誰かを愛したかった魔女の話 昔々、まだ容易く世界が形を変えた頃。言葉が現を支配して、夢が影から這い出てきた頃。世界の端の端、地図に潜む怪物も近寄らない最果ての断崖に、それはそれは立派な魔女がおりました。
髪は夜明けに輝く空の藤色、瞳は蝋燭の照らす葡萄酒の色、肌は夕陽を浴びる真珠のよう。腕は細く、それでいて脚は艶めかしく、思わせぶりに宙を蹴ってドレスの薄い生地をはためかせます。
柔らかな胸と張りのある臀部を際立たせる引き締まった腰はコルセットをしていないのに優美極まりなく、その面差しは子どもたちが童話に夢見る姫君のよう。蜜蝋を塗った唇を震わせて、魔女は悩ましげに独りごちました。
「ああ、誰かに思いっきり愛を注ぎたいわ」
何年も何十年も何百年も、魔女は世界の隅っこで力を磨いてきました。そう、自分に愛を注いできたのです。魔力を鍛え、知識を積み上げ、美容も怠らず、体の隅々まで満足いくまで磨き抜いて、全身隈なくバランス良く整えて、そんな己を水鏡に見て、魔女は思ったのです。誰かに自慢したいと。
いえいえ、別に責められた話じゃありません。言ったでしょう? 何百年もひとりきりで修行してきたストイックな方なんです。寧ろ謙虚だと言えるのではないでしょうか。何百年も経ってようやく承認欲求に駆られたんですから。
魔女は軽やかに空へと跳んで、地面のひび割れた荒野に着地しました。どうせなら伸び代のある場所を愛そうと思ったのです。
乾いた地に雨を降らせて潤します。草木を育てて枯れ果てたらまた育て、肥沃な土地に変えていきます。
やがてしっとりした元荒野は、地面に花を山と咲かせて、魔女を讃えました。
「ああ、そのかんばせの美しく、その御心の美しく、それよりもなおその行いの美しき方! あなたのお慈悲に感謝します。あるいは気まぐれに。
遠い昔、遠い遠いあの頃、悪しき魔法使いに呪われて失った美貌をまた取り戻せるなんて。ああ、あなたのお恵みに尽きせぬ感謝を!」
「その話、詳しく」
元荒野の花畑から悪しき呪いについて詳しく聞いて、魔女は再び跳びました。ええ、一度称賛を浴びる心地よさを知ったら、もう単調な日々には戻れません。次なる賛美を求め、魔女は呪われた地を巡りました。
望まぬ噴火に苛まれる山を宥め、その灰を固め鎮め、緑の芽吹く山肌を取り戻させます。「ああ、魔女殿、あなたの施しに感謝します!」
嵐の過ぎ去ることなき海に晴れ間を取り戻し、脚が途絶えて久しかった流氷との再開に涙ぐませます。「ああ、魔女よ! 永久に途切れぬ友情をあなたに捧げます!」
地面は腐り木々は歪み悪臭と毒素が蔓延する森を癒やし、健やかな木々と爽やかな緑の香りを甦らせます。「ああ、魔女様。あなたに忠誠を誓います。この森があなたを拒み、あなたを迷わせることは決してないでしょう」
魔女は弾む足取りで次々に呪いを解いて大地を癒やして回り、もはや世界に悪しき呪いは一つもありません。
良いことをしたと満足した魔女は、久々にゆっくりしようと世界の端っこに帰ろうとして、森の片隅に捨て置かれた、小さな赤子を見つけてしまいました。
とても可愛い赤子でした。赤ちゃんはみんな可愛い? それはそうですね。でも一際、一等、素晴らしく、魔女にはその赤子が愛らしく見えました。
思わず頬ずりしたくなるようなあどけない頬。ふっくらとしていてすべすべの肌。極上の絹よりなお柔らかく希少な産毛。ぱっちりした目が魔女を見上げて、にっこり笑います。
どうしてこんな小さな子を捨てたのでしょう? きっとたくさん愛されていたのに。これが最後といっぱいお乳を吸わせてもらって、赤子はうとうとと産着にくるまれて、魔女を見つけてにっこり笑ったのです。
ああ、見つかってしまった。魔女は独りごちました。ええ、何度も何度も繰り返されてきたこと。
魔女の力は大きすぎて。魔女の愛は大きすぎて。ひとりの生き物に注いでしまうと、その子のために世界を滅ぼしてしまうのです。
みんなきっと、悪しき魔法使いになんてなりたくなかったのに。世界に呪いを振りまきたくなんてなかったのに。心優しく善き隣人でありたかったのに。誰かを愛したいと思ってしまった。それだけだったのに。
赤子を抱き上げて、魔女は微笑みかけます。何も知らない赤子は好奇心の赴くまま、魔女の指にもみじの手を絡めました。ああ、その手の小さなこと、柔らかいこと、あどけなく愛らしいことといったら!
外気で冷えた肌が不憫で抱き寄せると、ぽかぽかと温かくて。魔女は己の胸に火が灯るのを止められませんでした。この子がどうして捨てられたのか。風が、木々が、大地が、大恩ある魔女に報いようと教えてくれます。
「ああ、そうだったの」
この子は誰もが待ち望んだ王となるべき子。でも欲深い現王が、その蜜を啜る佞臣たちが、この子を疎み、殺そうとしたのです。
母はこの子を逃して死にました。心ある騎士たちも討たれました。この子は戦いの最中に藪の中に隠されて、眠っていたこの子は追っ手が去るまで気づかれなかったけれど、飢えて凍えて寂しく死ぬはずだったのです。
「ゆるせないわ」
ひと目見て心奪われたこの子への非道を、どうして許せるはずがあるでしょう? 止めようとしても止まりません。善き隣人でありたかった。心優しい存在でいたかった。ええ、どうしてでしょうね? どうしていつも、そんなちっぽけな願いが叶わないのでしょう?
風に、森に、大地に、海に、空に輝く星々に、魔女は燃え盛る心のままに命じました。
「わたしの愛し子を殺めようとする、すべての獣を撃ち殺せ。彼らに恵みを与えることは許さない。一抹の灰も遺さず焼き尽くし、煙さえ天に帰れぬ毒となるがいい!」
今は昔、言葉が容易く世界を変えた頃。魔王と呼ばれるようになった魔女が、愛した子に討たれるまでの物語。