AM9:00で待っていて 全身から絶え間なくあがる悲鳴を無視するかのように、足取りはどこまでも軽かった。
休日前夜というものは誰しも自然と心浮き立つものだろう。それは日頃仕事に忙殺され、仕事場が半分家と化してしまっている水上とて例外では無い。週休二日とは名ばかりの職場は代休の残日数が溜まっていくばかりであるが、そんな劣悪な職場環境に身を置く水上とて最低週に一度は休みがある。山積みになった報告書類を片付け、水上で止まっていた問い合わせに返信し、それでもしつこくやって来るメールに無視を決め込み家路につくのだ。水上は毎度お馴染みとなった心許ない街頭の灯りが照らす、すっかり営業が終了した商店街を抜けながら、ぼんやりと思い耽る。今日は生駒は起きているだろうかと。
水上が帰宅するのは早くとも日付が変わる直前といった感じなので、常日頃早寝早起きの生駒が先に寝てしまうことは多々あった。共に暮らし始めた頃は、遅く帰宅する水上を出迎えようと踏ん張った結果、リビングテーブルの上で無惨に寝落ちてしまった生駒を回収するなんてことを繰り返していたのだが。度重なる水上のお願い、もとい説教を重ねた結果、生駒は水上の帰りが遅い日はキチンとベッドの上で先に寝てくれるようになった。よって帰宅した水上を待ち構えているのは大抵は生駒の健やかなる寝顔と、リビングテーブルの上に用意された手作りのおかず達である。ただ、そんな生駒も起きて水上を待ち構えている日がある。それは生駒の前日の任務が深夜シフトだった場合だ。そんな日はいくら早寝早起きの生駒と言えど、その生活リズムを崩さざるを得ない。いつもの睡眠時間を丸々任務に当てこんで、早朝帰宅した後にたっぷりと眠るのだ。そうしてすやすやと昼過ぎまで眠りに就いた日は、流石の生駒と言えど日付が変わった程度ではまだ眠気はやって来ないようであった。
大人気なく爪先からソワソワとしたむず痒い感覚が全身に広がる。昨晩は帰宅していないので、生駒のシフトがどうなっているかは把握していない。なので今夜帰宅して生駒が起きているかは完全なるガチャだ。ただ、今夜に限ってはなるべく起きていてくれると有難い。なんせ明日は水上も生駒も、揃って休みなのだから。休日が不規則な生駒と、休日を労働で潰しがちな水上にとって、これは実に貴重な一日であった。まあだから、そんな貴重で大切で珍しい一日の、前日だから。出来れば、可能ならば、生駒にはしっかりバッチリ起きて頂いて、どうにかこうにかセックスに持ち込みたい、と水上は霞む思考の向こう側で考えていた。休日が被った日は基本的に二人でどこかに出かけることが多い。テレビを見ている時に生駒が興味を示したご飯屋だとか、生駒が行きたいと零していた近場の観光スポットだとか。アクティブな生駒に合わせて、二人でよく様々な場所に出かけていた。そんなんであるから、休日は実は生駒に触れるチャンスはあまり無い。し、水上としてもそれで良いと思っている。普段仕事ですれ違っている分、休日くらいは生駒の良き彼氏として役目を果たしたい。というかそれ位しなければそろそろ捨てられてしまうだろ、という危機感すらある。よって休日に出かけるのは水上としては全く不満はないのだが、口ではそうは言っても生駒を抱きたい、と思うのは水上の純然たる嘘偽りない本音であった。
何も互いに忙しすぎて全く触れ合う時間が取れていない、なんてことはなく。隙を見ては週一程度で行為自体はしている。ただ、それでも、翌日互いに休みの中ゆっくり出来るというのは、なんとも魅力的であった。自分でも若すぎないか? と思わなくはないが、自分の気持ちに嘘はつけない。水上だってまだまだ若いのでタイミングが合えば恋人とイチャ付きたいし、セックスだってしたい。日頃の取り繕った社会性や積み重ねた己の仮面など、生駒を前にしてしまえばすべて無意味に帰すのであった。
「帰りました」
小声で声をかけながらリビングの扉を開く。賭けのような心地で開いたリビングの扉の向こうには、いつも通り机の上に並べられた冷めたおかず達が待ち構えていた。今日は寝ている日であったか。仕方がないと肩を落とした水上を、しかしリビングから続く寝室の奥の気配が制した。
「おかえり〜」
開いた寝室の扉から生駒がひょっこりと顔をだす。しっかりとした声色は、生駒がまだ眠りについてはいなかったことを示した。
「起きてたんすか?」
声をかければ、生駒は目元を拭いながら頷いた。
「うん。ベッドでゴロゴロしとった」
「あー、邪魔しました?」
「いや、本読んどっただけやから」
「へー、珍しいっすね」
「今日買った嵐山の特集組まれてる雑誌、読む?」
そう言って生駒が取り出したのは、レモンを片手に微笑む嵐山が表紙を飾る雑誌の表紙であった。なるほど、普段本にあまり興味を示さない生駒が珍しいと驚いたが、あの嵐山が載った雑誌を読んでいたのか。というか全国区の雑誌に載るとはボーダーの広報力というか、嵐山の知名度も凄まじいものがある。水上は今更ながら己の属する組織の影響力に少々背筋を寒くさせながら、首を横に振った
「遠慮しときます」
「そう? まあ置いとくから暇な時にでも読んでな。あ、ご飯食べる?」
「いや、先に風呂はいります」
「おっけー。沸かす?」
「や、シャワーだけにしときます」
水上はそう言うとさっさと浴室に向かう。服を脱いで、シャワーを頭から被って、そうして長く細い息をついた。今晩はどっちだ? 確かに生駒は起きてはいた。先ほどの生駒を思い返すに、眠くて仕方がなさそうといったわけでもない。ただ、雑誌を読んでいたとはいえ、明らかに寝る寸前といった様子でもあった。ラップをかけられた生駒手作りのおかず達だって、あれは生駒が先に寝てしまうパターンの時のだ。生駒は前日が深夜シフトの時は、水上が帰宅する時間に合わせて夕飯を作り一緒に食べようとしてくれる。つまり状況を整理すると、生駒が寝る直前のタイミングで水上が帰宅した、といったところだろうか。嵐山の雑誌にテンションが上がって目が冴え、たまたまこの時間まで起きていたところに、水上が帰ってきたと。水上は無心で身体を洗いながら、もう一度肺から息を吐き出した。これは今晩は無理だろう。けれども、どうせ生駒が寝ていたら最初から諦めるつもりではあったのだ。そりゃできたらベストではあったが、生駒が起きていて会話が出来ただけでも水上としてはベターであった。そう、だからせっかく生駒が起きているのに行為ができなくとも、全くぜんぜん残念なんかじゃない。本当にこれっぽっちも、毛ほども、なんとも思っていない。ほんまにほんまに。
水上は心中で何度も自分に言い聞かせながら風呂から出る。リビングに戻ると、生駒は未だ起きていた。
「おかえりー。あっためといたで」
生駒がそう言って指差す先には、温め直されたおかず達がテーブルの上にお行儀よく並べられていた。少ししんなりとした生駒特製の野菜炒めは、お店ではまず見られないほどに肉の比率が多く、醤油ベースの味付けで水上の好物である。水上は礼を言って席に着くと、有り難く箸をつけた。
「うまいす」
「おー、おそまつさん」
そうのんびりと返す生駒はと言うと、リビングの中央でゆっくりとアキレス腱を伸ばしていた。これはあれだ、寝る前のストレッチとかいうやつだ。つまり生駒は水上を待つ気概はあるが、このまま寝る気満々ということである。うーん。
いやほんと別にセックスなんて出来なくとも良いのだ。水上にとっては生駒が毎日隣で取り止めのない話をして、寄り添ってくれるだけでも十分なのだ。セックスできればもちろん嬉しいが、そこは本質ではない。だから期待していなかったと言われれば嘘にはなるが、全然ほんと、出来なくたって悔しくはない。自分はそんな俗物的なもののために生駒の手をとったわけじゃない。良いじゃないか、出来なくたって。こうして生駒が目の前で呑気にストレッチしてる様子を眺めているだけで満足だ。一体何に不満があると言うのだ。こういう日常の何気ない一コマが二人の愛を育む……、相変わらず何度見ても良い身体つきをしてる。日々筋トレを欠かさない人間はちゃうわ。……いや、ほんま、うわ、ケツでか……、
「あ、そういや」
「なんすか」
若干食い気味で返す水上を気にした様子もなく生駒はストレッチを終わらすと、水上の向かいに座る。寝巻きの下からでも分かるほどに生駒の乳はデカかった。
「明日って俺もお前も休みやん?」
「そうっすね」
力強く頷けば、生駒もうんうんと頷きを返す。いつも思うがそのシャツはサイズが合っているのだろうか。妙にピチピチしていて水上は少し心配になった。
「せやから明日久しぶりに遠出せん? あんな、俺マグロ食べ行きたいねん」
「……マグロ」
マグロ、鮪。そうか、鮪。というか、そうか、明日の相談か。水上は神妙にもやしを噛み締めた。いやそりゃそうだ。明日出かけたいと考えているなら、今のうちに相談するのが筋ってものだ。生駒はスマホの画面をこちらに向けながら、マグロが有名だと言う漁港を教えてくれた。ちょっとした観光スポットになっているというその漁港は、ここから車で一時間ちょいで行けるという。明日は天気も良いし、絶好のお出かけ日和と言えるだろう。
「ここなー、山崎さんが教えてくれたんやけど」
「だれすか」
「うん? 俺がよう行く八百屋のおじさんの、友達の、その釣り仲間」
「遠すぎません?」
「むっちゃいっぱい格安の定食屋とかあるんやって。海も目の前やし、オシャカフェとかもあるし、もう絶対楽しいやん。行こうや〜」
「へー、いいっすね。そんなら明日はそこにしましょうか」
…………うん、今日は大人しく寝よう。水上が決意を固めた瞬間であった。これはもう明らかに朝から家を出て一日おでかけするコースだ。前日に夜更かしをするテンションではない。というか、水上もこれだけ楽しみにしている生駒の気持ちを台無しにはしたくなかった。水上は大人しく食器を片付け歯を磨くと寝室に向かう。ベッドの中では、先ほどの嵐山の雑誌を捲る生駒の姿があった。生駒は水上に気がつくと、水上が入れるように少し身体をベッドの端に寄せる。水上は誘われるようにベッドに上がると、大人しく布団を被った。
「ずっと読んでたんすか」
「インタビュー熟読してた。なあ知ってる? 嵐山ってあんな肌綺麗やのにスキンケアとか全然しとらんらしいで。それどころか牛乳石鹸で全身洗っとるらしい」
「へー、知らんかったっす」
「まあ俺は昔から知っとるけど」
「なんすか、その厄介な古参ファンみたいなセリフ」
生駒のツッコミだらけの話に耳を傾けながら欠伸を噛み殺す。布団に入ったら途端に眠気が全身を襲った。そもそも今日だって朝早かったのだ、身体は疲れ切っている。明日に備えて早く寝てしまおう。水上が明日何時に出るか生駒に相談しようと横を向いた刹那、両頬を温かい手のひらに包まれる。そして遅れて、唇に人肌が触れた感触がした。呆気に取られる水上に、生駒はいつもと変わらない無表情を返すと、雑誌をサイドチェストに置いた。
「明日休みやし今日するかなー思ってお尻洗ったんやけど、水上疲れとるならしゃあないな。明日もお出かけやしはよ寝よか、おやすみ」
生駒はそう言うと目覚ましをセットして、ベッドサイドの明かりを消す。こういう時は大抵生駒が先に起きて朝の準備をした後、水上を後から起こしてくれるのだ。いやまあそれは良いとして、置いといて。おい、いま、おい、ケツ洗ったって、おい。
「はあ!? 全然ヤリますけど!!??!」
「うお、元気」
「こちとら帰ってくる前からヤル気満々やったんすけど、そういう大事なことは帰ってきた瞬間から言うてもらえます!?!?」
「元気迸っとるやん」
水上は勢いよくベッドから起き上がるとベッドサイドの明かりを点け直す。なにこの男は今日一日を穏やかに締めくくろうとしているのだ、そうはさせるか。
「こっちはあんたが寝る準備しとったからこんまま寝るもんやと気を遣ったのに……」
「いやー、それが今日するかな? 思って実はちょっとお昼寝したから、割りかし元気」
「マジでそういうんは迅速に伝えてもらえます? 報連相って社会人の基本すよ」
「お冠やな」
水上は自分を棚に上げまくると目に毒で仕方がなかった生駒の胸に顔を埋め、思い切り息を吸い込む。清潔な石鹸の匂いに混じって、日に焼けたパンのような生駒の匂いが奥から香った。
「明日ちゃんと起こしてくださいね」
「生駒、了解」
恭しく敬礼する生駒の頬をお返しとばかりに手のひらで包むと、遠慮なく唇に噛み付く。
水上の欲しかったベストが、確かにそこにはあった。