降志ワンライ「停電」 私と彼の始まりは、笑ってしまうくらい陳腐な出来事だった。
きっかけは、残業帰り。十一階のフロアから帰路に着くために乗り込んだエレベーターには、既に先客が居た。それが、彼。降谷だった。
君も遅いな、お疲れ。あなたもね、ちゃんと寝てるの?そんな取り留めもなく花も咲かない話を一言二言交わしている内に、あっという間に狭い鉄製の箱は目的階である一階へと辿り着く。が、そのまま何の前触れもなく、ふっと電気が消えた。
「えっ」
声を上げたのは、私だけだった。
暗闇の中、彼はスマホのライトを照らして非常用ボタンを押す。
ジリリリ、とホールに響き渡る警報音からやや遅れて、オペレーターと通話が繋がった。
発電所内での火災により、都内の一部で停電が発生しており、その影響を受けているのだという。
霞ヶ浦が停電の影響を受けるとは一大事だろう。時刻は深夜といえど、自分たちのように眠らない職員達もいるはずだ。
努めて冷静に説明を聞き、こちらの状況も伝えると、オペレーターから急行するのには少し時間がかかる、と申し訳なさそうな返答が返ってきた。老人など、より状況が切迫している救助者を優先するためだ。致し方ない。
わかりました、待っています、と降谷が告げた途端通話は終わり、そのまま箱の中はシンと静まり返る。
「持久戦だな。早めに出られればいいが」
「仕方ないわね」
ふう、と息をついて壁に寄りかかると、降谷は上着を脱いで広げ床に敷き、志保にそこを進めて自身は床に座り込んだ。彼の紳士的な行為に素直に礼を告げ、並んで腰を下ろした。途端。
きゅるる、と可愛らしい音が鳴った。
「……」
「……悪い、何も持っていない」
「誰も強請ってないわよ…!」
「ごめん。でも俺も同じ。腹減ったな」
「そうね…」
ふぁ、と思わずといった様子で零れた欠伸は、彼のもの。
先ほどの意趣返しとばかりに、志保はクスリとほくそ笑む。
「そちらは睡眠も不足ね」
「最近詰めてたからな。君もじゃないのか」
「まあ、そうね…さすがにこんなところでは眠れないけど」
ふぁ、と。
移ってしまった欠伸に、くつくつと笑う声が聞こえてその腹を小突いた。
痛い、と笑う彼のわかりやすい嘘にぐりぐりと追い打ちをかけてやると、
本当に痛いって、と非難めいた声があがる。
笑いながら涙を浮かべる彼に満足して解放した――その時だ。
ふ、と彼の瞳が自分を捉えて。
私もまた、彼の吸い込まれそうな青を見つめていた。
何の言葉も、前触れもなかったと思う。
ただ、彼の手がすいと私の顎を持ち上げて、私はそうするのが自然だというように、瞼を下ろした。
柔らかく唇に触れる感触と、息遣い。
触れるだけのキスは、スタンプを押すかのように何度も繰り返された。
最初はただ触れるだけだったそれが、やがてぬるりと舌でなぞられて一の字に結ばれていた志保の唇をこじ開けるように誘う。
おずおずと口を開いたその瞬間を逃さないとばかりに彼の舌が入り込んできて、
咥内を弄ばれる。
ぐ、と引き寄せられて、彼の手が胸の上に触れた。
「ちょっ…それは、ダメよ…」
「……仕方ないな、今は」
今ってなんだ、今って。
そう訴えることも許されぬまま、志保は再び降谷の口づけに溺れていく。
空気が薄い。
くらくらする。
気持ちいい。
もっと、もっと―――
そうしてどれだけ続けていたのか。
くたりと降谷の腕の中で蕩けてしまった志保の耳に、「大丈夫ですか!?」と外からの声が響いたのはそれから間もなくのこと。
*
吊り橋効果、という言葉がある。
不安や恐怖体験を供にした男女が、恋愛感情を抱きやすくなるという心理学の一種だ。
停電したエレベーター内という非常事態は、まさしく思考実験の場には相応しい舞台と言えた。
しかも互いに、三大欲求の内二つを満たせていないという状況下。
生物としての生存本能を満たす残る一つを、丁度良く発散させられる相手が目の前にいたのも紛れもない事実。
けれど、も。
薄闇の中、確かに見えたアイスブルーの瞳に。
ただの欲ではない、柔らかな光が垣間見えたのは果たして、吊り橋効果か。願望か。
答えの出ないまま、志保は彼の手をぎゅっと握る。
「志保さん?」
「このまま解散、なんて。言わないわよね?」
「……うん、そうだな」
話をしようか、と。
家まで送ると助手席へと志保を案内した降谷の操るハンドルが、
目的地ではない方向へと回る。
夜は長い。
話をしよう、と彼は言った。
言葉の無い衝動的な行動の後、理性を取り戻そうとする動作は少しばかり煩わしくも、嬉しくもある。
話を、しよう。
それはきっと、とても簡単な話。
それはきっと、たった一言で終わってしまう、話。
――けれどもとても、難しい、こと。
あなたが好き、と。
ずっと前から燻っていた想いを蕩かす、言葉。
停電の夜に、閉じ込められたエレベーター。
そんな陳腐なドラマみたいなはじまりが、私と彼が結ばれるに至った、分岐点だった。