【用語設定拝借】
アルファ:乾元
オメガ:坤澤
ベータ:中庸
フェロモン:信香
ヒート期:雨露期
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江澄と藍渙は番である。だがそれは事故によるものであり、決して惹かれあっての結果ではない。と、江澄はきちんと理解している。
そもそもにおいて、本来藍渙が思う相手は他にいたのだ。だがその相手は早々に別の番を得て、彼はきっと落胆していたのだろう。
そこにうっかりと雨露期を迎えてしまった坤澤がいて、乾元がその信香に抗えるはずもない。
江澄は坤澤だ。だが元々は乾元である。何の因果でこうなったのだろうか。恐らくは精神的にも肉体的にも極限に辛酸を舐めた体験と、金丹の喪失と復活という非常に稀な経緯の結果、坤澤へと転化したと推察される。
だがそれもこれも事が終わってから判明した事であり、そもそも江澄は己の第二の性を自認していなかった。だから本来坤澤ならば、予め対策を取るべき雨露期を唐突に迎えるという迂闊な事態へと陥った。
そして幸いというべきか不幸と言うべきか。その時共に居たのが藍渙だけであり、他の人間は居なかったこと。そして番契約は成され、結果として江澄が坤澤である事を知るのは藍渙だけになったということ。
坤澤は番を持つと、己の乾元以外にその信香は効かなくなる。雨露期も番の乾元さえ共に過ごせれば、精神的にも肉体的にも安定する。定期的にやってくるそれによりしばらく籠らなくてはならなくなるが、それ以外は番の無い坤澤よりも格段に過ごしやすいし、言わなければ坤澤とは分からない位だ。
それは江澄にとって都合が良かった。坤澤は生殖に特化した性別であると言われ、優秀な人間が多いとされる乾元に比べて低く扱われがちである。ただでさえまだ歳若い江澄は侮られているのだ。弱体化している一門を率いる宗主として立つには、己が坤澤である事を公表したくなかった。
だから坤澤であると露見しにくくなる番契約は、己の矜持を一先ず脇におくとして、現実を受け止め対処するにあたり大いに役に立つ。
例え事故として始まった番契約であっても、誠実な藍渙は三ヶ月に一度の雨露期を何かと理由をつけて共にすごしてくれるし、それ以外でも常に気にかけてくれる。
だが番であることは江澄が拒んだ為に公表していない。そもそも乾元は坤澤と違い、番は何人でも持てるのだ。
一方で坤澤は番は一人だけ。だから心優しい沢蕪君は、ただの事故で番にしてしまった哀れな坤澤を見捨てられず何かと世話を焼くのだろう。本当に愛したい人は既に別の人のもの。そして秘密を知られたくない江澄にとってもそれは都合が良くて。
今はそれで上手く行っているけれど、いつの日か。この素晴らしい人が心から愛せる番がきっと現れるだろう。その時に自分は、笑ってこれまでの礼を言えるようにならなければと常に思う。
自分一人だけの手に留めて置いて言い訳がないのだから。
理性ではどうにもならない雨露期だけの関係は、第二の性という抗えない本能を噛み合せるだけの、それ以上でもそれ以下でもない、ただの肉体欲求の発露だ。
分かっているのに、丁寧に優しく、時に激しく、体を交わらせる度に。本当に愛されているような気になってしまって。
叶うならばただ一人の番でいさせて欲しいと、他の坤澤を番にしないで欲しいと、分不相応に思ってしまう自分がいた。
だからいつの日かその時が来た時。みっともなく縋ってしまうのではないだろうか、という不安が胸を過ぎる。そんな惨めな姿を藍渙に見せるのは、江澄の矜持が許さない。けれど絶対に取り乱さない自信は無かった。
*
雨露期の記憶は実の所曖昧だ。約三ヶ月毎の発情期は番契約成立済みである為か比較的安定していて、律儀に付き合ってくれる藍渙のお陰で変に苦しむ事は無い。発情期に入ると繁殖を求める本能に体も心も支配され、ただひたすらに腹に種を植え付けて欲しくてたまらなくなるのだ。
もちろん世の坤澤全員が毎度その有様では日常生活に差し障りがある為、避妊薬や抑制剤という雨露期の緩和を目的とした様々な手段は発展している。
けれど江澄は基本的に避妊薬以外は服用してこなかった。それは藍渙から番契約をしているのだから自分を頼れば良い、必要無いと説得されたからだ。その言葉通りに孕むことさえ気を付ければ良かった。
乾元は坤澤の信香により発情する。言い換えるなら坤澤から求められなければ乾元は発情しない。例え番といえど雨露期に傍に寄らなければ被害を被ることなんてないのに、沢蕪君は番の義務感から律儀に付き合ってくれるという事だ。有り難すぎて涙が出そうになる。
だから江澄は初めての雨露期からこれまでの間、ただただ与えられる熱に酔わされ、本能のままに欲しいものを欲しいだけその身に受け止めていた。
夢現の中、強く逞しい腕に抱かれる。深く穿たれる衝撃に翻弄され、たっぷりと種を注がれる熱に酔いしれた。
その時間は本当に幸せだった。求められていると錯覚出来るから。そもそもが誤りの関係なのだ。藍渙の本心はどうであれ、今この時だけは現実なのだから、と。
素直にこの気持ちを伝えるなんて江澄には難しい。始まりからして藍渙に多大な迷惑を掛けている身なのだから、これ以上望んではいけないと思う。優しい人だ。だからこそこれ以上憐れみや情けを義務感から掛けられたくない。
だから雨露期以外では距離を取ると決めていた。修真界を牽引する、大きな世家の宗主同士としての適切な距離。それどころか私的な交流もほとんどない。だから二人が番であるなんて誰にも気付かれることは無かった。
そうして過ごすこと十年余り。舞台と役者が揃い、闇に葬られていた真相が暴かれる。
その結果が齎した影響はあまりにも大きく、そして新たな局面に至る。
*
『沢蕪君は閉関された』
江澄がそれを耳にしたのは、一連の騒動が終わり一息ついた頃の事。観音堂での幕引きから既に一月近く経つ間、江澄は日々後始末に駆け回って過ごしていた。
藍渙と最後に夜を過ごしたのは、あの事件の少し前。お互い本能に駆られてろくな会話もしない関係だから、彼が何を思っていたかなんて知らない。知らないし知りたくもない。
ただ思うのは、「やはり」という事だけ。最終的に金光瑤を刺し、葬ったのは藍渙だ。どう考えてもその事実があの男の胸に重くのしかかっているのだろう。聞くところによると何もかもを、あの仲睦まじかった弟ですら拒絶し静かに自室に閉じこもっているらしい。
藍渙と江澄が番である事など誰も知らない。だから藍渙が閉関したところで報せが来るわけも無い。藍氏は人材が豊富で、宗主業も藍啓仁や藍忘機がいる為滞りなく執政される。家族すら面会を拒むのであれば、ただの宗主である江澄が彼に会う事など叶わない。
一度だけ文を送った。当たり障りない文だ。それに対する答えは無かった。
つまりそういう事なのだろう。
だから江澄は生まれて初めてただ一人で雨露期を迎える事になる。いつの日か来るだろうと思っていたから準備は怠らなかった。たった数日の事だからそれで乗り切れるだろうと、そう思っていた。
けれど現実はそう甘くなかった。
「う……うぅ……………は、ぁ」
朦朧とする意識の中、熱い体を持て余す。番を失った坤澤の雨露期の緩和として処方される薬をしっかり飲んだはずなのに、それが本当に効いてるのか分からなかった。いや、効いているからこの程度で済んでいるのかもしれない。
腹の奥はいつものように種を欲しがって疼き続ける。いつもだったら望むだけ与えられる熱が無くて辛い。
「……はは、こんなに、辛いものなの、か……」
自嘲の言葉が零れて落ちる。口にしたら更に虚しい気分になってしまった。
これまでの雨露期では同じように朦朧とした意識の中であっても、番である乾元の香りに包まれていたから心安らかに居られた。でも今、それがないだけで胸が張り裂けそうに痛いし、分かってるはずなのに何故この身を貫いてくれないのかと悲しくて仕方ない。情緒不安定とはこのことを言うのだろう。泣きたくないのに涙が出て仕方なくて。
じくじくと雄を受け入れたがる後孔が疼く。仕方なしに己の指で慰めても欲しいものには程遠くて、それでも貪欲な体は快楽を求めて勝手に揺らめく。
惨めだな、と思った。いや、これまでが幸運過ぎたのだ。あの人は付き合ってくれていただけなのだから。
大きく息を吸う。そこに少しだけ藍渙の信香を感じた気がした。ふらふらになりながらその香りを追っていくと、随分前に貰った藍渙からの文だ。もちろん私的なものでも何でも無い、ただの公的文書だ。けれどそこに藍渙の、番の香りを見出してしまったらもうダメだ。
なんでここにいない。なんで抱きしめてくれない。なんで、なんで、なんで。
ぽたぽたと流れる涙を止められずにその文を抱きしめる。分かっているのに、納得しているはずなのに、結局自分は諦めきれていないのかと嫌になった。
このまま雨露期を過ごせる気はしなくて、震える手で強い睡眠薬を飲む。これはかなり強い薬で、眠ると言うよりは意識を奪うといった方が正しい。暴れる罪人や獣等を沈める為のもので、これを敏感な雨露期に使うのはあまり褒められた手段ではない。副作用も強く、雨露期が終わっても数日は体調を崩すだろう。それでもいいから現実から離れたかった。
昏倒するように眠りに落ちる。今は夢すら見たくなかった。