甘い、やさしい、ずるい◇◆──────────
エアコンが冷風を吐き出すゴー、ゴー、という音だけが聞こえる。もう十分すぎるくらい眠って、九門の瞼はちっとも重くない。天井を見つめるだけでは暇で仕方がないけれど、全身の関節という関節が痛くて、スマートフォンを触る気力も出ない。
枕元に置いたビニール袋には、鼻をかんで丸めたティッシュが大量に詰まっている。元来の性質のせいで発熱には慣れている九門だったが、風邪をひくのは随分と久しぶりだった。熱自体はプレッシャーで出ていた高熱と比べれば低いほうだが、咳とくしゃみと鼻水が加わると苦痛が何倍にも感じられる。
同室の三角は、今日は一日中アルバイトだ。朝出かける前に、九門の枕元に水とスポーツドリンクとビニール袋を置いてくれた。ちょうどその時は意識がもうろうとしていて、ちゃんとお礼を言えたかどうか定かではない。
三角は昨晩、「オレ、風邪引かないから平気!」と言って普段どおりに隣のベッドで寝ていたけれど、本当に移していないか、九門は心配になった。三角の仕事に影響が出てしまっていたらどうしよう、と考え始めると止まらない。九門の身体に備わった免疫機能をすり抜けて侵入したウイルスは、どうやら精神のほうにも攻撃を仕掛けているらしい。
今、寮内には誰がいるのだろう。無性に誰かと話したい気分だ。学生組は夏休み中だけれど、こんなに良い天気だから皆出かけているかもしれない。
コンコン、とノックする音が聞こえて、九門は「はぁい」と返事をしたが、掠れていつものような大きな声は出せなかった。
九門の返事が聞こえなかったであろう訪問者は、やや控えめにドアを開ける。九門は頭をそちらへ向けて、誰が来たのかと見つめた。兄の十座か、従兄弟の椋か、監督か、それとも……
「よう」
「莇…」
「はは、声ガッサガサ」
片手にタッパーを持ち、もう片方の手に水筒とペットボトルを持った少年が、肘でドアを開けて部屋に入ってきた。
「相変わらずすげー部屋だな。外国の子供部屋みてぇ」
「…あれ、莇今日…」
莇はミシミシ音を立てて梯子を上る。ひょっこりと現れたその仏頂面を見て、なぜだか瞳に涙の膜が張るのを感じた。友達の顔を見ただけで嬉し涙を流すなんて、情緒不安定にも程がある。九門は慌てて瞬きをして誤魔化した。
「ん?」
「クラスの友達とどっか遊びに行くって言ってなかったっけ」
「あ? あ〜…よく覚えてんな、人の予定。ドタキャンした」
「え⁉︎ なんで」
「九門が風邪引いてるから面倒見るっつって。あいつら心配してたぜ。『九門先輩お大事に』だって」
莇は九門に対して、こういった面倒見の良さを発揮することがよくある。別に二人きりで暮らしているわけではないのだから、何も莇の予定をおじゃんにする必要はないはずだ。
「そんな、気ぃ遣わなくても」
「お前がいつもみてぇにうるさくねーと、気になって楽しめないからな」
恋愛ごとには疎いくせに、「友達」に対しては妙に心の距離が近い。泉田莇とはそういう男だった。こんなふうに接してこられたら勘違いしないほうがおかしい。現に九門はもう随分と前から「勘違い」し続けている。
「莇って、やっぱり優しいね…ありがとう」
「どーいたしまして。これ中身、麦茶。ここ置いとくな」
莇は細長い腕を伸ばし、水筒を壁際に立てかける。続いて三角が枕元に置いていったであろう「さんかくクン」の小さなぬいぐるみを、さりげなく水筒の隣に並べた。空になったペットボトルと満杯になったビニール袋を持って、一度梯子を降りていく。
再び上ってきた莇は、タッパーを抱えていた。
「これ桃だけど、食う?」
「桃?」
「東さんがふるさと納税したらしくて、返礼品なんだと。朝大量に届いたから、臣さんと一緒に剥いた。結構甘いから、要らなかったら俺がここで食うけど」
「え、食べる、食べる」
九門がよいしょ、と上体を起こすのを、莇は満足気に眺めていた。莇は優しくて、格好良くて、頼り甲斐のあるいいやつだ。そんな彼がクラスメイトと外へ遊びに行くよりも、風邪引きの九門とベッドの上で桃を食べることを選んだ。
「ん」
莇がフォークを一本差し出す。九門は銀色のカトラリーを見つめてから、莇に一つお伺いを立てた。
「あのさ莇、オレ関節痛くて、その…」
「は?」
「食べさせて」
莇は盛大にため息を吐いた。流石に甘えすぎだったようだ。だよね、とおどけてみせるつもりだった九門は、次の莇の行動に卒倒しそうになった。
「子供かよ、仕方ねーな。ほら、口開けろ」
驚きで開いた口に、冷えた桃が突っ込まれる。舌で潰せるほどに柔らかくて、果汁が口の中に広がる。甘味は強いけれど、九門の苦手な生クリームのようなくどい甘さではなく、爽やかな味だった。
「おいしい…」
「だろ。もっと食う? ほら」
何が楽しいのか、莇は上機嫌で九門の口に次々と桃を運ぶ。「友達」は普通、ここまでしないと思う、と言う暇もない。
思えば朝から何も食べていなかった。九門は莇への感情で胸がいっぱいになっていくのを感じたが、それは空っぽの胃が満たされているのを熱で茹だった頭が勘違いしてしまったのかもしれない。
「これで終わり。食えたじゃん」
「ありがと、莇大好き」
「はいはい」
友愛のふりをした言葉を受け流しながら、莇はタッパーの蓋を閉める。九門は急に眠たくなってきて、また身体を布団に潜り込ませた。
「薬飲んだら寝とけよ」
梯子を降りていく莇のTシャツを、九門は片手で掴んだ。
「寝るまで居て…」
「しょうがねぇな」
莇は、腕動くじゃねーか、とは言わなかった。
空になったタッパーはローテーブルに置かれ、莇は再び九門のベッドに腰掛けた。滑らかな手の甲が九門の額に触れる。
「まだ熱いな」
「冷たくて気持ちいい」
できればずっとこうしていたい、と思った。
「莇ぃ、好き……」
──────────◆◇ おわり