あの日の花火 一瞬でも目を離したら見失ってしまいそうだ。心配そうに前を歩く子供達を目で追う真吾に、メフィスト二世は微笑む。もう迷子になって泣くような小さな子供ではないのに、真吾にとってはそうではないようだ。
数年ぶりに催される花火大会で、駅前の商店街は賑わっていた。歩行者天国に交通規制され飾り付けられた道路の両脇には屋台が並んで、その間をそれぞれ手にかき氷、チョコバナナ、りんご飴など魅力的な戦利品を手にした人達が皆笑顔で行き交っていた。
友達同士で誘い合い遊びに来たのだろう花が咲いたような浴衣の集まりや、風船の犬を散歩しながら歩く子供の手を引きゆっくり歩く親子。大量の焼きそばを両手に休憩所へ急ぐ人、ヨーヨーすくいの店の前でお互いの財布を見せ合う子供達。
すれ違いざまに知り合いを見つけては手を振り会釈をし、また流れに溶け込む。
メフィスト二世は人の営みが好きだった。特にめいいっぱい楽しく生きる為に用意される様々な催しは、人間の無邪気な娯楽の探求で飾られ、何処を歩いても何を見ても華やかで楽しい。そして、華やかなその陰で沢山の苦労を重ね実現し支えているのだろう大勢の人達を思う。
花火大会に行こうと、子供達と真吾に声を掛けたのは二世だった。全員分の浴衣を用意したのも、着付けしたのも彼だ。
二世と揃いの浴衣を見ると、真吾は少し困った顔をした。腰紐や帯を締める度に体に回される二世の手に、こっそり耳を赤くしていた。
ねずみ色の微塵格子は真吾の外見からしたら地味だったかも知れないが、涼しげに着こなす姿には色気があった。二世は献上柄の角帯の細い腰を引き寄せたくなる衝動をぐっと堪える。
子供達は無邪気に屋台を指差して何を食べるか相談しているようだ。一郎は黒の網目格子、三世は紺の市松で二人ともよく似合っている。
振り向く三世が二人が追いつくのを待って話しかけてきた。
「伯父さん達は何か食べたい物ありますか?」
真吾はそうだなぁと微笑む。
「何か冷たいものがいいかなぁ。」
「かき氷はさっきの店が一番安かったかな。俺も食べたいんで買ってきますよ。何味がいいですか?」
「いや一緒に行くよ。」
はぐれたくないしね、と真吾は付け足す。
はぐれないようにね。そう言って手を差し伸べた真吾の古い記憶がふと蘇った。
あれは、真吾の年齢と体の年齢がまだ同じだった頃。東嶽大帝との戦いの最中だった。
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部屋にいない真吾を探して埋れ木家を探すと、真吾は珍しくエプロンを着けて食器洗いをしていた。
二世を振り返り、踏み台の上の真吾が照れ笑いをする。
「明日は雪でも降るんじゃないのか?」
「酷いなぁメフィスト二世。これには理由があるんだよ。」
二世の気配を察知して様子を見に来たエツ子がウフフと笑いながらいらっしゃいと声を掛ける。
「お兄ちゃんはお小遣いが目当てなのよ。」
「小遣い?何か入り用なのか。」
「花火大会があるの。近くの野球場で打ち上げるのよ。お店がいっぱい出て凄く楽しいの。」
エツ子は冷蔵庫に磁石で貼り付けたチラシを外し二世に見せる。花火の写真が大きく載った紙面の下に記載された日付は一週間後の日曜日だった。
「あはは、間に合うのかよ。」
「だから頑張っているんだよ…言っておくけど、メフィスト二世のためでもあるんだからね。君だって行くんだろう?花火大会。」
二世は目を一瞬ぱっと開くとヘヘッとはにかんだ。
「私浴衣着て行くのよ!朝顔の柄なの。」
「へえ、エッちゃん浴衣着るのか。エッちゃんも一緒に行くんだろう?」
「残念!私友達と約束してるの。みんなで浴衣を見せ合うのよ。」
一緒に行きたかったなぁと残念そうにする二世にエツ子は嬉しそうに笑った。
二人のやり取りを微笑ましく聞きながら、真吾は手際よく皿の洗剤を洗い流し、水切り籠に並べていく。
「お兄ちゃんも浴衣持ってるのよ。お兄ちゃんも着たらいいのに。着る機会なんてそうそうないんだから。」
そうなのか?訊く二世に、真吾はこくんと頷く。
「僕はいいんだよ。動き辛いからね。」
勿体ないわーと言いながらエツ子は台所を出て行った。
食器洗いを終えて手を拭く真吾に、二世が話しかけようと口を開きかけた時、玄関がガラガラと開く音がして、百目がフラフラと台所に入って来た。
「すごく暑かったモン…」
「よう、百目。」
「ボク、玄関を掃き掃除してたんだモン。疲れたモン…」
「ありがとう百目。」
真吾は冷蔵庫からよく冷えた麦茶を出しコップに注いでやる。それを一気に飲み干すと、百目はフーっと大きく息を吐いた。
「生き返ったモン!」
「お前も手伝いしてるのか?」
「綿あめ食べたいんだモン。」
「百目も小遣い貯めようと頑張ってるんだよね。」
百目の汗をタオルで拭ってやりながら、真吾はフフっと笑う。
「悪魔くん、俺も何か手伝うよ。」
シルクハットの縁を摘んで照れ顔を隠しながら申し出た二世に、真吾は助かるよとにっこり笑って頷いた。
「花火終わるのは遅い時間になるから、帰り道気を付けるのよ。」
「分かった。行ってくるよ。」
一週間頑張って膨らませた財布を手に、三人は家を飛び出した。この半分でもいいから普段からお手伝いをしてくれると助かるのにね、と苦笑いしながらも気前よくお小遣いをくれた母が、玄関先で行ってらっしゃいと手を振った。
友達と待ち合わせていたエツ子は先に支度を終えて家に出ていた。
藍色の地に色とりどりの朝顔が大きく描かれた浴衣を着て髪に花飾りを挿したエツ子は、いつもより大人っぽくおしとやかに見えて、二世は、どうかなと訊くエツ子に咄嗟に応えられなかった。
顔を真赤にしながらやっと一言、すごく似合っていると言うと、エツ子は頬を染めて嬉しそうに首を傾げた。
真ん中を歩く百目がその時の様子を思い出して、二世をからかい始めた。
「エッちゃん、褒められてすごく嬉しそうだったモン。」
「うんそうだったね、ありがとうメフィスト二世。」
「いや、別に俺は…」
「メフィスト二世、エッちゃんを見てすっごく照れてたモン。真っ赤だったモン。」
二世はやめろよと百目を怒る。
「アレは違うんだ、普段のエッちゃんと雰囲気が違うからちょっとびっくりして…」
百目と目を合わせてフフッと笑う真吾に、二世は弱りきって必死に弁解する。
「悪魔くん、誤解しないでくれよ、俺は別に…」
「エツ子を褒めてくれて、僕は嬉しいよ。エツ子は随分早くから支度を始めて、メフィスト二世が来るのをずっと待っていたからね。」
「悪魔くん…」
本当に嬉しそうな様子の真吾に、二世は口を閉じる。確かにエツ子の浴衣姿にはドキドキした。でもそれだけではなかった。真吾も似合うだろうなと思った事に焦ったなんて言えるわけがない。
橋を渡り、暗い公園を通り過ぎ、駅前の商店街を目指す。道のあちこちから現れる親子連れや子供のグループが皆同じ方向を目指していて、いよいよ気分が高まってくる。
電線伝いに灯る提灯が美しい道を辿り、急に人の数が増えたらもうそこは祭の中だった。
明るく人でごった返した商店街に気圧される二世に真吾は振り返って微笑む。
「はぐれないようにね。」
差し出された手に二世は素直に自分の手を乗せる。慣れた様子でぐんぐん進む真吾は、この人混みをもう何度も経験しているのだろう。二世は繋いだ手にそっと力を込めた。
見る人誰もが笑顔で、提灯や電飾で飾られた道ををゆっくり歩き、見たことのない店が所狭しと立ち並ぶ。よく知っている場所なのに初めて来るみたいだった。まるで夢の中に出てくる街の様に。
はしゃぐ百目は早くも屋台は何があるかチェックを始めている。
「とりあえず一通り歩いて見てみようか。」
「綿あめ!かき氷!たこ焼きも食べたいモン!」
百目は食いしん坊だなぁと笑う真吾に百目は甘えて飛びつく。
「どこかでエツ子に会えるかも知れないね。貧太君達も来てるかなぁ。」
「そうだな。会えるといいな。」
そう口では言いながらも、二世は会えなければいいと考えていた。会えた方がきっと楽しいだろうに、何故かそう思う自分がいた。
二世に一つ一つ屋台の説明をしながら、真吾はゆっくり歩いた。あちこちから漂ってくる美味しそうな匂いに、百目が鼻をヒクヒクさせている。
「大体こんなものかな。同じ物を売る店が何軒もあるんだよ。メフィスト二世、行ってみたいお店はあった?」
「悪魔くんはどうなんだよ。」
そうだなぁと真吾は首を傾げる。
「先ずは冷たいもの食べたいかなぁ」
人ごみの熱気で赤い顔をした真吾の額に汗が流れている。
「かき氷食べるモン!」
「さっきあったね。」
逆方向へ向かう人の流れに乗ると、三人はかき氷屋を探す。すれ違う人の群れの中に見知った顔を見付けたが、真吾は声を掛けず通り過ぎた。
屋台の長蛇の列に並びながら、首を伸ばしてシロップの種類を確認する。何にしようか相談している内に、あっという間に順番が回ってきて、シャリシャリと氷が削られ器に山盛りになっていくのをワクワクしながら眺めていた時だった。
突然、真吾の胸に下ったソロモンの笛が光を放った。
真吾は驚いてソロモンの笛を見詰める。
「悪魔くん…!」
真吾は二世に目を合わせて頷く。もうすでに埋れ木真吾ではなく悪魔くんの顔になっていた。
「ファウスト博士が呼んでる。きっと何処か近くに魔門がある筈だ。」
シロップの種類を訊く店員に真吾は謝ると、サッと列を抜ける。
「えーん!かき氷食べたかったモン!」
「ごめんよ百目、また今度食べに行こう。」
でもそれはきっと何処かの店の中で食べるかき氷で、提灯の下、路端で染まった舌を笑い合いながら食べるかき氷ではないだろう。
人の波を掻き分け、必死に走っていく真吾の背中を追いながら、二世はぐっと口元を引き締めた。
その時、空が急にぱっと明るくなり、辺り一帯に轟音が響き渡った。二世は反射的に空を見上げた。
星空に大輪の花が咲いていた。
立て続けに幾つも花火が打ち上がり、誰もが空を見上げ立ち止まり歓声を上げる中を、唯一人、悪魔くんは駆け抜けて行く。
一度も空を振り返ることなく。
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特別なあの日を取り戻すことは叶わない。
少し前を歩く真吾の背中を見詰め、二世は微笑む。
浴衣姿を見たかった。
かき氷を食べたかった。
百目に大きな綿あめを買ってやりたかった。
三人で花火に歓声を上げたかった。
何度もその思い出を語り合いたかった。
でも、そんな事を口にするなんて出来るわけがなかった。
「何味にします?」
「迷うよねぇ。イチゴがいいかなぁ。」
「定番中の定番だな。」
「いいじゃないか好きなんだから。そう云う一郎は何にするんだよ。」
「みぞれ。」
「悪魔くんらしいチョイスだな。俺はレモンにしよう。パパは?」
二世はあの日選んでいた味を答える。
「メロンにしようかな。」
百目は何を選んでいただろうか。それを知ることはきっとこの先も無いのだろう。
「ここで待っててください、二人で買って来ます。」
「僕も行くのか。」
「働けよお前は。」
長い列に並ぶ二人を見送る真吾の優しい眼差しに、積み重ねた月日を実感する。
「真吾君、今日は付き合ってくれてありがとな。」
「いや、こっちこそ誘ってくれてありがとう。こういうイベントは久し振りだ。」
「悪魔くんに花火を見せたかったんだ。どうしてもね。今回の企画の主賓は悪魔くんだよ。」
あの時の二世の胸の痛みを知るはずもない真吾は、不思議そうに二世を見上げる。
花火に目もくれない真吾が悲しかった。
空を見上げる人達の為に戦う真吾が誇らしかった。
「そろそろ時間かな。」
二世が腕時計に目をやった時、それは唐突に始まった。
凄まじい音と共に、大輪の光の花が頭上に開いた。
周囲からわぁっと声が上がる。
真吾を見ると、彼も空を仰いで目を輝かせていた。
順番待ちをしている三世と一郎も空を見上げている。
緑、赤、青、紫、金。
次々に上がる花火に目が離せない。
二世は花火に夢中になっている真吾をそっと抱き寄せ、その髪にキスをする。
君と見たかった花火だ。
大好きだよ真吾君。
振り向く真吾の唇にそっと唇を重ねた。あの日の気持ちはこの先もずっと色褪せることはない。
「百目に綿あめを買って帰ろう。」
泣きそうな顔で頷く真吾の汗ばんだ額にキスをする。汗の匂いが愛おしい。手を繋ぎ握り締める。
この先もずっと大好きだよ。
二人は空を見上げた。燃え残る金色の瞬きが二人の上に降り注ぐ。
花火が空に咲き続けている間だけでいい。少しだけ忘れて、二人だけのつもりになってみようよ、真吾くん。
二〇二四年七月二十四日 かがみのせなか