ヴェントルーが鳥と話している。ベランダに降り立った白い鳩はくるくると喉を鳴らし、それに対して「ああ」とか「そうか」とかヴェントルーは短く答えている。ベランダにでる掃き出し口のサッシを跨ぐように座り込んだヴェントルーはきっと腰が痛いだろうに気にするでもなく座り続けていて、窓枠に頭を預けながら虚空を眺めている。外に出した右足だけはベランダ用のスリッパを履いているが左足は素足のままで、脱力した様子のヴェントルーを気遣ってか白鳩はクーと鳴いた。
「わかった。ご苦労だった」
ヴェントルーが片手を上げて鳩に応えると、鳩はもう一度だけクーと鳴き飛び去った。どうかしたのか?と聞いてもああ、と言ったっきり喋らない。ようやく口を開いたかと思ったら「息子が死んだ」と呟いた。
「息子がいたのか」
そんな話は初めて聞いた。
「ああ。80年ほど前だったか、人間として生きていた時代に妻を娶って子を生した。それが死んだ」
「それは…お気の毒に」
「いや、もう何年も会ってなかったのだ。息子は反吸血鬼派で、ダンピールだったが吸血鬼にはならなかった。この歳までダンピールであることも隠して生きていて、顔を見ようにも嫌がられるから、何かあった時のために連絡手段だけ残しておいた。それなのに、あやつ、」
ぎり、と歯が軋む音がしてヴェントルーの顔が歪む。にも関わらず手足は脱力しきったまま、掌は上を向いたまま動かず床に転がっている。磔にされているみたいだなと不謹慎な事を思ってようやくヴェントルーが苦しんでいることに気付く。掌に触れてはみたもののなんの反応も示さず握り返されもしない。ヴェントルーは滔々と話す。
「妻が20年前に死んでから会話することもなくなった。あいつは独り身だったからせめて血族に会わせようとしても、吸血鬼なんかと口を聞きたくないと拒否された。今は時代が違うんだと言ってもあいつは頑なだった。我輩は世の移り変わりを何度も見ていたから分かる。人間なんて移り気だ。下手もすれば毎年道理も変わる。あいつは真面目すぎるやつだった。自分が生まれた時代の道理から外れようとはしなかった」
「ヴェントルーに似てたんだな」
「我輩に?」
驚いた顔で返してくるヴェントルーに気づいていなかったのかと呆れる。
「規律を重んじるやつだったんだろ?ヴェントルーそっくりじゃないか」
「…あいつは我輩に反発してばかりだったし、似ているとは言えん」
「ヴェントルーも強情っぱりじゃないか。それに1人で生きてきたなんてヴェントルーぐらいの生活力があったんだろ」
「それは妻の教えもあってだろう。敬虔なクリスチャンだった」
「キリスト教徒と吸血鬼って結婚できるのか?」
「それは、まあ、昔だったから、色々手を回せば」
「お前はすごいなヴェントルー」
「…ともかく落ち着いたら墓参りに行ってくる」
「すぐ行かないのか?」
「私の墓がある墓地に埋葬されるようだ」
ヴェントルーは薄く笑う。
「私の葬儀は妻の死後1年経ったあと執り行われたから、覚えている者も少なかろう。だが用心に越したことはない」
「…そうか」
身内に吸血鬼がいるなんておいそれと口に出せなかったのだろう。対立してきた歴史を教科書の上でしか知らない私には想像も追いつかない。私の手に気づいたヴェントルーはそれとなく手を握ると夕飯の支度をしないとなと言ったが、その場から動こうとはしなかった。次第に夕焼け始めた空が冷たい夜を連れてくる。
「鳩が」
「鳩?」
ヴェントルーの小声に反応する。
「鳩、そう、あいつ鳩を好んで飼っていて、鳩以上に健気な生き物はいない、必ず住処に帰ってくる良い奴なんだって幼い頃は一緒にベッドに寝たりもしていた。鳩もあいつによく懐いていた。友達みたいな可愛がり方をした。我輩は鴉こそ美しく賢い動物はいないと思っていたからくだらんと決めつけていたが、さっき来た鳩、昔飼っていた鳩に似ていた」
繋いだ手は体温をとり戻しつつあるように思えた。それに励まされるように思いつきを話す。
「なあ、私が死んだら喪主をやってくれないか?」
「…いきなり何を言い出す」
訝しげにヴェントルーは言ったが、私にはそれが名案のように思えた。
「葬式で鳩を飛ばす風習があるだろう?あれをやってほしいんだ。正直死んだあとのことなんかどうだっていい。誰が悲しんだか、どれだけ式が盛大だったかなんて生きてる今は関係ない。だけど棺桶に靴下が入っていて、鳩が飛ぶ葬式は最高だと思うんだ。あとお前書類関係得意だろ?適当に任す」
「そんな大事なことを任すな!」
「お前だから頼んでいるんだ。鳩を見る度、息子と私を思い出せばいい」
「お前は」
わなわなと震え出したヴェントルーをみてさすがに怒らせたかと思った。ヴェントルーは勢いよく手を振り払うと、立ち上がり深呼吸をする。
「お前のことは、靴下を履く度思い出している」
これ以上我輩を縛る気かと小さな声が聞こえた。
「…喪主は承った」
「ヴェントルー!」
「やかましい!そもそも早死するんじゃないぞお前!それ以外のことは持ち帰る!」
「おお!十分に熟考しろ!でもこれで堂々と家族の式に参列できるな」
「かぞ…!」
何から言えばいいのか戸惑いと苛立ちをないまぜにした表情のままヴェントルーは荒々しげにベランダの窓を閉めた。電気をつけておらんではないかと慌ただしくリビングに向かってエプロンを身につけるヴェントルーを見ながら今度鳩柄の靴下でも贈ろうと思いついた。もうとっぷりと日は暮れていた。