢汰がこっちを見てくる。
あーくそ、マジでなんなのこいつ。
絶対俺の事からかってるだけだろ…そんなのわかってるんだけどさ。
っていうか、涼ちんにはあんなされるがままになってたのに俺への態度の違いはなに?
そもそもなんで俺がこんな尋問みたいな事されてるわけ?俺なにか悪い事したっけ?
…なんか腹が立ってきた。この男まじでいっぺんくらい泣かしてやらねぇと気が済まないだろ。
「はぁ……」
頭の中をぐるぐると巡る独り言。
立ち上がり隣のソファーへ腰を降ろし直すが、距離を詰めたにも関わらず、賢汰はそのままこちらの動向を目で追うだけ。
「後悔すんなよ」
「?…、んっ」
咥えられていた菓子を取り去ると、その隙に噛み付くように唇を奪ってやった。
想定外だったのか、賢汰のスマホは手からすり抜けてカーペットの上へと転がっていく。
そのまま片手を後頭部へ差し込み逃がさないようにして、角度を変えて繰り返し口付けながら、俺の肩口を掴む手の存在には気付かないフリをした。
薄らと目を開くと堅く瞼を閉じる様が窺え、先程までの苛立ちが昂りへ変わっていくのを感じる。
なんだ、こんな顔も出来るのか。
テレビの音の中に、互いの隙間から零れる吐息と、濡れた水音が混じる。気付けば舌まで絡め合い、激しくしかし優しく、本能のまま熱を高め合った。
漸く唇を離してやると、解放してやった半開きの唇から漏れる熱、いつもの全て見透かすようなターコイズが蕩けて蒸気した表情にゾクリとした感覚が背筋を駆けていく。
頭を抑えていた手を頬まで滑らせると、乱れた呼吸を整えようと胸を上下させながらすり、と猫のように自ら擦り寄せてくる様に思わず眉をひそめた。
「っ…はぁ…、はぁ…」
「っは…、ったく、大丈夫かよ…」
自分のせいとはいえ、徐々に冷静さを取り戻してきてしまったおかげで悪になり切れない自分に苦笑してしまった。
乱れた賢汰は想像以上に艶やか且つ、あまりに唆るもので、自分が理性の強い人間で良かったとこれほど思った事はないだろう。
とはいえ、熱を残したままの眼で覗き込まれてしまうとそれにはなんとも耐え難いんだけど。
これ以上は本当にまずい。
というかここ、共有スペースなんだよな…なんだよ俺、人の事言えねぇじゃん…
慌てて引き剥がしまだ濡れた賢汰の唇を親指で拭ってやると、肩でひとつ息をして目を逸らした。
「ふふ…このまま、食われるかと思ったぞ」
「お前なぁ…」
言葉に反してどことなく声色は楽しげで。
どこからどこまでがこの男の思惑だったのか。
もしかしたら俺はこの部屋に入る前から掌で転がされていたのかもしれない、と思ってしまった時点で、今回は挑発に乗ってしまった俺の負けなんだろうな。