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ほらコレやるよと一年上の先輩は、七海の顔も見ずに小さな箱を乱暴に投げてよこした。
今日はバレンタインデーだ。朝に寮を出てすぐのところ、教室のある校舎まで向かう道のりだ。寒い早朝にマフラーからの息を白く染めているのは七海だけではなく、これを渡してきた背の高い先輩も同様で、もう後ろ姿しか見えないが、息が真っ白なのは見える。髪も真っ白で、マフラーと制服は真っ黒だ。二月の朝の光量の少ない、少し黄みがかった景色の中、どんどんと前を先に歩いていく。寒そうに、マフラーからはみ出た耳は赤い。
「……アナタが?」
七海はついそうこぼした。すると、どんどん歩いていた先輩は、さらに早歩きになり、すぐに駆け出して、健脚だからあっという間に走り去って、見えなくなった。
七海は手元を見下ろした。リボンのついた、どこから見てもバレンタインのチョコレートだ。
七海は今しがた走り去った先輩、五条と、所謂お付き合いをしているのだけれど、まさかバレンタインデーにチョコを渡されるとは思っていなかった。なぜなら五条はガサツで粗雑で、悪ぶっているから人の喜ぶことは何一つしたくないというような態度をとっていて、そんなひねくれた子どもで、だからまさかバレンタインデーに、プレゼントを用意してくるなんて、思いもしなかったのだ。
だから、礼よりも何よりも、
「アナタが?」
と、ついそんな反応をしてしまった。
七海は教室に向かって歩き出した。もう同級生はいない。七海の学年の生徒は七海一人だけだ。一つ上の先輩も、二人だけだ。だから座学もその他学校行事も、学年ごとではなく複数の学年まとめて行われることが多い。別段、ここで落ち合わなくても、五条とはまたすぐ後で顔を合わすことになるのだ。
走っていってしまった五条は、恥ずかしかったのか、バツが悪かったのか、そんなところだろう。七海は中身がチョコレートだと思われる箱を、鞄の中の、体温で溶けないだろう場所へしまった。
七海は今までに交際した相手からチョコレートをもらったときのことを思い出した。
「もう少し嬉しそうにしなさいよ」
と言われたことがあった。自覚も多少はあるけれど、プラスの感情はほぼ表に出ないらしい。
「わざわざ用意してあげたんだから、来月はよろしくね」
そんなふうに、早々にホワイトデーの倍返しを催促されることもあった。
どちらも、五条も言いそうなことだ。
「オマエさー、もう少し嬉しそうにしろよ、この俺がチョコ用意してやったんだぞ? あー、それから来月、楽しみにしてるから。百倍返しってやつ」
想像してみたら、とても似合う。いかにも、むしろこっちのほうが彼らしい。
なのに、黙って、耳を赤くして走り去ってしまった。
七海は歩きながら、鞄を開けて、もう一度小箱を見た。メッセージカードやその他のものは見当たらない。ひっくり返してみたけれど、どこかの店で買ったものらしく、原材料や賞味期限の表記がされてあるだけだ。
鞄を閉じた。
五条がこれを店で買うところを想像した。女性客の中に、サングラスをして、ひとつだけレジに持っていく。とても似合わなかった。そしてとても愛おしくなった。とてもたどたどしく、不慣れで、いたいけで、不器用だ。
校舎にたどりつき、七海はホームルームが始まるまでの数分の時間で、五条を見つけた。七海に一瞥をくれると、不機嫌そうに顔を顰め、踵を返してその場を去ろうとする。
「五条さん、逃げないでください、お礼ぐらい言わせてください」
「うっせーバカ。やんじゃなかった、クソ」
わざとらしい悪口雑言に不貞腐れた顔も、頬が赤いから意味がない。七海は立ち去ろうとする五条の手を掴む。簡単に掴めてしまえるから、可愛い人だと胸の内も温かく膨らむ。
「ありがとうございます。大事にいただきます」
「……おう」
「来月、お礼をさせてください」
「……べっつに、レーが欲しくてやったわけじゃねーよ」
そっぽ向いて、拗ねた口をしているけれど、本音は恥ずかしくてたまらない。そんな内心が七海には手に取るように伝わってくる。年上の、全く年上らしくない恋人は、とても素直で正直なのだ。
七海はできればこの場で抱きしめてキスをしたかったけれど、無情にも始業のベルは鳴り、仕方なく、今夜の約束を五条の耳元で囁いて、教室に向かった。
五条は遅刻した。