銀貨三十枚「ねえ、三十枚の銀貨って現在の価値だとだいたい百万円くらいらしいよ」
すっかり住み慣れた寮の自室に伏黒が帰宅すると、そこには散々見飽きはしたが風景には馴染まない男が伏黒のベットの上で太々しく胡座をかいていた。伏黒がベットが汚れるのを嫌い入浴前に布団に入ることを避けるタイプであることを知っているくせして、男は遠慮なく持参したのであろうビスケットを貪っている。伏黒は痛む頭を抱えながら、ひとまず脇に抱えていた花束を備え付けの勉強机へと置いた。
「五条さん、どいてください。誰が掃除すると思ってるんですか」
「恵でしょ。んー、どこうにも僕ほかに座るところないし」
「座布団あるでしょ。緑が客人用なのでそれ使ってください」
「違うでしょ、それは悠仁専用のやつ。黄色は恵のでしょ」
食べにくいであろうビスケットをなんとも器用にカケラをこぼすことなく口に放り込みながら、五条がピシャリと反論を返す。伏黒は背筋を一度ピンと張ると、諦めて黄色の座布団に腰を下ろした。出会ってからこのかた、伏黒は五条に口論で勝った試しがない。チャランポランに見える五条だが、内面はどこまでも冷静で合理的な男であるからだ。当時八歳の伏黒を理詰で追いつめ泣かせ、津美紀に叱られていた光景はいまだに伏黒の中に鮮明に残っている。
「わざわざそんなことを言いにここまで来たんですか?」
お優しいんですね。皮肉をこぼせば、何が楽しいのか伏黒の枕に顔を埋め子供のように笑いだす。昔っからそうだ。こちらのことなんてお見通しとでも言いたげな顔をして伏黒を嘲笑い、伏黒の理解できない文脈で破顔する。「恵じゃ僕を理解できないよ」と言われているようで、五条のこの笑顔は伏黒の神経をよく逆撫させた。五条は一通り笑って満足したのか顔を上げると、一瞬で緑色の座布団の上に着地し伏黒の隣に坐す。術式を無駄遣いするなよ、とは思ったが、今度は言葉を呑み込んだ。
「ユダは百万円でイエスを売ったんだ。でもさ、安すぎると思わない? ユダの行為ってそれこそ一生遊んで暮らせるだけの報酬をもらっても安いくらいのものだったと思うんだよ。それがたったの百万円。彼は歴史を変えたっていうのにさ! あ、でもこの話の続きを知ってる? ユダはその後イエスを犠牲にして手に入れたたった三十枚ぽっちの銀貨を、自責の念にかられ返却してその後首を吊ったんだ。フフッ、だったら最初からそんなことしなきゃいいのに。ねえ恵、面白いでしょ?」
「俺が首を吊ると?」
伏黒の隣で体育座りをしながら瞳孔がキュウッと収縮する。蛇に睨まれた蛙に思いを馳せる伏黒の内心など素知らぬふりで、五条は言葉を続けた。
「悠仁とはもうヤった?」
「何言ってるんですか」
「アハハ、ヤってないか。まあそうだよね、だってさっき告白されたんだし。でも今時プロポーズに花束ってベタすぎない? 悠仁ってそういうところ本当に可愛いよね。ね、恵もそう思うでしょ?」
五条の長く筋張った掌が伏黒の頭を滑っていく。精一杯優しさを取り繕っている居住まいが、かえってホラーを煽っているのは五条の才能である。伏黒は渇いた喉を唾を飲み込んで潤すと、鼓動を早める心臓を落ち着かせるため深く息を吸い込んだ。
「先に俺を裏切ったのは五条さんの方でしょ? アンタは銀貨三十枚どころか、最初から俺なんか眼中に入ってなかった」
昨年の年の暮れ、珍しく五条がクリスマスに伏黒の家を訪ねた。例年であればクリスマスを祝うことはあっても、たいてい一日や二日すぎていたり早かったりと適当なスケジュールで連絡もなしに訪れていたので、珍しいこともあるもんだと感心している伏黒に、五条は上機嫌に笑った。
「ぼく昨日彼氏殺しちゃってさあ、独り身ってわけよ。去年まではさすがに彼氏以外のセックスしている男とクリスマス過ごすのはヤバイかなって思って避けてたんだけど、今年はまあいいかなって。それに恵いま一人暮らしだから寂しいかなとも思って、優しい五条さんがクリスマスケーキを持ってきてあげました〜!」
その瞬間、伏黒は五条を理解することを放棄した。別にスケジュール狂ってたわけじゃないんですねとか、もしかしたら来るはずもない彼氏を待ちながらクリスマスを一人で過ごしてましたかとか、アンタと俺って一応付き合ってたんじゃないんですかとか。言いたいことは山のようにあれど、ぶつけたところで暖簾に腕押しでしかない。同じ人間同士であれ思想の違いから戦争を起こすのだ、人外との共存など無理に決まっている。
「言うようになったね、恵」
五条は首元でわだかまっていた布を再び上げると、すっぽりと目を覆う。言葉とは裏腹に、伏黒の肌をさしていたプレッシャーは消滅していた。
「うん、でもそうだね。きっとあの花束は恵にとっては三十枚の銀貨なんかよりもよっぽど価値のあるものなんだろうね。あぁ、そっか。僕は恵に銀貨三十枚ぽっきりの価値もつけてあげられなかったのか」
納得したように頷くと、五条は立ち上がる。
その自信ありげに堂々と胸を張る立ち姿が好きだった。
スイーツを口に運ぶときの満足げな笑みが好きだった。
刈り上げた頸から覗く、真白の耳の裏が好きだった。
「邪魔したね、恵。おやすみ」
パチン
破裂音につられ顔をあげれば、既にそこに五条の姿はない。伏黒の頭上にあるのは、シーリングライトの無機質な青白い光のみであった。