恵誕2017おにぎりの前を横切るのが何回目なのか、恵は分からなくなっていた。コンビニの店内を周回するのは止めにして、そろそろ目当ての品を購入しなくてはいけない。
誕生日にケーキを買うことぐらい、誰でもできるはず。でも、明るく冷たいケースの前で苺のケーキを眺めると、途端にいやらしい気持ちになり、いてもたってもいられなくてその場を離れた。
ケーキなんて諦めればいい、と思う反面、どうせ彼は今日こちらには来ないのだから、一人で気ままにケーキくらい食べればいいとも思う。
明後日の一二月二四日。大規模な襲撃を行うと、特級呪詛師がわざわざ日付を指定して宣戦布告したらしい。その呪詛師のせいで高専に所属の準一級以上の呪術師は総動員され、防衛準備に追われている。もちろん、五条悟は作戦の中心だ。忙しくて寝る暇もないかもしれない。が、恵はその場にいないので、分からない。
準一級以上でもなく、高専生でもない恵は、当然ながら補助監督から自宅待機を通知された。自分だって戦えると言いたかったが、夜蛾学長がくだす決定が覆ることが無いこともよく分かっていた。面白くない。しかも誕生日だ。これがケーキぐらい食べずにいられようか。
都合のいいことに、今年は食事を横取りされず、独り占めできる。
毎年、誕生日には五条がやってきて、恵のケーキや食事を横取りしていった。五条は「おすそ分け」と言って食べるのだが、分け与える側が良いと言っていないのに、おすそ分けにはならないだろう。ただの強盗だ。
一応、後から別の高級なスイーツを持ってきたりするから、強盗ではないかもしれない。強制物々交換というべきか。
昨年も大騒ぎして、恵の食事を奪っていたな、と思い出し、少し落ち着いた気持ちになり、コンビニの店内を半周してケーキのケースの前にたどり着いた。ケーキの箱はみっつ並んでいる。ひとつの箱には三角形がふたつ。それぞれにモミの木の厚紙が刺さっている。クリスマス用だ。用途が違うことで、理屈に合わない居心地の悪さがあるが、味には関係ないとも思う。
白いクリームの上に乗った苺が赤くツヤツヤと光っている。そこで先週、五条とキスしたことを思い出す。ついでにキスした時の舌がぬるぬると滑らかであったことを思い出す。気持ち良かったことも同時に思い出すと、その時は見なかったはずの彼の乳首のことも恵の脳裏にはちらついた。だって、ケーキの苺が白いクリームの上に二個並んでいるのだ。誰だって乳首を想像するだろうよ。
くっそ、なんで二個なんだ。
乳首の妄執と羞恥が募り、走り出したくなった。このままでは再び店内を周回することになってしまうため、深呼吸して踏みとどまった。
さあ。俺。早く買え。乳首を、じゃなくて、苺をじゃなくて、ケーキを。
勇気を出してケーキの箱に触れた途端、尻が震えた。電話だ。
条件反射で通話ボタンを押し、スマホを耳にあてる。と、今、恵が最も聞きたくて聞きたくない声が耳に流れてきた。
「めぐみ? あのさあ、明日の録画予約忘れてきたから、恵が代わりにやっといてくんない?」
「はあ」
「聞いてる?」
聞いてる、と言えばいいのに上手く声がでない。
「めぐみ? ちょっと! ちゃんと録画しておいて!」
何時から何の番組を録画しろとも言わず、五条は一方的に雑談を始めた。
相槌も打たず、意見も言わず、ただただ彼から発せられる振動を受けとめていた。もっとずっと聞いていたかったし、本当は声だけでなく、体そのものを感じたかった。
自分の声を混ぜず、ただ彼の声だけを聞いていれば、そのうち声以外の部分もこちらまで飛んでくるような気がしたのだ。が、ふとした瞬間に「五条さん」という男の声が混じって聞こえた。「五条さん、五条さん」と何度も彼を呼ぶ声は、聞き慣れた伊地知のものだった。
「めぐみ、僕は呼ばれちゃったから行くね。録画頼んだから」
それだけ言って、五条は電話を切った。
録画の番組も、誕生日を祝う言葉も、彼は口にしなかった。
でもそれは、たいした問題ではなかった。
言葉なんてもらっても仕方ない。
もっと欲しいものがある。
手に入るか分からないが、手に入っても入らなくても、呪いのようにずっと、百歳になっても彼が欲しいことは分かった。
欲しいものが何か分かった。それだけで良い気分だった。
もう、誕生日はこれでいい。
ケーキを食って、彼のことが欲しいと念じながら、ひとり自分を扱いて寝ればいい。