味覚を失った江澄が藍曦臣とリハビリする話(予定)①味がしない、と江澄が気付いたのは違和感を覚えてから二月ほど経った頃だった。
はじめは熱さと冷たさ以外を感じないとふと思ったのがきっかけだった。けれど仕事に追われてかき込むように食事を済ませるかいっそ食べずにいるかという状況が立て続いていたせいだと思っていた。
次に夜狩に出た先で姑蘇藍氏の師弟を率いた魏無羨と遭遇し、諸々あって野営することになって魏無羨が作った真っ赤な煮込み料理に周囲が悶絶するなか、見た目ほどのものではないと胃の中に流し込んだ江澄は、その理由を単に自分が昔から食べ慣れていたからだと思っていた。不味いと魏無羨を殴りつけることは忘れなかったし翌日多少腹の具合も宜しくなかったが、それでもそういえば刺激臭は酷かったがそんなに辛かっただろうかと首を捻りかけ、立て続いた怪異の報告に瑣末なことは忘れた。
ゆっくりと食事をする余裕など常に無いし、誰かと食卓を囲むことも無い。だからこそ気付くのに遅れたわけだが、味覚がない程度であれば然程の支障はない。そう考えて、その事実を誰にも言わずにそれからを過ごしていた。
味覚がないと自覚すると驚くほど飲食に興味が湧かなくなり、これまで以上に食事が疎かになった。それでも修練を積んだ身に大きな影響はなく、周囲に気付かれずに今日に至るわけだが、
(こうして身を持って理解するとは……)
喉の奥から溢れてきた血に咽せながら、江澄はごぽりとそれを吐き出した。
雲夢の他領の境で起こる怪異の報告が上がってきた折、見習いの師弟数人を引き連れて現場を確認し、水鬼ならば他者に任せるより自分が前に立ったほうが早い、と師弟達に待機を命じて制止を聞かずに現場である大きな池に飛び込んだのは、江澄にとって早期解決の目的よりも気分転換を図りたいという意図のほうが強かった。
水の中では誰よりも速く動ける、そう自負もあったし、実際すぐに異物を見つけて三毒で仕留めて、ぐるりと水の中で体を遊ばせた。
修練場で師弟に稽古をつけてはいても自由に身体を動かす機会は年々減っていく。昔のように暑いからと湖に飛び込むわけにもいかない、と水の中で少し笑って、急にグンと足を引かれて反射的に少し水を飲む。低級霊が池の底に引き摺り込もうと足に絡みついているのを見て蹴り飛ばして離し、遊びすぎたなと反省して水面から顔を出した。
「宗主!ご無事で!」
「当然だ、俺を誰だと思っている」
「怪異の消滅は確認しました、しかし」
「なんだ」
「浮いてこない宗主を心配して水に入った者が嘔吐を繰り返しておりまして」
御身に異変は、とまだ若手の部類に入る師弟の一人の言葉に目を細めて草の上に伏せる師弟へと歩み寄る。
少し水に触れただけなのに、と泣きながら吐き戻す師弟に、仙力で気の巡りを整えてやっていくうちに、ふとその体内に毒が混ざっていることに気付いた。
そういえばこの池には魚が一匹もいない。
他の生き物もいない。
水自体が毒か、と思い至った瞬間、腹の底が熱くなった。
「……しまった」
「宗主?」
些少の毒ならば大した影響は受けない。けれど、少しとはいえ直接体内に取り込んでいる。
今からでも金丹で打ち消せるか、と師弟の顔色が良くなったのを確認して、己の解毒に掛かろうとした、その時だった。
「おや、江宗主」
貴方がたもこの池の異変を調べに来たのですか、と微笑んで現れた藍曦臣と数人の藍師弟の姿に虚をつかれ、一瞬力を抜いた江澄は喉の奥を駆け登ってくる熱い液体に顔を顰めて、そのままそれを吐き出した。
「宗主!」
草の緑に散るどす黒い血に、藍曦臣が目を瞠る。揺らぐ視界にそれを見て、江澄は手の甲で血を拭いながら肩で息をした。
「……水に、触れるな、毒、……っ」
「江宗主」
校服や外衣が血で汚れるのも構わずに、膝をついた江澄を抱えて藍曦臣が自らの仙力を流し込んでくる。柔らかく温かなそれが体内の毒と正面からぶつかって暴れ狂う。もがく身体を押さえ込んで藍曦臣が懐から丹薬を取り出し、師弟から水を受け取った。
「藍家の丹薬です、飲んでください」
口元に差し出されるが喉の奥から溢れる血で飲み込むことなど出来そうにない。緩く首を振ると、口の中の血を吐かせた藍曦臣は「失礼」と呟いて丹薬と水を自分の口に含んでそのまま江澄の口を塞いだ。
溢れてくる血を押し戻し、水にも仙力を込めているのか直接体内に藍曦臣の気が流れてくる。
苦しいけれど血の味が薄れていく感覚はありがたくて、藍曦臣の舌から受け取った丹薬が喉の奥に落ちていくのを感じる。一度離れた唇がもう一度塞がれて再び水が流し込まれる。ゆるゆると口の中に溜まる水が甘い。
もっと、と強請るように舌を伸ばせば、分厚い舌が宥めるように江澄の舌の表面を撫でた。
ざらついたそれに身体を震わせて、はたと江澄は目を開けた。
味が分かる。
藍曦臣の肩を押して唇を離す。濡れた藍曦臣の唇を手を伸ばして拭って「済まなかった」と目を伏せた。
「迷惑をかけた、藍宗主」
「いや、偶々居合わせることが出来て良かった」
少しは落ち着いたかな、と間近から見下ろされ、浅く頷く。
「怪異も貴方が鎮めてくれたようだし、濡れたままでは良くない。私達が取っている宿で茶でもどうかな」
そちらの師弟達も少し動揺しているようだし、と囁かれ、躊躇いながらも頷く。
他の者に言われたのならば跳ね除けて蓮花塢に帰るのだが、どうにも藍曦臣には弱い。
この顔のせいか、それとも声のせいか、と溜息を吐きながら立ち上がり、口の中に残っていた液体を吐き捨てる。薄く赤いそれに血が混ざっていたことを知り、今のは味がしなかったな、と首を傾げて江澄は待ち受ける藍曦臣のもとへ歩き出した。