無名のファイル「恵ってサッパリした食べ物好きって言ってたよね」
扉を開けると、そこには日常生活ではそうそう拝まない白金に光り輝く頭髪を靡かせた男がいた。睫毛の奥まで純白をたもつ男は、ビニール袋を伏黒に差し出すと我もの顔で靴を脱ぎ捨て家へと上がる。押しつけられた袋の中身を確認すれば、小分けにされた生蕎麦がいくつか入っていた。つゆやネギなども同封されたその袋は、どうやら茹でて皿に盛れば完成という代物のようだ。
「おそばですか」
「うん、三人で一緒に食べようー。って、津美紀は?」
「ちょうど買い物に出ています。さっき出たばかりです」
「そっか、入れ違っちゃったなあ」
五条はそういうと座布団を枕にし畳の上にゴロリと寝転がる。以前はなかったえんじ色の座布団は、津美紀が「五条さんが来るから」と言って買い揃えたものである。それまでは来客はおろか姉弟ふたりのみしか存在することの無かった六畳一間は、五条が訪ねるようになってから少々物が増えた。食器類は三人分揃えるようになったし、客用の布団なんてものも用意されている。べつに五条はそんな頻繁に来るわけでもなく、よくて月に二回顔をみせる程度なのだが、窮屈になったアパートは以前より風通しがよくなったように感じる。
伏黒はしかたなくキッチンに立つと、大鍋を取り出し湯を沸かす。こういうのって普通オトナがやるもんじゃないか、と思わなくもないが五条にその理論は通じない。伏黒も火の扱いには日頃から慣れているので特段つっこむこともなく、沸き立った鍋に五条と伏黒のふたり分の麺を入れると、片手間につゆなどを手際良く揃えていく。
しかし、珍しいこともあるものだ。いつもの五条ならばたいていシュークリームやどこぞのケーキなど、とにかく甘いものを手土産にしていた。そうでなくとも「恵や津美紀がこれ好きだろうな」なんて考えながら買ってくるなんてこと、それこそ前代未聞すぎて津美紀に訊かせたら驚かせること間違いなしである。気まぐれなのかなんだか知らないが、五条は伏黒にとって非常にやりにくい相手であることは間違いなかった。『恵』なんて馴れ馴れしく名前で呼ぶくせして、触れようとすれば五条の術式で弾かれる。なのにほんのたまに、こうやって蕎麦を持ってきては伏黒たちを振り返る。突き放したいのか歩み寄りたいのか、強いんだか弱いんだか。それを推し量るには、伏黒はまったく五条のことを知らないのだ。
「五条さん、できましたよ」
ひとまず自分と五条の分だけを用意し居間にはいると、そこには相変わらず無駄にデカイ図体を遠慮なく広げ寝転がっている五条がいた。よく見れば、どうやら眠っているようだ。伏黒は詳しくは知らないが、どうやら五条はこれでも忙しい身らしく年がら年中全国を飛び回っているらしい。季節は梅雨も終わりに差し掛かり暑さを思い出し始めたとはいえ、このままでは肌寒いことだろう。伏黒は「せっかく茹でたのに」とぼやきつつ、押入れからタオルケットを取り出すと五条にかけてやる。かけるついでに顔を覗き込むと、普段の笑顔を削ぎ落とした鋭利な寝顔がそこにはあった。温度を感じさせない白い肌が、無防備に晒されている。
ふと、伏黒のなかに「この人って本当に人間なのかな」と疑問が浮かんだ。動いて喋って、呼吸をしているが、一度だって体温を嗅ぎ取ったことがない男。好奇心の萌芽が伏黒の中で産声をあげる。伏黒は息を止めると、慎重に五条の頬に触れた。指先につたわる感触は、伏黒の予想を裏切り温もりを訴える。
「…あ、」
生きてる
当たり前の事実が、伏黒の背骨を舐めあげる。だって伏黒は、五条のことなんてこれっぽっちも知らないのだ。道端に居座る気持ちの悪い化物が呪いと呼ばれるものであることも、自分が不思議な力を使えることも、呪いと戦う機関が存在することも。五条はそれらを教えてはくれたが、五条自身のことはほとんど語らない。だから、伏黒は五条が生きている可能性だってすっぽり頭の中から抜けて過ごしてきたのだ。
「ん…」
「!」
五条の瞼が震え、とっさに伏黒は手を引っ込める。五条は眉間にシワを寄せると、むずがるように身体を小さく丸めた。
「……すぐ、る」
ゾワリ
身体中を駆け巡る電流の根元を、伏黒は知らなかった。ただこのままでは危ないと本能的に察知し五条から距離を取る。心臓はうるさいほどに脈打ち、洩れる吐息は熱をもっていた。
本当に、いまのいままで伏黒は五条が人間であるなんてこと知らなかったのだ。触れたら氷のように冷たくて、予め設定された言葉を喋って、傷つくことなんて知りませんって顔して。だから、だから、こんな迷子の声を出すなんて考え付きすらしなかった言うのに。
「…なんだよ、これ」
伏黒は部屋の隅で膝を抱え顔を埋める。冷え固まった蕎麦の横で、津美紀が帰宅するまで伏黒はいつまでも頭を抱え過ごした。
雨の匂いがまだ残る、蒸し暑い夕暮れ時のことであった。