【1031】 体内の空気を一新させるように、ふう、と息を吐く。ただ深呼吸をするはずが思っていたよりも遥かに大きな溜息となって出て、人知れず苦笑いする。疲労感に苛まれるだけならまだしも、仕事の進みが芳しくなかったのは教育係としていただけない。進捗が今ひとつだった理由は明確で、日中執務室を訪れる者が多く、都度デスクワークに水を差されたためだと分かっていた。
仕事はまだ片付きそうにない。せめて伸びのひとつでもしようかとおもむろにデスクから視線を上げる。そこにはいつの間にか仕事の手を止め、手の平を差し出し、何らかを要求する執事の姿があった。今日幾度も見た光景。その仕草に心当たりはあったが一応とぼけて首を傾げて見せる。
「トリックオアトリート、です」
「……まさかお前の口からそんな言葉が飛び出すとはな。小娘たちに感化されたか?」
日中菓子をねだって地獄を練り歩き、この部屋においても執務妨害の限りを尽くした姉妹の姿をヴァルバトーゼは思い起こす。最終的には根負けしたフェンリッヒが渋々プリニーにスイーツを手配させ、それを受け取り、二人して満足げな表情で帰って行ったのは記憶に新しい。げんこつか小言のひとつでも落としてやりたいところであったが、なり損ないのプリニーもこの魔界に真っ当に馴染んだのだと思えばどこか憎めず、肩をすくめ見逃してやる他なかった。(フェンリッヒはその後もぶつくさと文句を垂れ、大いに不服そうであったが)
そう、つい先刻まではフェンリッヒも「ハロウィン」とやらの浮かれようをいなす側だったのだ。だのに、この状況はなんだ。短時間にしてどんな心境の変化だというのか。
「ええ、今日この日というだけで要求が正当化されるならば……使えるものは使おうと思い立ちまして」
にこり悪びれもせず笑う狼男。フーカたちの我儘勝手を許してやったことに妬いているのだろうか。或いはアルティナから菓子を受け取ったことが原因か? それとも人間界の風習を懐かしむプリニーたちにこっそりイワシをやったのがバレていたのか。シモベ心は実に難しい。
しかし、この程度で怯むような俺ではない。ひとつからかってやろうと心に決めて、ほくそ笑む。この男は砂糖菓子を俺が隠し持っていることなど、知る由もない。
「クク、お前らしくもない。菓子か悪戯かどちらかひとつ選ばせる、その発想が実に人間じみている。……それとも、人間界の呪文を盾にしなければ何かをねだることも出来んか?」
「試すような言い方をなさいますね。あなた様には『トリック』以外選択の余地はないはずですが? ……悪戯を仕掛けられるお覚悟は宜しいですか?」
「あいにく俺は菓子を持っていてな」
デスクの引き出しから透明な包み紙にキラキラと光るキャンディーを取り出して見せる。驚いた顔でオレンジの砂糖菓子を見つめる執事。
「な、散々菓子をせがまれても『そんなものはない』と求められてもいないイワシばかり渡しておられたではありませんか!?」
話が違うと後ずさるフェンリッヒ。それはまあ、そうだろう。この飴玉は今日の終わりにこの男に渡そうと取っておいたものなのだから。
「さて、どちらを選んでやろうな? お前が本当に欲しいのはこの飴玉か? それとも」
どうする? そう、赤い瞳で迫る。たじろぐフェンリッヒの様子に心が小さく充たされる。正解を探し泳ぐ視線があんまりにもおかしくて、しばらく目の前のシモベを何も言わず、ただ眺めた。見詰められる従者はといえばいよいよ返す言葉に詰まり、下を向いて顔を赤らめるばかりである。
「欲しい、です」
「はっきりせんな。トリックオアトリート、どちらがお前の望みなのだ?」
「……」
どうにもこうにもこれ以上の返事は見込めないらしい。やれやれと溜息を吐いて、その臆病を許すことにする。
指先でプラスチックの包装紙をほどく。剥き出しになったキャンディーを自身の口に放り込む。そしてべっ、と舌を見せ笑い掛ける。フェンリッヒは呆気に取られ、ただ俺の舌の上、オレンジの砂糖菓子を見つめていた。
「悪魔なら、どちらも奪い取るが良い」
控えめに触れた唇に柑橘の味が少しずつ、移っていく。