首筋の熱、うなじの刻印 8月22日の長い夜を越えた今も、祓い屋の拠点は幽玄坂のアパートのままだ。幽玄坂は夜にこそ騒がしくネオンの光が輝いている。前までなら落ち着かなかったそれに、最近は少し慣れてきた。
僕はあれから適合者としての力を見込まれてアジトのメンバーの一員となっている。KKが抜け出てしまったのであの夜ほどの力はないけれども、エーテルを操れるだけでも貴重な存在なのだと力説され、目下KKの助手兼弟子みたいな状態だ。胸を張って相棒だと言える日はまだ遠いなとため息をつく。
今日は先日の依頼についての報告書を仕上げておきたくて、大学の後にアジトに寄った。ちょうどKKが「ちょっと昔なじみと飲んでくる」と僕と入れ違いに出て行って少しだけ残念だったけど、多分彼には悟られなかったはずだ。
依頼が落ち着いたからか凛子さんやエドさんなどもおらず、いつもよりも静かなアジトでどうせだからと自分のレポートものんびりとやっていたらいつの間にかいい時間になっている。深夜に足を踏み入れかけていることを確認して、慌てて帰る支度をしていたら玄関のドアが開かれる音がした。もしかして、と期待と共に玄関に続く扉を見たのと、赤い顔をしたKKが入ってきたのは同時だった。
「――オマエ、まだいたのか」
「KKこそ、自分の家に帰らなかったの?」
目を見開いて僕を見つめるKKに問えば「アジトの方が近かったからな」と言いながらコートを脱ぐ。横を通り抜けていったKKからは少なくないアルコールと夜の香りがした。
片付けをする僕に帰ることを察したのか「送ってってやろうか」と言うKKに「家に帰るのがめんどくさくてこっち来たんだろ? 本末転倒じゃん。女の子じゃないから一人で帰れるよ」と返せば「そうかぁ?」と間延びした声で返事してくる。やっぱりそこそこ酔ってるんだろうな。
そのままKKはソファにどっかりと座ると、スーツのジャケットを横に放り出しネクタイを緩めている。頭が軽く揺れてるのを見てこれは放っておくと寝ちゃいそうだなと思って「せめてシャワーだけでも浴びなよ」と声をかけたけど、「んー」っていう気の抜けた声しか返ってこない。……あれはだめかも。
とりあえず黙って片付けを続けていると、やがてKKの呼吸が深いものへとなって、それが寝息に変わるまでさほど時間がかからなかった。
「……やっぱり」
そんなとこで寝たら風邪をひくんじゃとか、ソファに座ったままとか体を痛めるだろとか、言いたいことはたくさんあるけれど、すごく気持ちよさそうに寝てるから下手に起こすのも気がひける。
片付けが終わる頃には目覚めればいいと思ってたけど、これは朝まで起きないコースかな。
音を立てないように側に寄ってKKの様子をうかがう。酒気で染まった目元、緩んだ口元、着崩れたスーツが少しだらしない。普段の鋭さが抜けた無防備な姿に、胸が締め付けられた。
……いつからか、僕はそういう意味でKKを好きになってしまっていた。おかげで最近の僕はKKの隣にいるだけで心臓が落ち着かない。依頼の時は『仕事』に集中してるからなんとかなっているけれど、普段はKKに心臓の音が聞こえないか心配になるほどだ。
霧の渋谷で僕達は二人で一つだった。KKの声が、魂が、弱い僕を叱咤し導いてくれた。あの魂の絆が、今も胸の奥で疼く。それがKKも同じなのかはわからない。今の彼には肉体があり、僕達は二人にわかれてしまったから。
もちろん生きてその姿を見れたことはとんでもなく嬉しい。でも、触れられる距離にいるのに心は届かなくて、それがありがたくもあるし、寂しくもある。
歳も違いすぎる僕はきっと、KKからしたらただの子供だ。だいたいKKは元妻子持ちで、性嗜好は間違いなく異性愛だ。男にそういう意味で好かれてるなんて知ったらさすがにどん引きするに違いない。あらゆる意味で詰んでる。
「なんでこんなおじさん、好きになっちゃったんだろ……」
自嘲気味な僕の声は、静かな部屋に小さく響く。切なくて、でもどうしようもない気持ち。いっそ捨ててしまいたいのに深く根を張ってしまったそれ。僕なんかがこんな気持ちを抱くなんて、間違ってるんだろうな。
ふと、KKの気配が変わる。
「暁人……オマエ、今……何て言った?」
心臓が止まりそうになる。先程までの深い寝息が止まっていたのに気づかなかった僕のミス。いつの間にか開いたKKの目が、じっと僕を捉えていた。酔ってるはずなのに、鋭くて、どこか熱っぽい視線。魂の底までのぞき込むようなそれを直視出来なくて僕は目をそらした。
「え、なん、なんでもないよ。片付けも終わったし帰るって言っただけ。あんたはちゃんと布団で寝ないとだめだよ」
僕は慌てて立ち上がり、逃げようと玄関に向かう。このまま帰ればきっと誤魔化せる。夢を見たんだと思わせられる。
足がもつれて、心臓は早鐘を打って、思考はもうめちゃくちゃだ。あともう少し。……でもドアに手をかける前に、背後から強い腕が僕を捕まえた。そのまま引き寄せられて、羽交い締めでがっちり押さえ込まれてしまった。さすが元刑事、なんて現実逃避な考えが頭をよぎる。
「逃げんなよ」
KKの声が耳元で低く響き、汗と煙草とほのかな酒の香りが混じって鼻をくすぐる。密着したワイシャツ越しにKKの体温が背中に伝わってきて、頭がクラクラした。
「その『好き』って……こういう意味か?」
KKの声がさらに低くなり、僕のうなじに温かい吐息がかかった。次の瞬間柔らかいものがそっと触れる。少しかさついたそれがKKの唇だと気づいて全身の血が沸騰したような感覚に襲われた。
喉をひくりと鳴らすだけで何も答えられない僕に焦れたように「なぁ、暁人」と僕の名前を呼んで、再び唇がうなじに落ちてくる。ゆっくり、優しく、でも熱っぽく、何度も。まるで僕の心を溶かそうとするみたいに繰り返されるそれは深く、甘い。
やがて優しく触れるだけだった唇がリップ音をたてるようになって、濡れた舌先が首筋を辿って熱を帯びた歯が軽く食い込むと、ゾクゾクとした快感が背筋を駆け上り、我慢しきれず「んっ……」と声が漏れる。
――ああ、夢みたいだ。KKに触れられることが、泣きたいぐらい嬉しい。胸がぎゅっと高鳴る。でもすぐに、冷たい絶望が押し寄せる。KKは酔ってるだけ。僕をからかってるんだ。そうじゃなきゃこんなことするはずない。
僕を羽交い締めにする手にそっと触れた。酔ってるせいか珍しく僕よりも熱い。
「……からかうの、やめて。ひどいよ、KK」
僕の声は震えて、惨めさに涙が滲みそうになる。
「酔ってるだけだろ? 僕、こんなの…」
耐えられない、と言った瞬間KKの手が強くなり、僕を無理矢理振り返らせる。
「暁人、オレは酔ってねえ。……いや、ちょっとは酔ってるけど、頭ははっきりしてる」
彼は息を吐き、怖いくらい真剣な目で僕を見ると緊張した面もちで告げた。
「好きだ、暁人。オマエが思ってるような冗談じゃなく、本気で」
「え……」
KKの声は低く、でもまっすぐで、胸に刺さる。
「オレはオマエの言う通りオッサンで、本当はこんなこと言うべきじゃねえのもわかってる。だけど、オマエがオレを好きだと言ってくれるなら」
痛みをこらえるような表情で「オマエの未来ごと、オレにくれ」と言ったKKの指が僕の髪をそっと撫で、流れるように耳に触れた。
「……本当に、いいの? 僕なんかで……」
期待に声が震える。KKの過去、別れた家族のことを思うと、信じられない気持ちがまだ残ってる。
「馬鹿、『なんか』とか言うな。オマエはオレの相棒で……魂全部だ」
彼の手が僕の手を優しく握り、キスをする。温かくて、安心する感触。さっきのうなじのキスの感触がよみがえって頬が熱くなる。たかぶる感情のままに、僕は隠さなきゃと思っていた恋心を口に出した。
「……好き。好きだよKK。僕だって、あんたは僕の魂そのものだ!」
やっと言葉にできた僕にKKは小さく笑い、僕の額に自分の額を軽くこつんとぶつける。
「なら、逃げんなよ。もう離さねえから」
部屋の窓から見えるネオンが、キラキラと輝く。それはまるで、僕らの新しい始まりを照らしてるみたいだった。