夢魔ひたひたと、忍び寄る黒い霧。
怨霊だろうか、邪祟だろうか。
ただ、これが現実ではないことを江澄は知っていた。
何故ならここ七日ほど、ずっと同じ【夢】を見続けているからだ。
霧、というのも、正体がはっきりとはわからないので呼びようがないだけで、影の方がしっくりくるかもしれない。
だが実際それは霧でも影でもない。
毎夜、夢の中でそれは江澄にのし掛かり、敷布に縫い止めるように両の手首を掴んだ。大世家を率いる宗主である江澄でさえ身動きの取れない恐ろしい力で。
初めはこの奇妙な夢に恐怖さえ抱いたが、幾晩も繰り返せばそれも薄れる。
霧は江澄を押さえつけているだけで、他には何もしないのだ。
それは江澄を、油断させる手管であったのかも知れない。
それとも、彼自身でさえ知らない深くに眠る欲望を、呼び覚ますもの。
動きを封じられて対峙するだけの夢のあと、焦れて迎える朝は決して心地良い目覚めではなかった。
実害がないと思ってはいるもののこのままではよくないのだろう。
鬱々と胸の内に溜まる澱はいつか夢の中に留まらず具現化するかもしれない。
その時こそ、あの霧が思惑を果たすとき。
主管に気付かれないように吐き出した溜め息は、まるで霧のようだった。
人の夢に忍び込む邪祟なら、退治も可能なはず。
同じ夢を見始めて十日を過ぎた頃、ついに江澄は霧の正体を確かめることにした。
以前よりも気安く付き合えるようになった藍宗主に、古今東西の邪祟に関する書物を閲覧させて貰えないかと書簡を送った。
西域に悪夢を見せる邪祟があると聞いた記憶があるので、該当の記述がみつかればありがたい。正体さえ掴めれば対処のやりようがあるからだ。
急な依頼にもかかわらず、藍氏宗主の曦臣は快く江澄を迎えてくれた。
「調べ物なら、手伝いましょう」
「そこまでお手を煩わせる訳には」
藍宗主の親切な申し出を断って、江澄は西域について書かれた書物を何冊か見繕う。何しろ藍家と言えばその蔵書数は仙門百家一なものだから、手を借りた方がよかったかも知れないと江澄が少しだけ後悔したのはすっかり辺りが暗くなってからだった。
異変は、その夜のこと。
ひたひたと忍び寄るものの気配に、「ああ今夜もまた」と夢の中で夢と自覚する。
だが、いつものように江澄を押さえつけたその黒い霧はぼんやりと人の形になり、その掌で頬を撫でてきたのだ。
「?!」
ひっと息を飲むが、声にはならない。声を上げられさえすれば、目覚められるのに。
眠りは霧の味方か、江澄を捕らえたまま沼のようにずぶずぶと沈められていくのだ。
頬に触れていた掌が次には瞼を撫で、唇を撫で、首筋、鎖骨と、下へ伸びていく。衣の下に潜り込み、江澄の欲を呼び起こす。まさぐるような動きと同時に、荒い息遣いさえ聞こえた気がした。
(まずい)
これは江澄の夢だが、もはや江澄のものでない。別の意思を持った何者か。
身体を這う黒い霧にせめて抵抗しようと江澄は、淫靡な夢など一瞬で飛び去ってしまいそうな、真っ白な男の姿を思い浮かべた。
──既に亥の刻を回ってからしばらく。
雲深不知処の冷泉に、暗闇に紛れるように身体を沈める人影があった。
きゅっときつく目を閉じ、自らの中から何かを、追い出そうとしているような表情で。
それなのに漏れるのは、熱い息。
雲が流れ、月の光に照らされたその顔は誰もが名士と謳う藍曦臣。
熱病を患っているように潤む瞳には、先ほどまで見ていた許されない夢の続きが残っている。
貴方を、この手で、もっと。
口づけの距離で双眸の矢に貫かれたい。
貴方の怒りも、苦悩も、全てをこの身体で感じたい。
藍曦臣の心を攫ったのはあの日吹いた荷風。
その風を追って、捕まえて。
この腕の中で咲いてほしい。誰も知らない花弁の色で。
チリ……ッと一瞬、冷泉の水に焼かれるように黒い霧が、立ち昇って消えた。