雨空過ぎて白い花 世間は梅雨の真っ只中。今日とて降りしきる雨を尻目に、ホームルームの終わった天馬司は意気揚々と廊下へ踏み出した。
今日は、何もない日だった。大人の都合で授業は午前中に終わり、職場の都合でショーの練習も重ならず、個人的にも差し迫った用事は特に思い浮かばない。
何もないなら、隣のクラスの神代類に会いに行くのが、彼には一番良かった。互いは互いの心地よい居場所であり、しばしば興味と行動の源泉となる、かけがえのない間柄だった。すぐにでも彼に会いたい司は、2-Aから2-Bへの短い廊下を早足で進んでいった。金色の風が彼の後ろに従って、六月の涼しく湿った空気を一瞬、光で染めた。
「類!! 神代類は居るか!!!」
ガラッ!! と効果音に至るまで喧しく、司は目的の扉を開け放った。
今日は何もない日だ。だが、教室の中まで何もないのはどうなんだ。司は頭の隅でぼやいた。
2-Bの教室には、たった一人、窓際の席で頬杖をついて外を見る神代類が居た。皆早々に下校してしまったのか他には誰も存在せず、空虚な雰囲気が漂っていた。電気も点いていなくて薄暗いし、窓の外は雨で烟って何も見えない。
そこに在るのは、類だけだった。
「……おい、類、オレが来たぞ」
別に約束もしていないのに、司は類が自分を待っていたことを少しも疑わなかった。そしてできるなら、こんなに寂しい場所からこちらへ来てくれやしないかと声を投げかけたのだが、類はちらりと視線をよこすだけで動こうとしない。
「話すならここでいいだろう。屋上は雨だし、帰るのにもちょっと早いのだから」
穏やかな声音で、類は生意気にもこう返してみせた。表情は、窓からの逆光でよく見えない。見えないまま、またふいと外へ向いてしまった。
類は気まぐれだ。桜吹雪の中を、突然こちらに駆け向かってきたのはついこの間の話。そうでないなら、こんな風に司が側へやって来るのを信じていつまでも待っているのだ。微塵の疑いもなく。
かくも奇妙に信頼は交錯する。であれば今、司は彼の演出家の元へ行くため、暗がりへと足を踏み出すのに躊躇はなかった。これも、誉高き座長の役目なのだから。
「入るぞ」
司は律儀に声をかけてから教室へ入り、後ろ手で扉を閉ざした。ぴしゃ、と水の飛沫に似た音が響いた。
◆
司は教室へ入った途端、とぽん、と、体が静寂へと潜ってしまったように感じた。扉一枚を隔てて、彼らは放課後の騒がしさからふっつりと切り離されてしまった。尚も降りしきる雨だけが、薄暗い部屋の内で唯一確かな音になって二人を包んだ。
「やあ、司くん」
類が頬杖を解き、ようやく顔をこちらへ向けて、笑った。ともすれば、この静まった空気にさえ溶けてしまいそうな、淡い色の微笑みだった。彼は雨煙で真っ白な窓を背景にして、僕もこの雨景色の一部です、とでも言いたげに、端然とそこに存在していた。
司は沈黙で重たくなった足をのしのしと進めて窓際へ向かうと、類の前の席の椅子を拝借して、机を挟んで彼に向き合った。
「……やけに静かじゃないか、ここは」
「そうかな。でも僕は、とても賑やかで楽しい気持ちなんだよ」
「どうして」
「だって、やっぱり君が来たのだから」
類は胸に手を当てて、大層嬉しそうに笑った。言われた司は、結局彼の思い通りになってしまったので口をへの字に曲げたが、でも本当はちょっと嬉しいのだった。類は、立派な演出家だ。彼に動かされる役者はなべて幸福だという事を、司は座長としてよく分かっている。
「お前はここで何をしていたんだ」
「折角梅雨だから、雨をね、見ていたんだよ」
「雨か」
「雨さ」
司も窓の外を見た。曇っているが、日の気配が透けて存外明るい空だった。そこから真っ白な雨が、さらさらと美しい糸になって絶えず窓辺にふりかかっている。こんな、世界が光を放つ事の証明みたいな雨は、司も嫌いではなかった。
「梅雨といえば、誕生日ももうすぐだな」
「おや……」
類が目を見開いた。彼の目の色を形容するのには、誰もが些かの苦労を要する。今は、少しばかり雨に潤んでいて、注いだばかりのレモネードのような様子だった。
「今、そんな話題を出すのかい」
「オレ達にとっては今月一番に大事なことだ。それに、本当に思い浮かんだ事をわざわざ隠すような場面でもあるまい」
「正直者だねぇ、君は」
「そうだろう、そうだろう」
だが瞬間、司の瞳が不安定に揺れた。実の所、彼はささやかな嘘をついてしまっていた。というのも、本当に思い浮かんだはずの事を、彼はほんのひとつだけ胸の底に秘めてしまって、とうとう外に出す事をしなかったのだった。少し俯くと、類の滑らかな喉元がやけに白く映えて網膜を焼く。それが司をまたほんの少し、苛むのだった。
類は、この雨景色の向こうからやって来たのではないか──と、その時司は思った。全てを烟らせて、何も意味を成さなくしてしまう、そんな幾億の雫をくぐって、彼はこの世に生まれてきたのではないか。などと、彼には珍しく、妙に茫洋とした妄想だった。司は顔を苦く顰めた。嘘と相まって、気味の悪い歪を自分の中に見てしまった気持ちだった。
司はそれを振り払いたくて、類の顔を窺い見た。けれど、返って間違いではないような気が、してしまった。つまり、彼の肌はあの雨に濡れ染まって白いのではないか。薄紫の髪は、きっとこの時期に咲く紫陽花をよすがにしてこんな色なのだ。目の玉など、いかにもあの輝く天から零れ落ちてきたかのように澄んでいるじゃないか。
「司くん」
ぽつ、と雨垂れのように、穏やかに染み透る声は、これもまたこの季節に相応しい。そう思いながら見ていると、柳の葉みたいな眉が、雨の重みかしんなりとハの字に下がった。
「あのねぇ司くん。そんなに見つめちゃ、困るよ」
「むっ」
ぱちん、と霞んだ思考がはぜて、司はぱちぱちとまばたいた。とりとめもない空想は、しばしば微睡みに程近い。
「ん……そうか、すまない。似合ってると思ったのでな」
「何が」
「お前が、六月に生まれた事が」
司は、今度は正直に言った。それを聞いて、類は小さく首を傾げた。彼のこういう仕草は、いつもどこか少女じみている。
「……君だって、五月生まれだろう。それこそ似つかわしいじゃないか」
類はひそりと呟いた。司は、自身を取り巻く黄金の風格が、彼の目に鮮やかな春の星空と、大地に咲き渡る花々を見せていることについぞ気が付かない。さて、この目をスプーンで掬って彼に食べさせてみたりなんかしたら、ちょっとはこの感動も伝わるだろうか。などと、こちらはこちらで何のはにかみもなく夢想しているのだった。
「ところで司くん、この雨の向こうには、どんな景色が広がっているんだろうね」
不意に類がこう問うので、司はぎょっとして、彼に先程の嘘を見抜かれたかと身構えた。素直に今すぐ謝ってしまおうとさえ思った。ちょっとだけ嘘をついてすまない。お前の生まれる以前を勝手に妄想してすまない。自分らしくなくて本当にすまない。そんな風に。
だが類は、司の唇に白い指を、ぎゅ、と当てて、彼の懺悔を押しとどめてしまった。類は、見抜いていた。そして彼に芽生えたかわいらしい歪を、それを後ろめたく思う誠実も含めてすっかり愛しているのだった。
「何という事はない、さっきまで僕が考えていたことだよ。ね、司くん、結構な雨でほら、すっかり何も見えなくて、向こうに何があるなんて断定できないじゃないか。ねえ、面白いから、考えてみるといいよ」
「ん……そうか。そうだな……」
司は唇から離れていく指を少し勿体ない気持ちで見送ると、また外を眺めてみた。
雨の向こうに、何があるか。窓というスクリーンに、きっと輝かしいであろうそれを思い描いてみる。例えば青天に虹が掛かるのはお約束だし、或いは満天の星が広がっているのもいい。どこまでも続く海が現れても素敵だし、実は別世界の魔法の国がそこにあるなんてのもよかろう。気がつくと、自分達がショーを通して見た景色ばかり思い出していた。きっと類が考えた事も大体同じだったのだろう。顔を見合わせ、思わず同時に破顔した。
「考えてみれば、これもショーの演出に使えそうだね。はっきり見えないということは、人の想像をよくよくかき立てるから。ここは何処か、これは何か。疑問のベールを剥いだ時、何が見えたら観客は感動するだろう……?」
類が目を閉じる。いかにも考え込むように左手で頬杖をつくと、彼はもう思考の淵へと深く深く降りてしまった。
さてこうなると、類はなかなか帰ってこない。だが彼が考える事はとても面白くて、いつか作るショーをもっと素晴らしくするに決まっているのだから、司はそれを待つ時間がさほど苦ではなかった。
つと視線を落とすと、類の右手が、机の上に仰向けに投げ出された格好で、白く照らされていた。長い指が、眠りに閉じかけた花びらのような趣で軽く曲げられている。誰かに摘まれてしまった悲しい白百合が、ぽとりとそこに落とされて、雨音の中で朽ちるのを待っている、そんな風であった。司は手を伸ばし、綺麗に切り揃えられた爪先で、類の温かい掌をゆるく撫でてやった。寂しい花に手を添えて、オレが居るからどうなったって大丈夫なのだと、しつこく言い聞かせるように。
司は、未だ瞑目する類の顔をまっすぐ見つめた。あの妄想が過ちにならなかった今、目の前の彼そのものが、先ほどの質問の答えであったから。類は、この雨の向こうからやってきた。だから司は、雨を越えた先には一等綺麗な景色があるのだと、臆面もなく言えるのだ。
司の指が、類の手首をそっと握る。彼を手折るのは己でありたい、という司なりの意思表示だった。握られたそこから己の内へ滲む熱さに、長い睫毛が震え、ほんの少し開かれて、揺れる瞳がそっと覗いた。
(そんなに見つめちゃ、困るよ)
さっきよりも小さな声は、雨音の中に溶けてしまって誰にも聞こえない。司の熱が伝播して目元を染める頃、類は、この手が強く引かれてここから連れ去られることを、いつまでも待っている自分に気がつくのだった。
◆
ざあざあ降りの校門の前に、高らかな歌声が響く。下校途中の生徒が遠巻きに見ているのは、雨の中ポーズを決めながら大声で歌う変人と、すぐ側の木陰でそれを録画する変人であった。
「ハッハッハ!! 水も滴るとはよくぞ言ったもの。雨の中のパフォーマンスも乙なものだな!!」
「そうだねぇ。この雨でも君の声はよく聞こえるし、舞台装置を使うならもっと派手に動かしても問題なさそうだね」
一通り通し終わったのだろう。歌う変人こと天馬司が胸を張っての自画自賛、録画する変人こと神代類がそれににこにこと応答している。いつもの場面、いつもの役回りである。であれば、いつもの展開に発展するのも時間の問題だ。類はスマホを鞄の中に滑らせると、ちらりと校舎の方を見た。案の定、こちらへ駆けてくる女子生徒がいる。
「コラーッ!! 近隣の目もあるんだから、校門を一歩出たら静粛に過ごしてくださーいっ!!」
風紀委員の腕章を付けた彼女が、よく通る声で叫ぶ。即ち、いつもの後輩こと白石杏が、傘を持たずの全力疾走で真っ直ぐに向かってきていた。
「しまった、放課後だと油断していたが、もしや風紀委員の集まりでもあったか! 先生ならともかく白石は撒きにくい。おい類、逃げるぞ!!」
「ふむ、彼女の言い分から察するに、校内であれば大声で歌い狂っても問題ないということかな?」
「たぶん説教部屋が物理的に近くなるだけだ!! ほら早くしろ!!」
司の手が類の手首を掴み、走り出した。二人は雨に濡れながら、目にも鮮やかな速度で校門から遠ざかっていく。金色の風に花の香りが寄り添って、彼らが駆け抜けた後にきらきらと残るのを、居合わせた生徒は呆然と見ているばかりだった。
「ああもう、逃げ足が速いんだから。先生に報告すること増えちゃったなぁ……にしても、こんな雨でも相変わらず楽しそうだよねぇ、先輩達」
心根正しき風紀委員は、びしょ濡れになった髪をかき上げて苦笑した。そして雨の向こうへ消えていく彼らの姿を、校門から遥々と見送るのであった。