秘密と、嫉妬と、愛の歌 KKに何かプレゼントを贈りたい。そう思いついたのはいつだったか。
KKは暁人の師であり相棒でありそして恋人だ。長い夜を越えて二十以上も年上の彼とそういう関係になってしばらくたつ。本来だったら付き合うどころか出会うことすらなかったような違う世界の男だが、今の暁人にとっては誰にも渡せない大事な人だ。
さて話は戻る。そうプレゼント、プレゼントだ。歳が離れてることもあり、あまり同年代の友人たちのような付き合い方をしていないが、プレゼントくらい渡しても罰は当たらないだろうと暁人は思ったのだ。
スマートフォンでブランド物の財布や時計を眺めては、その値段に溜息をついてしまう。暁人に甘いKKのことだ、きっと何を贈ったって喜んでくれるに違いない。だけど彼の年齢を考えれば、あまりにも安っぽいものは似合わないだろう。かといって暁人の財布には厳しすぎる額だ。確かにKKと共にアジトのメンバーとしてバイトするようになってから以前よりも懐具合は楽になったが……目下暁人は学生なのでなかなか苦しい。
「はぁ……どうしたもんかなぁ」
そう呟いた時、にゃーんという聞き慣れた声がして、気がつけば目の前にでっぷりとした猫又の元締めがにこやかにぷかぷか浮いていた。
「も、元締めさん?!」
「若いの、良いバイトがあるんだがねぇ、どうだい?」
どこから入ってきたのかとおののく暁人を後目に、元締めはにやりと笑い、その悩みを最初から知っていたかのように続ける。
「片割れに贈るものに困っているんだろう? それならば、ピッタリの稼ぎ口があるよ」
師としてのKKには、いつも口を酸っぱくして「気軽に猫又達の言うことを聞くな」と言い含められている。彼ら(?)はあくまで妖怪で、人と違う理で生きているものだから、と。
警戒を解かずに半信半疑に話を聞くと、どうやら『人間界の流行りに乗じて地下アイドルをプロデュースしたい』『用意した箱(ライブハウス)がまだ少し穢れが残っている。元神域のようなところなので巫女による奉納舞が一番合理的』『肝心の巫女と、アイドルがまだいない(人手不足)』という事情があるらしく、全部をまかなえるであろう暁人が白羽の矢を立てられたらしい。
「ま、まさか……!?」
巫女という言葉に嫌な予感がする。にゃいーんという声とともに差し出されたのは、渋谷を救った時になぜか手に入れてしまった某アイドルそっくりの女狐と言われる巫女衣装で。
「なんでそれここにあるの?!」
「あれとはまた違うから安心おし。あんなガッチガチの神霊遺物、さすがに商売に使わせられないよ」
「そういう問題じゃないってば!」
最初は断固拒否した暁人だったが、「人……猫助けだと思って頼むよ。せっかくの商売が台無しになっちまう」という元締めの言葉と、何より提示された報酬額に目の色が変わった。これならKKへのプレゼントどころか、美味しい食事も振る舞ってなおお釣りがくる。悩みに悩んだ末、暁人は「これは人助けとKKのため!」と自分に言い聞かせ、渋々ながらも地下アイドル『キツネノヨメ』としてステージに立つことを決意した。
暁人がこそこそと何かを隠していることに、KKは薄々勘付いていた。刑事としての勘を使うまでもない、元々暁人は隠し事に向かないタチだ、すぐわかる。
祓い屋としてのバイトを減らす日が増え、別の場所へ通っているようだ。そのせいですれ違うことも増え、ここ最近は恋人としてのスキンシップも減り気味だ。
セックスが全てではない(機会があればもちろんしたいが)けれど、夕飯すら共に取ることが減ってしまい、何をしてるのか帰ってきたら疲労困憊でベッドに沈み込む日々が続けば会話することすら少なくて。正直欲求不満というか、暁人が足りない。
――ある日KKは我慢できなくなり、暁人の後をつけてみた。
夜の渋谷の喧騒をすり抜け、彼が足を踏み入れたのは薄暗い裏路地にある地下へと続く階段。後をつけたのがばれないように少し時間をおいて足を踏み入れると、すぐに耳慣れないベースとドラムの音が響いてくる。いわゆるライブハウスのようだった。
そこそこ人気なのか客入りも良いようだ。とは言ってもその場にいるのは妖怪やそれに準ずるものがほとんどで、人といえそうなものは少なかったが。
「お客さん、運がいいねぇ。今日は一番人気の『キツネノヨメ』のステージだよぉ」
カウンターに座っていた猫又のスタッフが、にこやかに声をかけてきた。その言葉に、KKの胸に嫌な予感がよぎる。キツネノヨメ? まさか。そんなはずはない。
開演時間がきたのか、薄暗いフロアの奥でステージが真っ暗になった。客席の期待感がざわめきとなって広がる。やがて、一本のスポットライトが舞台中央を照らした。そこに跪いていたのは、まさしく巫女衣装に狐の面をつけた人間の姿。遠くからでも、その体つきと見慣れた髪の毛が、紛れもなく暁人だとKKに告げる。
雅楽のような厳かな音楽が流れ始めると、暁人はゆっくりと立ち上がり、榊を捧げ持って静かに舞い始めた。優雅で、どこか神秘的な動きは、周囲の邪気を払い、ライブハウス全体を浄化していく。
「奉納舞か……」
清められていく空気を感じながら、KKは思わず呟いた。そうか、そういうバイトなのか。それならまだ理解できる、とKKは自分に言い聞かせた。
やがて奉納舞が一通り終わり、暁人がしとやかに一礼する。これで別の人間と交代するのだろうとKKが思っていると、暁人は狐面をずらし、マイクを口元に寄せた。
「みんな、今日は来てくれてありがとう。最後まで楽しんでってね」
その言葉に、KKは「は?」と小さく声を漏らした。嫌な予感と共に喉の奥で、何かがせり上がってくるのを感じる。
次の瞬間、ステージの照明が目まぐるしく点滅し、ポップでアップテンポな音楽が流れ始めた。暁人の纏う巫女衣装が、光の瞬きと共にみるみるうちに変化していく。
腕を振る度、足を動かす度、まるで魔法がかかったように衣装が少しずつ、しかし確かに変わっていく。それは、あの日渋谷を救った時に手に入れ、家のタンスの奥底にしまいこんであるはずの『女狐』の衣装だった。一度KKが着てみればどうだとからかったが「恥ずかしいからイヤだよ」と暁人が全力で拒否した記憶も新しく、だからこそなぜという苛立ちが膨れ上がった。
艶やかな衣を身にまとい、先ほどの厳かな舞とは打って変わって、軽やかに歌い踊る暁人。スパッツをはいているとはいえ、健康的ですらりとした足が惜しげもなくさらされる。その度に客席からは下品な歓声と口笛があがり、KKは知らず知らずのうちに奥歯を強く噛み締めていた。
普段の彼からは想像できないほど魅惑的な表情で、客席に手を振る暁人。その姿を見た瞬間、KKの胸には形容しがたい感情が嵐のように渦巻いた。嫉妬、怒り、そして、わけの分からない不安。今すぐステージに駆け上がり「オマエはオレのだろうが!」「オレ以外に見せるな!」と言って引きずりおろしたくなる凶暴な衝動を必死に抑え込む。
自分には見せたことのない、そんな顔で、そんな仕草で、見ず知らずの男たちの前で歌い踊っている。しかも源氏名とはいえよりによって名乗っているのが『キツネノヨメ』? 頭に中でその響きが嫌な感覚をもたらす。誰がつけたか知らないが腹立たしいことこの上ない。
別に暁人を女扱いした覚えも、女であった方がいいなどとも考えたこともないが、自分以外の嫁を名乗っているのが心底気にくわなかった。まるでKK以外の誰かに心を許しているかのように見えて吐き気がする。
二曲ほど歌った後、「さあ、最後の曲だよ」と暁人は言ったがKKにはそれがひどく長い時間に感じていた。ブーイングがあがる中でもにこりと笑うその姿は愛らしいが、だからこそ「そんな顔をするな」「オレだけ見てろ」と、憎らしさも感じてしまう。KKは冷や汗が背中を伝うのを感じながら、心の中で暁人を罵倒することで冷静さを保っていた。
ステージがまたスポットライトだけになる。気がつけばライトを浴びた暁人の手には再び榊があり、それを振りながらよくのびる声でとうとうと歌い出した。そこに少しのエーテルが混ざっていることにKKはすぐに気づく。
ちらりと会場を見渡せば、興奮に満ちていた客席はいつの間にやらしんと静まりかえっていた。
「――眠れ、眠れ、悲しい子。眠れ、眠れ、荒ぶる子」
優しく慰撫するようなその声に、タチが悪そうだと目を付けていたものたちが順々に浄化されていくのがわかった。それを見たことで、KKの中で暁人のやっていることがようやく一本の線として繋がった。
最初の奉納舞でライブハウス内を聖別し結界をはる、そして次の二曲でタチの悪いものをあぶり出し、最後にエーテルを声に乗せて鎮魂歌を歌うことでまとめて浄化する――まあ、よく考えられた手法だと言ってもいい。つまりは本当に冒頭の演舞からここまでが、浄化のためのプログラムだったろうことは理解できる。だがしかし納得できるかというとそれはまた別の話だ。
関わるなと言った猫又から直接依頼を受け、しかも師である自分に黙ってたなんて問いつめてやらねばなるまいと、KKは衝動的にその場を離れた。一刻も早く暁人のあの能天気な顔を引っ叩き、問い詰めてやりたかった。なんで一人でこんなことをしてるのか、もっと他の方法を考えなかったのかと。
階段を駆け上り暁人を逃がさないよう楽屋口で待ち伏せようとした、その時だった。スマホが胸ポケットで震える、凛子からのメールだ。ざっと流し読めば長期の出張が決まったという知らせと、今すぐアジトにきて欲しいという一言が書かれている。
チッ、という大きな舌打ちがでるのを誰が止められるだろう。最悪のタイミングにKKは携帯を握り潰したくなった。だがしかし、幸か不幸か大人しく仕事に向かう程度には、まだKKにも冷静さは残っていた。結局暁人に直接問い詰めることはできず、KKは悶々とした気持ちを抱えたまま、長期の出張へと向かったのだった。
仕事中も頭によぎるのは暁人のことだった。暁人のことを考えるたびに胸が締め付けられる。KKの目の届かない場所で、あの衣装を着て、見ず知らずの男たちの前で、自分には見せたことのない顔をしている暁人。その想像がKKを苛んだ。
悶々としながら一週間。疲労とストレスで我ながらひどい顔をしていると思う。それでもようやく仕事に片が付き、自宅に戻れる日。珍しく暁人から電話がかかってきた。
「今日は何時に帰れそう?」
普段ならKKの帰宅時間を細かく尋ねることなどしない暁人の言葉に、KKの疑心暗鬼は最高潮に達した。常時ならば暁人の弾んだような声音に気づくはずが、嫉妬と焦燥感に目隠しされていた。秘密にされていたバイトのこと、そしてこの質問。
――オレがいない間に、これ以上何かをするつもりなのか?
そう考えると、怒りと諦めが混じり合った、最低の言葉が口をついて出る。
「なんだ、オレがいない間に男漁りでもしようってのか」
「……なにそれ、どういう意味?」
電話口の暁人の声が、明らかに不安げに動揺している。それがわかっているのになぜか口は止まらなかった。
「そのまんまの意味だよ。オレみたいなおっさんよりも、他の男の方がいいんじゃねえのか」
鼻で笑うようなやさぐれたようなKKの言葉に、電話の向こうから震える声が返ってきた。
「僕のこと、そんな風に思ってたの」
苛立ちと共に「じゃあなんで隠してたんだ」と続けようとしたKKの言葉を遮るように、暁人は掠れた声で呟いた。
「……そっか。わかった」
そう言って、電話は切れてしまった。ツーツー……と電子音の響くそれにもKKの怒りは収まらない。だが、どこか胸騒ぎもしていた。
急いで帰宅し自宅のドアを開けると、室内は静まり返っており人の気配がない。室内の電気は付いたままで、テーブルの上には作りかけの夕食が残されている。そしてその隣には、丁寧に包装された小さな箱が置かれていた。
「なんだ、これ……」
不審に思いながら、KKは包みを開ける。そこには、とあるブランドのキーケースと時計が。そして、添えられたメッセージカードには、暁人の筆跡でこう書かれていた。
『KKへ
いつもありがとう。感謝を込めて。
これのためにバイトしてたから、忙しくしててごめん。
暁人より』
その瞬間、KKの脳裏に電話での暁人の震える声がフラッシュバックした。その前の、どこか弾んだような声も。
そうだ、どこか嬉しそうな期待に満ちた声。それはこれを渡せると思ったから、だからわざわざ電話で帰宅時間まで尋ねてきたのでは。
目の前のブランドはKKでも知っているメンズ向けの高級ラインだ。学生の暁人がいつものバイト料だけで買うのは難しい。だからこそのあのバイトかとようやく得心がいく。そしてそのために、『嫌だ』と言っていたあの衣装をわざわざ着ていたとしたら。
「……ッ!」
全てを理解した途端、KKの顔から血の気が引いた。自分が、どれほどひどいことを言ってしまったのか。暁人がどれほどの想いで、このプレゼントを用意してくれたのか。
作りかけの夕食からは、まだ温かい湯気が立ち上っている。だが、そこに暁人の姿はない。KKはテーブルの上のプレゼントとカードを呆然と見つめながら、ひたすら後悔の念に打ちひしがれていた。
――話は少し戻る。
KKが急な出張に出て、一週間ほど。その間KKから暁人自身に連絡がくることはなかった。アジトの連絡事項のため電話をかけても、用件がすむとすぐに切られてしまう。命の危険がある仕事なので、そういうことが今までにもなかったわけではない。とはいえ最近あまり話せなかったまま別れてしまったので寂しさが募っていく。
だが今日はようやくKKが帰ってくる日だ。暁人は朝から張り切っていた。美味しい夕飯を作って、サプライズでプレゼントも渡そう。ライブハウスでの恥ずかしいバイトも無事に終わり、どうにか目当てのものも買えた。
一目見てKKに似合うと思った時計と、キーケース。それは暁人の精一杯の感謝の気持ちの形だった。店舗までわざわざ足を運んで吟味したプレゼントは、あけられるのを今か今かと待っている。華美ではない上品な包装は自分には大人っぽすぎるが、KKには似つかわしいだろう。テーブルのKKの席の前に置き、夕飯を作りながらKKに電話をかけた。
「あ、KK? 今日は何時に帰れそう?」
声が弾んだのが自分でも分かった。早く帰ってきてほしかった。このプレゼントを、早く彼に渡したかった。
――しかし電話口のKKの声は、今まで暁人が聞いたことないくらい冷たく、突き放すような響きに満ちていた。
「なんだ、オレがいない間に男漁りでもしようってのか」
暁人の頭が真っ白になった。
……男、漁り……?
「なにそれ、どういう意味?」
意味がわからなくて、声が震える。
「そのまんまの意味だよ。オレみたいなおっさんよりも、ほかの男の方がいいんじゃねえのか」
鼻で笑うような嘲りに満ちたKKの言葉が、脳に直接響く。
もしかして必死で隠していたバイトがバレてしまったんだろうか。だから怒ってる? でも、だからってそんな言い方。まるで暁人が誰でも――KK以外を受け入れるようなそんな。
怒りと、何よりも悲しみがごちゃ混ぜになって、胸が締め付けられる。心がぐちゃぐちゃになりそうだった。
「僕のこと、そんな風に思ってたの」
これ以上、何も言えなかった。何を言ってもきっと信じてもらえない。KKのセリフには暁人がそう思ってしまうだけの冷酷さがあった。
バレて怒られるのは覚悟していたけれど、こんな風に言われるなんて思わなかった。あの夜からの魂の片割れで、誰よりも大切に思っていたKKに、まさかこんなひどい言葉を言われるなんて。
KKの返答を待てずに勝手に口が開く。
「……そっか。わかった」
それが、暁人の精一杯だった。そう言うのがやっとで、電話を切る。
ぷつ……っ。スマホの画面が暗くなる。目の前の世界も、真っ暗に。手からスマホが滑り落ちて床でゴトリと音をたてたが、もう暁人の耳には入らなかった。
僕のこと、そんな風に思ってたんだ。信じて、くれてなかったんだ。
その事実が、暁人の心を深く抉った。体中の力が抜けていく。作りかけの夕飯からはまだ温かい湯気が立ち上っているのに、部屋の中は急に冷え切ったように感じられた。
心臓がバラバラになりそうなほど痛い。
もう、ここにいたくない。どこかへ行ってしまいたい。ああでも、このプレゼント……。
暁人はテーブルの上の包みを呆然と見つめた。先ほどまで輝いてたそれが、今はひどく色あせてしまっている。
これを渡したかったのに。感謝を伝えたかっただけなのに。そのために、頑張ったのに。
でも、もう、きっと受け取ってもらえない。なんならもう、自分ごと捨てられるのかもしれない。
「はは……また、ひとりだ」
膝から崩れ落ちる暁人の耳に、どこからともなくにゃーんという猫又の元締めの声が届いた気がしたのはその時だった――。
冷え切った部屋に、先ほどまでの激しい怒りの残滓と、今はそれ以上に重い後悔だけが残されていた。己の浅はかさと、暁人の純粋な想いを踏みにじった罪悪感が、じわじわとKKの心を蝕む。
あの電話の向こうで暁人がどんな気持ちで震えていたのか、自分がどれほど彼を傷つけてしまったのか。理解した途端、心臓を直接掴まれたような痛みがKKを襲った。
「暁人……!」
靴を履く時間すらもどかしく、アパートの玄関から飛び出した。夜の帳が降りた渋谷の街は煌びやかなネオンが瞬き、しかしKKの目にはその輝きも虚しく映る。
いつものケンカなら、腹を立てても暁人は家から遠く離れることはしない。せいぜい近くのコンビニか、公園のベンチでふてくされているくらいだ。それだってKKが近づけば八の字眉で謝ってくるのはいつも暁人の方だった。
だが、今回は違う。あの震える声。あの「わかった」という呟き。あれは、深い絶望に満ちていた。
「頼む、出てくれ……!」
KKは無駄だろうと思いつつもスマホを取り出し、暁人に電話をかける。プルルルル……という虚しい呼び出し音が響くだけで、繋がることはない。何度かけても同じだった。
KKは途方に暮れながら、それでも止まることなく、夜の闇に溶け込んでいく暁人の影を追うように、足早に歩き始めた。
……暁人を探す手がかりが少なすぎる。もちろん、二人の間にある繋がりは最初に試した。かつて暁人がKKを探すために見た黒い繋がりは、今も意識すれば二人の間にあるのがわかる。だが今日は煙が溶けるように攪拌され途切れていてうまく追えない。とっさに邪魔されている、と感じた。こういう勘は外れたことがない。
――ということは、暁人は自分で消えたのではなく誰かに連れ去られた可能性が高い。誰に? 決まっている。今回の騒ぎの原因――猫又の元締めだ。
「くそっ!」
元締めが絡んでいるなら闇雲に探し回っても仕方がない。だが、冷静になろうとすればするほど、暁人の泣きそうな声が耳の奥で響き、焦りは大きくなる。もし本当に暁人がどこかへ行ってしまったとしたら。脳裏に最悪のシナリオがよぎるのを振り切るように走る。
猫又たちは神出鬼没だ。その元締めなど言わずもがなで、こちらが必要なときに会えた試しがない。心当たりと言えば、先日暁人が『アイドル』をしていたライブハウスか。正直あの場を想像するだけで今も腹立たしいが、今の状況を考えれば躊躇している暇などない。
KKは意を決して、件のライブハウスへ向かった。今日は営業してないのかずいぶんと静かだ。地下へと続く階段からは、あの日感じなかった微かな線香のような匂いと猫の鳴き声が聞こえてくる。
扉を開けると、そこは薄暗い空間だった。少しだけ猫借亭の雰囲気に似たそこに、猫又の元締めがぷかりと浮いていた。KKの姿を認めた顔に、にやりと意地の悪い笑みが浮かぶ。
「いらっしゃい。いらない嫉妬してあの子を泣かせたんだって? だめなお人だねえ」
図星を指され、KKはぐっと言葉に詰まった。元締めはそんなKKの様子を面白がるように、ゆっくりと前足で顔を洗う。
「大事な番を疑うなんて滑稽だね。ああ、本命相手には余裕を見せられないってやつかい?」
「茶化すな! 暁人はどこだ!? いるんだろう?!」
KKはなりふり構わず元締めに詰め寄ったが、当の相手は涼しい顔で目を細めている。
「バイトの期間は終わったけれど、あの子はうちの稼ぎ頭だったしねえ。しかも純粋で、ひたむきで、誰かのために一生懸命になれる良い子だ。大事にしないってなら、そう簡単に返すわけにはいかないよ」
元締めの言葉は、KKの胸に重くのしかかった。確かに自分がひどいことを言ったのは事実だ。しかし、暁人が今どこにいるのか、無事なのか、それだけでも知りたかった。
「頼む、教えてくれ! アイツはどこだ、無事なのか!」
必死に頭を下げるKKに、元締めはふむ……と考えるそぶりを見せる。
「……ただで教えるのも芸がない。あの子が『みんな』に人気なの、わかってるだろう? それを傷つけた償いとして、とっておきの誠意を見せてほしいねえ?」
元締めのにゃーんという鳴き声が部屋に響く。その双眸に浮かぶのは、KKの心を試すような、何か企んでいるような、底知れない光だった。
目をそらさないKKに元締めは満足そうにひと鳴きすると、自分の背後にある一際大きな襖をゆらりと揺らした尻尾で示した。
「あの子はこの向こうさ。探し出せたなら連れ帰ればいい。……でも、あの子のままとは限らないよ」
KKはゴクリと喉を鳴らした。あの子のままとは限らない、とはどういう意味だ? しかし、今はそれを問いただす暇はないと直感が告げる。
「……見つけられなかったら?」
KKの問いに、元締めは再びにやりと笑った。その笑みは、獲物をいたぶる猫そのもので。
「そりゃもちろん、あの子がうちの子になるだけさ」
半ば本気だとわかる物言いに舌打ちしそうになる。元締めは本当に暁人を気に入っていて、手元においても良いと思ってるのだろう。そんな暁人を本当にKKに返す気があるのか、言うとおりにして大丈夫なのか。正直疑念はつきない。
だがKKに選択の余地はなかった。暁人を取り戻すため、KKは深く息を吸い込むと元締めが示した襖へと手を伸ばした。
重い襖を開けた瞬間、KKの目に飛び込んできたのは先ほどの地下室とはまるで異なる光景だった。森――しかも現在夜であるにも関わらず、ぼんやりと明るい。うっそうと茂る木々は神秘的な雰囲気を醸し出し、遠くから獣の鳴き声ともつかない奇妙な音が聞こえてくる。空気はひんやりとしていて、どこからか流れてくる水の音と、鈴の音が微かに響いていた。
「異界か……?」
KKは呆然と立ち尽くした。多少の妖気を感じるが多分猫又のものだろうし、マレビトに引き込まれた時のような不気味さや穢れはない。だが先程とは違いすぎる景色に警戒は強まる。
とは言え、立ち止まっている暇はない。暁人がこの中にいる。気づけば見えなくなっていた暁人との繋がりが復活していた。いつもよりは薄く頼りないが、暁人を探す上で今これ以上に役立つものはないだろう。
「……暁人! 暁人ぉ!」
KKは声を張り上げた。だが、彼の声は広大な森に吸い込まれていくようで、誰にも届かない。代わりに木々のざわめきや、どこからともなく聞こえるこだまが、KKの声を不気味に反響させた。
ひとまず黒い靄を頼りに奥へと進む。それにつれて、空間はさらに異様さを増していく。道沿いの木々には、おびただしい数の猫又がぶら下がっていたり、木の根元に蹲っていたりする。彼らはKKの姿をじっと見つめ、興味深げに、あるいは嘲笑うかのように、にゃあ、と鳴き声をあげた。「おや、あの子のこと泣かせた番じゃないか」「間に合うかねえ」などと不安をあおるように囁く猫又もいる。
雑音だ、気にするなと己に言い聞かせKKは構わず進んだ。暁人との繋がりを辿ってはいるが、正確に捉えられているかは少し怪しい。しかし、諦めるわけにはいかない。
「暁人! どこだ、暁人!」
黒い繋がりは途切れ途切れになりながらも、奥へ奥へと示しているようだった。それを信じてひたすらに足を進める。
やがて森の奥深くに石段が見え、登りきった先に赤い鳥居とひっそりと佇む小さな社があるのを発見した。そこから微かに、しかし確かに、人間の――暁人の気配がする。慣れない空間と山道に疲労は募るばかりだったが、KKは最後の力を振り絞って石段を駆け上がった。
社の拝殿らしき建物の前にたどり着いたKKは、息を切らしながらその中を覗き込む。そしてその視界に飛び込んできた光景に、息をのんだ。
――そこにいたのは、小さな子供だった。
泣き疲れて眠ってしまったのだろうか、幼い顔は涙の跡で濡れており、そのあどけない寝顔はどこか憔悴しきっているように見える。着ているのはぶかぶかだが見覚えのあるシャツとズボン。KKはその子供に、見慣れた暁人の面影を見つけた。
きれいな黒髪に、少しだけ上を向いた鼻先、そして、寝顔でもわかる、どこか気丈な口元。間違いなく暁人だ。しかし、どうしてこんな姿に。元締めが言っていた「あの子のままとは限らない」という言葉が脳裏によぎる。これは、元締めの仕業なのか?
KKは拝殿の扉を開け中に入り込むと、震える手でそっと子供になった暁人の頬に触れた。熱はない。むしろ、ひどく冷たくなっていた。KKの指が触れると、子供の暁人は微かに身じろぎ、うぅ、と小さく呻いた。
「暁人……」
KKは優しく名前を呼んだ。自分を幾度殴り倒しても足りない後悔と、安堵が入り混じった感情がKKの胸を満たしていく。暁人がどこかへ消えてしまったわけではなかった。しかし、こんな幼い姿になってしまうほど、彼を傷つけてしまったのだ。
冷たい木の床の上に寝かせておくのがしのびなく、KKは静かに子供の暁人を抱き上げた。驚くほどに軽く、小さな体温がKKの腕の中に微かに伝わる。
「無事でいてくれて、良かった……」
KKの言葉に反応するように腕の中の暁人がまぶたを震わせ、その瞳がゆっくりと開いた。潤んだ目がKKの顔を捉え、不思議そうに首を傾げこう言った。
「――おじちゃんだあれ?」
その無垢な問いかけに、KKは全身の血が凍り付くような衝撃を受けた。
おじちゃん。そうか、オレのせいでこんな姿になって、オレのことも分からなくなっちまったのか。
喉の奥から込み上げる痛みに耐えながら、KKは精一杯の笑顔を作ろうと努めた。
「オレは……」
言葉が詰まる。なんて答えたらいい? 自分が彼をこんな目に遭わせた張本人だというのに、どうすればこの小さな暁人を安心させてやれるだろう。
KKの心臓は、激しい後悔と緊張で大きく波打った。
「オレは……オレは、オマエの――家族だ」
絞り出すような声で、KKはそう答えた。
この小さな姿になった暁人がもしずっとこのままなら、もう二度と自分を相棒だと、唯一だと認識してくれないかもしれない。それでも暁人の側にいて、彼を護るのは自分でありたいし、そしていつか必ず元の姿に戻してやりたい。例え自分を二度と熱い視線で見てくれなくとも。
小さな暁人は少しだけ安心したように「かぞく……?」と呟いてKKの胸元に顔をうずめた。その幼い仕草に、かつての息子を思い出す。
しかし暁人の次の言葉は、KKの心をさらに打ちのめすものだった。
「ぼくねえ、ひとりになっちゃったんだ。おとうさんも、おかあさんも、まりも、みぃんないなくなっちゃったんだ。……おじちゃん、ぼくのかぞくになってくれるの?」
その言葉は、KKの胸に重くのしかかった。暁人の過去、彼があの日まで一人で抱えてきた喪失と孤独。自分はそんな彼の心の傷の上にさらにひどい言葉を投げつけてしまったのだと、まざまざと思い知らされる。
「ああ。だから、もうオマエは一人じゃない。オレがいる。ずっと、暁人の側にいるからな」
KKは小さな暁人をぎゅっと抱きしめた。幼い体温が、彼の心にじんわりと染み渡る。子供体温なのか、いつもの暁人よりも体温が高い気がした。
元締めの言った「うちの子になるだけさ」という言葉の意味を、KKは改めて痛感した。確かにこのままならば暁人は『猫又の子』として迎え入れられるだろう。傷ついた幼い心と魂に、商魂たくましいが身内には意外と面倒見の良い猫又たちはそっと寄り添うに違いない。
いっそその方が暁人にとって幸せなのか? という思いが芽生えかけて、それでもこの子供を手放してなるものかという執着が胸を焼くあたり、やはり自分は救いようがない。
KKの胸元で安心したように見えた小さな暁人が、まるで何か恐ろしいものを見たかのようにその顔をくしゃりと歪めたのは次の瞬間だった。
「あれ、そうだ、だめだよ」
「……どうした暁人」
すん、と鼻をすすった子供が困ったように、諦めたように続けた。
「おじちゃん、ぼくのこといらないでしょ? ぼくが、そばにいちゃ、だめでしょ?」
「待て暁人、何言って」
「だっておじちゃんは、ちゃんと、ほんもののかぞくがいるから……だから……」
ぼくはいらないこだよね? と。
その瞳は焦点が合っておらず、まるで見えない何かに呼ばれているように遠くを見ている。
記憶のない彼が知りえないはずの言葉に、KKは息をのむ。知らないはずなのに怯えているのは、忘れたのではなく記憶が眠ってるだけだからなのか。それとも自分は彼の心を深く傷つけただけではなく、何かもっと根源的な恐怖を植え付けてしまったのではないか。
「そんなことない! オレは、お前が……」
KKは必死に否定しようとしたが、暁人の目はもうKKを見ていなかった。その小さな体は震え、再びKKの胸元に顔をうずめて、言葉にならない嗚咽を漏らし始めた。まるで、自分が口にした言葉の意味を理解し、それが確かな未来を決定しているかのように。
KKは、ただひたすらに暁人を抱きしめることしかできなかった。自業自得だ、今更どの口でともう一人の自分がささやいた。
それでも諦めるわけにはいかないし、せめてこの子供の不安を少しでも払ってやりたかった。全てを諦めたようにただ震える小さな体を腕に抱きしめ、自分の心臓の音を聞かせるようにして語りかける。
「暁人、なぁ暁人、今のオマエには何のことかわからんかもしれねえが聞いてくれ」
応えは返らないが、ピクリと一瞬だけ反応した体と微かにリズムのズレた息づかいに聞いてくれているのだとわかる。
「……オレが悪かった、くだらねえ嫉妬をしたんだ。オマエが何を思って行動してくれたかも考えずに、一時の感情でオマエにひどいことを言った。オマエがオレを大事にしてくれてるのを知ってるのに、それを疑うような真似をしちまった。本当に、すまない……」
KKの声は震え、途切れ途切れになった。これまで誰かにこんなにも感情を剥き出しにして謝罪したことなどなかった。妻との別れの時にだってこんな醜態を見せた覚えはない。
プライドも、見栄も、今はどうでもよかった。許してくれなんて口が裂けても言えないし、今逃げずにここにいてくれるだけで十分だった。それでも謝罪だけはしなくてはならないと必死に言葉を紡ぐ。
抱きしめた暁人の体は、まだ小さく震えている。しかしKKの言葉が届いているのか、わずかにその震えが落ち着いたようにも感じられた。小さな指先が、恐る恐るといったようにKKの服の裾を握る。
「オレの愚かさがオマエをこんな姿にしたのに、それでもオレは、オマエを……っ」
声が掠れる。鼻の奥がつんとし、涙が出そうになるのを必死にこらえた。
その時。暁人が顔を持ち上げ背伸びをすると、ぐっとKKの頭を抱え込んだ。彼の幼い腕がKKの首に回され、その小さな体温がKKの頬に触れる。
「おじちゃん、なかないで。ぼく、おじちゃんのことすきだよ、なかないで……」
震える声で、しかしはっきりとした言葉がKKの耳に届いた。抱え込まれたまま見上げれば、涙で潤んだ瞳がまっすぐにKKを見つめている。その瞳には、先ほどの絶望とは異なる純粋な優しさと、わずかな理解の色が浮かんでいた。
――自分がこんなにも傷つけたというのに、この子はまだ自分を想ってくれている。その事実にKKの目から堪えきれず涙が一筋流れた。
小さな暁人の温かい抱擁は、KKの心を深く深く癒やしていった。そしてKKの口から、偽りのない、まっすぐな言葉が溢れ出す。
「――オレも、オマエが好きだ。愛してる暁人。オマエはオレの相棒で、唯一で、家族だ………」
その言葉は、まるで魔法のように、あたりの空気を震わせた。どこからか鈴の音が響き、KKの腕の中で小さな暁人の体がふわりと光を放ち始める。
「――っ、暁人?!」
光は徐々に強くなり、KKは眩しさに目を閉じた。例え見えなくても腕の中に感じる温もりを離すまいと抱きしめ続けていると、光は少しずつ収まっていった。眩しさに耐えかねて閉じていたKKの瞼が、ゆっくりと開かれる。光が収まったその先、腕の中に感じた重みと温かさは、先ほどまでの小さな体とは明らかに違っていた。
「KK?」
そこにいたのは、紛れもない、いつもの暁人だった。
呆然とするKKの顔を覗き込む、見慣れた黒髪。目元こそ涙で少し赤くなったままだが、その表情には先ほどの幼い怯えはもうない。戸惑いの色を浮かべながらも心配そうにKKを見上げる恋人の顔がそこにあった。
「あ……暁人……」
KKの声が震える。目の前にいるのは、確かに自分の知る暁人だ。身長も、体重も、声も。そして先ほどまで揺らいでいた二人にある黒い繋がりも。全てが元に戻っていた。
「ど、どうしたの急に……っていうか、ここどこ? なんで僕たちこんなところにいるの?」
暁人は辺りを見回し、森深い神社の異様な雰囲気に眉をひそめた。連れ去られてからの記憶はないのか本当に不思議そうだ。
KKは何も言わず、ただしっかりと暁人を抱きしめ直した。
「け、KK?」
「この馬鹿……いや、馬鹿なのはオレだが、本気で心配したんだからな」
「心配? KKこそなんで泣いてるんだよ……」
返ってきた相棒の背中をKKはさらに力強く抱きしめた。この温かさ、この存在を、もう二度と手放さない。そう、心の中で固く誓う。
KKはゆっくりと暁人を腕から解放し、その両肩をしっかりと掴んだ。潤んだ目を見つめ、深呼吸をして、先ほど幼い暁人に語りかけた言葉を、今度はきちんと『いつもの暁人』に伝えなければならない。
「暁人……本当にすまなかった」
KKの真剣な表情に、ケンカ別れをしたのを思い出したのか暁人も少し身構える。
「オレが、全部悪かったんだ。オマエがオレに隠れて何かしてるのに気づいて、ライブハウスまでつけた。そこであの衣装で、知らない奴らの前で歌って踊ってるオマエを見たら、もう、頭に血が上っちまって……」
KKは言葉を選びながら、嫉妬に駆られていた自分を正直に打ち明けた。
「その直後に出張が入って、仕事先でもずっと悶々としてた。そこに今日、オマエからの電話で『何時に帰れる?』って聞かれた時、オレがいない方が都合がいいんじゃねえかって、ろくでもないことまで考えちまったんだ……」
自分の醜い感情をさらけ出すのは辛かったが、今ここで全てを話さなければ、きっと後悔する。
「オマエがいつだってオレを想ってくれてるって分かってたはずなのに。プレゼントのために、嫌がった衣装まで着て、頑張ってくれてたのに……それを全部疑って、心にもないひどい言葉を言って、オマエを手酷く傷つけた。本当に、最低なことをした、悪かった……!」
KKは深く頭を下げた。自分の愚かさに、胸が張り裂けそうだった。
暁人は、KKの告白を黙って聞いていた。最初は驚き、次第に困惑の表情を浮かべていたが、KKの言葉が終わる頃には、彼の目にも再び涙が浮かんでいた。
「KK……」
ポツリと暁人が呟いた。
「僕も……色々ごめん。KKにサプライズしたくて、喜んでほしくて……言いつけ破った自覚もあったから、それで変に隠しちゃったんだ。それにアイドルなんて、KKに知られたら絶対呆れられると思ったし、恥ずかしかったから」
暁人もまた、正直に自分の気持ちを打ち明ける。
「あの電話も、プレゼントの準備ができたから早く帰ってきてほしくて……でも、KKにあんなこと言われて、僕、本当にショックで」
暁人の声が震える。あの時の彼の悲しみが、KKの胸に改めて突き刺さる。
「ああ、分かってる。すまない、暁人」
KKは顔を上げ、暁人の目を見た。二人の間にあった溝が、少しずつ埋まっていくのを感じた。
「あの時、僕、本当にどこかへ行きたかった。――でも、プレゼント、渡せなかったら意味ないしって……家にいたんだよ」
暁人の言葉に、KKはハッとする。家で作りかけの食事とプレゼントが残されていた理由が、ようやく分かった。彼は、本当にKKの帰りを待とうとしてくれていたのだ。
「そしたら、急に元締めさんが出てきて……気がついたらあんたに抱き締められてた」
暁人の言葉に、KKはあの元締めのニヤついた顔を思い出していた。
「――仲直りできたようで良かったねえ」
タイミングをはかっていたように、否、まるで最初からそこにいたかのように、猫又の元締めが姿を現した。相変わらずにやりと口の端を吊り上げている。
「元締めさん?!」
「テッメ、全部しくんだな?!」
KKは、これまでの状況全てが元締めの手のひらの上だったことを悟り、怒りに満ちた目で元締めを睨みつけた。
暁人が姿を消し、自分が絶望し、そしてこの異様な場所で彼を見つけ出したこと、全てが元締めの仕組んだ茶番だったのだろうと。
だが元締めはKKの怒りなどどこ吹く風とばかりに、涼しい顔で暁人に近づいた。
「ねえキツネノヨメ、最後に鎮魂歌を歌ってくれないかい?」
元締めの言葉に、KKが即座に反応する。
「ふざけるな!」
「いいのかい? あんた、あの時最後まで聞いてないだろう。抜けないよ、このままじゃ」
その意味深な言葉に、KKは「はぁ?!」と声を荒げたが、元締めは構わず暁人に向かってにっこりと笑った。
「キツネノヨメは、四つの曲の意味をちゃんと覚えておいでだろうね?」
暁人は首を傾げながらも、記憶を辿るように指を折りながら曲の意味をあげてゆく。
「えっと……奉納舞が場の聖別、二曲目が原始の曲で素直にさせるやつ、その次が荒御霊の曲で負の感情を表に出させるやつ、最後が鎮魂歌で鎮静と浄化、でしたよね?」
暁人の答えに、元締めは満足げに頷いた。
「えらいえらい、よく覚えてたね。これはね、4曲かけて全てを慰撫する愛の歌になってる。どれが欠けても成り立たない、一種の大掛かりな術式さ。だけど、そこの旦那はねえ」
元締めはKKをちらりと見て、含みのある笑みを浮かべた。
「最後まで聞かずに出て行っただろう? 人間だから効き方はちょいと違うかもしれないが、荒御霊は胸に宿ったままなんじゃないかい?」
そこまで言われてKKは瞠目した。胸の奥に渦巻いていた、これまで経験したことのないほどの激しい負の感情。普段の自分ならありえないような、我を忘れた言動。
そのすべてが、あのライブハウスで『荒御霊の曲を聞いた後に鎮魂歌を最後まで聞かなかった』ことによるものだと気づき、してやられたと言う気持ちでいっぱいになる。元締めの言葉は、彼の混乱と怒りの根源を、皮肉なまでに正確に言い当てていた。
「~~~~~っ、やっぱりオマエらのせいなんじゃねえか!!!」
「ほーらまだ抜けてない」
自分の異変に今の今まで気づけなかった情けなさと悔しさに、思わず怒鳴ったKKを元締めは愉快そうに笑い、暁人に視線で促す。暁人は少し戸惑ったものの、KKの怒りに赤くなった顔を見て小さく頷いた。
KKの腕の中で暁人は「んん……」と馴染ませるように喉を鳴らす。そうして深く息を吸い込むと、あの時と同じように澄み切った声で歌い始めた。それは、ライブハウスでKKが最後まで聞かなかった鎮魂歌――「眠れ、眠れ」という呼びかけから始まる、優しい子守歌のようなメロディだった。
先ほどまでの怯えや悲しみとは打って変わり、今の暁人の声には静かな湖面のような穏やかさと確かな力が宿っていた。
エーテルを乗せたその歌声は社に広がり満ちて、森の空気にじんわりと溶け込み不穏な空気を溶かしてゆく。そしてそれは、KKの心も同様だった。彼の皮膚を通り抜け、血肉を巡り、魂そのものを慈しむ。
KKは自然と目を閉じ、全身でその響きを受け止めた。歌声が彼の心の深部にまで達し、これまで押さえつけていたような言いようのない重苦しさがふわりと浮き上がり、内から解き放たれていくかのような感覚に身震いする。同時に、今までいかに自分が冷静さを欠いていたかを痛感させられた。
自身の愚かさや傲慢さが、歌声によってほどかれ宥められていくのがわかる。KKの胸の奥底で渦巻いていた嫉妬や怒り、後悔といった荒ぶる感情の残滓、澱みとも言えるそれらが流されていき、心の靄が晴れ、視界がクリアになっていく。
歌が終わる頃には、KKは完全にいつもの自分を取り戻していた。荒々しかった心が嘘のように穏やかになり、暁人への揺るぎない愛おしさが澄んだ水のように満ち、まるで嵐の後のように凪いでいる。
――それだけに、なんて術式を暁人にやらせているのだという別の怒りがわく。だが元締めはKKの怒りなどどこ吹く風とばかりに涼しい顔だ。
「抜けたみたいだね。感謝してくれてもいいんだよ?」
「どう考えてもオマエらのせいだろうが。なんなら暁人をかっさらう気満々だったろ」
「うまくおさまったんだからいいじゃないか。まあ? ダメだったら、うちの秘蔵っ子としてかわいがってあげようと思ってたんだけどねえ」
元締めは心底残念そうに、そして妖しくにゃいーんと笑った。もしKKが暁人を見つけられなければ、本当に彼は元の世界に戻ることなく、元締めの『うちの子』として留め置かれていただろう。
「なんならもう少し続けてくれたって、うちは大歓迎だがねえ? 大人気なんだよ、キツネノヨメ」
元締めの挑発的な言葉に、KKは即座に反応した。
「誰がさせるか!」
暁人を引き寄せて、元締めの視線を遮るように抱きしめる。暁人はKKの腕の中で、何が何だか分からないといった表情で目をぱちくりさせていた。
「そう熱くなるでないよ、旦那。あんまり嫉妬深いオスは嫌われるよぉ」
元締めは愉快そうに笑い、手のひら(肉球?)をゆっくりとKKと暁人に向けて広げた。すると、二人の体がふわりと浮き上がり、視界が白い光に包まれる。
「いっぱい稼いでくれたからね、これはサービスだよ」
仲良くおしね~、という言葉とともに森深い神社の情景が、あっという間に遠ざかっていく。
次に意識がはっきりした時、KKと暁人は自分たちのアパートの部屋に立っていた。テーブルの上にはまだ温かい作りかけの夕食と、丁寧に包装されたプレゼントの箱が置かれたままだ。全ては、あの電話を切ってすぐの状態に戻っている。
暁人は呆然と部屋を見回し、混乱した表情でKKを見つめた。
「あれ……? え、夢……?」
KKは何も言わずに、そっと暁人をもう一度抱きしめる。腕の中にいる、いつもの温かい体温。失っていたものが、ようやく戻ってきた。その安堵感と、込み上げる愛おしさで、胸が熱い。
「夢でもなんでも知ったことか。オマエがいるならそれでいい」
KKは暁人を抱きしめたまま、テーブルの上のプレゼントを指で示した。
「プレゼント、ありがとうな。……でも出来れば、あの格好はもうオレ以外には見せるなよ」
その言葉は、感謝と同時にKKの強い独占欲をはっきりと含んでいた。それに暁人は少し驚いたように目を見開いたが、やがてKKの胸元に顔をうずめ、小さく頷いたのだった。
その夜以降猫又の主催するライブハウスのステージに『キツネノヨメ』が登場することはなかったそうだ。一部の熱狂的なファンが残念がり、猫又の元締めが「やっぱりどうにか専任契約を結ぶべきだったかねえ」と悔しそうにしてたとかしてなかったとか。
そして愛しあう二人は末永く幸せに暮らしたそうな――めでたしめでたし。