凛と一緒(7) 蜂楽に相談して良かった。一時の集合は楽しかった。みんな曲者ぞろいだけど、やっぱりいい奴らだと、心からそう思った。
ただいまー。家に帰ると、母が待っていた。
「楽しかった?」
「うん。楽しかった」
蜂楽は千葉に帰り、凪も寮に戻り、千切は東京にいる姉の元に身を寄せた。國神は遠方であるため玲王の預かりとなった。久々に明るい表情で帰ってきた我が子に、母は複雑な表情を浮かべている。
「さっきまで、凛くんが来てたのよ」
リビングでくつろいでいたところに、キッチンで作業していた母から告げられた。
凛が…。潔は頭を横殴りにされたような衝撃に襲われた。
「弁当箱を持ってきてくれたの。そのままお夕飯食べて帰ってたわ」
「…凛、何か言ってた?」
重たい口を開いて問うた。母は穏やかに笑っていた。
「凛くんね、本当は世っちゃんと仲直りしたいみたいなの。だから早く仲直りしてあげてね」
乾いた笑みが漏れた。仲直りしたい……凛が言うとは思えない。どうせ、母の手前、気を遣っただけなのだろう。凛は潔の両親の前だけは気を遣える礼儀正しい子であるのだから。母になんて答えたのかは覚えてない、生返事だけ返したと思う。せっかくの楽しい気分もがた落ちした。結局その夜もよく眠れなかった。
凛との間が隔絶されたまま、土曜日を迎える。急遽割り込まれた練習試合に一様が戸惑いを隠せていない。監督も潔の前で、なんでだろうなと遠い眼をして呟いた。潔は心の中で、自分のせいですごめんなさいと謝罪した。
練習試合前のウォーミングアップ中に、松風黒王高校サッカー部が入場した。
「潔さーん!」
向こうの列からの呼び声に、潔は呻いた。吉良が顔を輝かせて手を振っている。玲王の言う通り本当に連絡が来なかったので怒っているのではないかと不安だったけれど、煌めく笑顔を視る限りそこまで怒ってない…と思う…いやもしかして本心では怒っている…?吉良がわからない。吉良のチームメイトが潔を注目して、吉良が何か説明している。まさか…チームメイトに付き合っていることを喋っている?胸の中に煙が渦巻く。サッカーに集中したいし目立ちたくないから自分はチームメイトに喋っていないし秘密にしているって話した筈なのに、そんな簡単に言っちゃうの…?
「なあ、吉良涼介、お前に手を振ってない?」
「いつの間に仲良くなったの?」
「いや、たまたま…」
吉良が自分に興味を持っているのは、女子で男子サッカーの中でサッカーやってる珍しい子ってだけで、引く手あまたの吉良が物珍しさで付き合ってるだけ。それが潔の認識だ。思い込みともいうし、勘違いともいう。
誤魔化している最中に、バカでかい舌打ちが鳴った。見なくてもわかる。凛だ。殺意の波動が背中に突き刺さる。どんな顔をして潔を睨んでいるのかが容易に想像できた。
「潔―!」
「待たせたな、潔―!」
「おっす」
吉良から離れたところから上がった声に、潔は救いを得た。先日の面々が揃って潔に手を振っている。潔は少しだけチームを離れて駆け寄った。
「来てくれてさんきゅー!國神も千切もありがとなー!」
千切は姉のところに数日間滞在しているが、國神は秋田と埼玉を往復したらしい。玲王のプライベートジェット機で。流石御曹司、やることがスケールでかい。
「んで、あいつがなんちゃって彼氏?」
「自意識高い系粘着束縛彼氏?」
「めんどくさい男…」
「そうだな。顔面偏差値がそこそこのただの雑魚だ」
「お前らやめろって」
吉良を遠方より睨めつけながら容赦のない罵倒が放たれた。唯一、國神だけが良心だ。
「潔、大丈夫か?」
「うん、心配かけてごめん」
國神の気遣いが心にしみる。もちろん、県をまたいでまで来てくれたみんなには感謝している。と、涙ぐみそうになっていると、背中に刺さる殺意が近づいてくる。
「おい。んでてめえらがここにいんだ。帰れクソ共」
険悪な形相の凛が五人を視線で射抜いた。だが、これで怯む五人ではない。彼らも、凛に負けず劣らずのエゴイストである。
「凛ちゃーん、あれあれ、あれ、潔を苦しめるなんちゃってクソ彼氏ね」
「あ?」
「吉良涼介って、埼玉一のストライカーだとさ」
蜂楽と千切と凪が凛を潔から離して何やら話し込み始めている。潔の背中に嫌な予感が走っていると、玲王が潔の肩を軽く叩いた。
「安心しろって潔!この御影玲王に不可能はねえよ!お前の願いだって何だって叶えてやるさ」
「玲王…でもさ、どうやってこの練習試合組み込めたんだよ?」
「そりゃ無論、世の中は大体これで解決する」
親指と人差し指でわっかを作って示唆する玲王に苦笑いを返す。國神が心配そうに声をかけるが、潔は表情を暗くした。
今回の練習試合、潔はスタメンから外された。監督から呼び出されて理由を告げられた。凛との間に深いわだかまりが生じているのを、監督も気付いている。険悪なムードで出場させる訳にもいかず、今後のことも考えての配慮だ。潔もそれを充分理解した。だが、実際外されてしまうと精神的にこらえるのも確かだ。
このまま凛と一緒にサッカーできなくなったらどうしよう…。潔の心情が伝わったのか、國神の大きな手が潔の背中をそっと叩いた。
「安心しろ。お前らは似たところあっから、サッカーやったらまた元通りになるだろうさ」
「でも、今回、スタメン外されたし…」
「そうは言ってられない状況になるっしょ!なんていったって相手はあの、吉良涼介がいるんだし!」
玲王が予言めいたことを発した。その時はまだ、まさかその予言が的中するだなんて、潔は思ってもいなかった。
始まる松風黒王高校との練習試合。一難高校は凛と多田をトップに据えたチーム戦略に挑む。潔はベンチだ。前半四十五分、潔はこれほど歯がゆい思いを抱いたことはないと自覚した。凛の動きは完璧だ。敵を徹底的に叩きのめす超攻撃戦略。場を一瞬にして支配した。だが、自陣が凛の動きについていけていない。
ああ、今のパス、繋げたら凛も攻撃できていたのに。違うそこはパスじゃなくて攻め込むんだよ。どうしてそうなる!違うだろ!
ベンチで拳を強く握りしめて、奥歯を強く噛みしめていたのは、潔しかいなかった。
場を駆ける凛の一挙手一投足を目で追う。チームを連動させる動きの中で、潔は凛と一緒に駆け上がる幻を何度も見た。
もしあそこにいたのが潔だったら。凛と一緒に駆け上がるのが潔だったとしたら。どれほど気持ちがいいサッカーだっただろうか――――。
くやしい。いまここに座っているこの状況が。くやしい。死んでしまいたいくらいにくやしい。
前半終了。一対一。凛と吉良のゴール点だ。同点のままハーフタイムに突入した。
このまま凛に捨てられたまま、サッカーを終えてしまうのだろうか。
嫌だ、という声が心に響く。凛と一緒にサッカーがしたい―――――その瞬間、潔の中で自覚が芽生えた。
凛と一緒にサッカーしていきたいなあ…。
凛とのサッカーが――――好き。
今更それに気づいたところで、もう遅い。
「潔」
頭の上から声が降り落ちた。弾かれるように頭を上げると、合うことのなかった目が、潔を見つめていた。
「後半戦、お前が出ろ」
「凛…」
「異論は認めねえからな」
光が一筋差し込んだ。ずっと、この言葉を、待っていた。目頭が熱くなりかけるよりも、胸の奥底から湧き出る熱い感情が全身に迸る方が早かった。
「精々足を引っ張るなよ、凛!」
「ほざいてろ雑魚」
いや、監督俺…俺抜きで勝手に決めないで…。端っこで監督が涙目を浮かばせていた。
後半戦開始。一難高校の勢いに変化が起きた。潔の投入――――凛とのツートップで、今までにない怒涛の勢いを生み出した。
糸師凛と潔世一のコンビネーションは、松風黒王高校を翻弄する。
キックオフの直前、凛と視線が合う。その瞬間、潔の脳が弾ける。
俺を見ていろ。俺が決めてやる。凛の思考が直接伝達する。全身から感じたことのない大きな力が湧いて溢れてくる。
高速処理する脳。研ぎ澄まされる五感。強くしなる全身の筋肉。迸る熱い感情。全てが潔に連動する。凛からのパスを受けた瞬間、未来が視えた。ボールを通して、凛の意志が伝わった。思いっきり蹴ると、いつの間にか走っていた凛が受け止めた。嬉しくてたまらない。
凛は潔を嫌っていない。凛の感情がボールを通して伝わった。凛も、潔と同じ思いだった。
潔も同じ。潔だって、ずっと、凛とサッカーをしていきたい。こんなことで、二人のサッカーを終わらせたくない…。その想いを込めて、ボールを蹴る。届いたパスで、凛がゴールを決めた。二対一。一難高校リード。周りから歓声が上がる。なんだあのコンビネーション。凛だけじゃなく潔もすごかった。潔はあんなスーパープレイする選手だったのか。驚愕の声が場を盛り上げる。
凛の視線とぶつかる。もっと速く回せ。それに潔は応える。ついてこい、凛。
敵チームのリスタート。吉良が前衛のトライアングル戦略で攻め込む。中盤を突破された時、防衛に回った凛と連動を起こす。凛がコースを塞ぐ。フリーになった吉良に回されるパスの瞬間を、潔は狙っていた。両者の間に入り、パスをカット。スーパープレイだと大歓声が上がる中、凛とのワンツーでセンタリングを上げる。DF二枚を前に攻め込むのが難しくなり、サイドにパスを回し、敵陣へと乗り込もうとする。背後から吉良が潔に張り付いた。
「ちょっと何熱くなってんの、潔さん?」
吉良はいつも潔に向ける同じ笑顔をしていた。
「そもそもこれ練習試合だし、本番じゃないんだから、やけにならなくてもよくない?一生懸命なのはわかるけどさ。ていうか、潔さんもよく頑張ってると思うよ。男子の中で女子が頑張るってだけでもすごいよ。でも、だからってそこまで必死にならなくてもいいじゃん。もっと力抜いたら?」
吉良の言葉は半分も聞いていない。今の潔の状態は、それどころではなかったからだ。
「うるせーよ、黙ってろ、クソ野郎」
吉良の表情が凍り付いた。潔は駆け出す。吉良を抜いて、敵陣のペナルティエリアへと駆け上がる。凛の気配を感じる。凛の意志を受け取る。綺麗に弧を描く美しいシュートーーーーそれは潔へのダイレクトパス。
決めなきゃ殺す。凛からのメッセージの返答を、ボールに込めて、一点集中。当たり前だ、バカ。直撃蹴球。ボールはゴールを突き破る。三対一。リスタートされても潔と凛の猛攻は止まらない。あともう一点というところで、ゲーム終了のホイッスルが響いた。一難高校の勝利。
「凛!」
顎に伝わる汗を手の甲でぬぐう凛の元へと駆け寄る。涼やかな視線が潔に向けられる。へい、とハイタッチを構えるが脇を素通りしていく。勝利の余韻が氷水をぶっかけられたようにさーと冷えていく。ぽすん、と頭に乗った大きな手の感触から熱が伝わった。弾かれるように振り向くが、凛はすでにベンチへ戻っている。残った余韻と感覚に、安堵を感じた。
少しずつでもいい。前のように戻れなくたって。凛と一緒にサッカーができれば。
そんな想いを募らせて、松風黒王高校と別れ、帰りの準備に取り掛かる。
グラウンド整備を終えて、待っている蜂楽達に手を振って、潔専用の更衣室に入った。
汗を拭いてから制服に着替えた後、思い出したようにスマホを確認した。吉良からの通知は、無し…。だけど、間際に視た吉良の表情を思い出すと、もう無理かもしれないと思考が過った。ハイになったとはいえ暴言は良くない。素直な心は残っているので、何て言おうかと思考する。それとは反対に、もう良いんじゃないかと冷静な自分もいた。
バタン。思考に没頭していて気付かなかった。潔しか入れない空間に、他人の、気配。
慌てて振り返る。険しい表情をした吉良が、潔を睨んでいた。
「吉良、君…」
出入口は塞がれている。逃げ道は無い。後ずさる潔との距離を一気に縮めて追い込んだ。
「潔さんさ、付き合ってるって自覚ある?なんなの今日の試合?俺に恥をかかせて楽しいわけ?それが彼女のすること?」
怒りと屈辱の顔で詰められて、潔の心臓が冷えて固まっていく。言葉よりも、吉良の表情が潔を追い詰めていく。
「潔さんは経験無いから仕方ないだろうけどさ、彼氏である俺の面子を立てようって気が感じられない訳。最初からずっと!付き合ってからずっとだよ。俺は何度も言ったけど、潔さん直す気ないよね?俺だから許してるけど、他の人だったら許してもらえなかったよ?」
咽喉がつっかえて、うまく息ができないでいた。吉良の目には潔は映っていない。最初から、吉良自身しか、映っていなかった。その事実を知った時、気持ちだけが落っこちていった。脳と目で逃げ道を探すが、吉良が入口を遮っている以上、どうあがいても逃げきれないという答えだけが埋め尽くしていく。
「聞いてる」
吉良が突然激昂して潔の手首を掴んだ。
「痛っ、吉良君、離してっ」
「潔さんが俺の話を聞かないからだろ」
吉良はいつも潔のせいだと責める。いつも潔に原因があると突き詰めてくる。それが、潔をじわじわと追い詰めていたのを、吉良は知らない。目尻に涙があふれる。手首の骨が折れそうなぐらいに痛い。ねえ大きな声を間近で張り上げられるのがこんなに怖いだなんて、潔は知らない。
「――――オイ」
扉が壊れるぐらいの音を立てて開かれた。獣がうなるような低い声が、吉良と潔の視線を掻っ攫う。
開け放された扉の前で、帰り支度を済ませていた凛が激昂していた。
「殺されたくねえなら今すぐ消えろ、雑魚」
鋭い眼光が吉良を射抜いた。どばっと全身から夥しい汗を分泌させて、微動を起こし始める。見開いた目は凛の眼光から逸れずにいる。わずかに開いた口からは細切れの呼吸ばかりを吹いていた。
動けない吉良へと、凛が接近した。
「汚ねえ手でそいつ掴んでんじゃねえっつってんのが聞こえねえのか?」
殺気の満ちた眼光と共に、ゆっくりと、低く、言葉が吉良を射抜く。わかるぐらいに身体を跳ねらせた吉良の手首を大きな手で鷲掴みにして力を込めると、悲鳴を上げてようやく潔を解放した。
凛から目を離さなかった潔に、殺意の矛先が変えられた。凛、潔が呼ぶ前に、凛の手が潔の左肩を掴んで引っ張った。容赦のない強い力で引きずり回され、物陰の死角に連れ回されると、壁に押し付けられた。
「試合が終わって直ぐに何してんだよ、テメエ」
「凛…っ」
凛の指が皮膚を突き破る勢いで食い込んだ。吉良に捕まれた時よりも容赦がない。凛から向けられているのは、間違いなく殺意だ。
「尻軽。お前、まじでぬりいから。殺したくなる。死ねよ潔」
容赦のない眼光と言葉が大きく抉った。零点下まで下がっていくような絶望感と同時に、ふつふつとマグマのような熱が込みあがった。
「何がしたいんだよ…凛の方が意味わからねえじゃんいきなり突き放したのは凛の方だろ無視するようになったのも凛の方じゃん」
「は?先に裏切ったのはテメエの方だろ?」
「だったら言ってくれたっていいじゃん何が気に食わないのか言えばいいじゃんいつも言葉が足りないんだよお前こっちだって言ってくれたら直す努力はすんだよ」
「うぜえんだよ…」
「こっちは凛とサッカーがしたいんだよわかれよバカ」
感情を爆発させて叫んだせいか、試合終了まで全速疾走したぐらいに身体が熱い。じわじわと熱くなる目頭で凛を睨むと、凛の双眸が血走った。
「そういうとこなんだよ……そういう、無防備に、踏み込んできやがって…っ」
奥歯をぎりっと噛みしめたかと思うと、胸倉を掴み上げてきた。
「もういい―――――」
吐き捨てるように言葉を口にして、潔を睨みつけた。
「知りてえっつうのなら、分からせてやるよ」
命の危機を知らせる警鐘が上がった。硬直する潔の腕を引っ張って、連れて出た。
一難高校を出て向かった先は、何度も行ったことのある、凛の寮。鍵を開けると直ぐ、潔を中に放り込んだ。
「わっ」
悲鳴を上げてフローリングの上に転がされた。凛は素早く内鍵を締め、潔の靴を脱ぎにかかる。
「は、凛…?」
凛も上がって、仰向けに転がる潔の上に乗っかった。
凛の匂いが近い。と思った時には、口を塞がれていた。凛の口によって。
くぐもった悲鳴を上げて、抵抗の意を示す。肩を叩いていた両手を掴まれ、顔の直ぐ横の床に縫い付けられた。足を動かそうにも体重をかけられているせいで身動きすらもできない。押し付けるせいで声どころか息を吸うことも吐くことも許されない。心臓の鼓動が耳打ちするようになって、凛によって殺されるんだと諦観した。凛の顔が離れてやっと息が出来たが吸い過ぎてしまって咳き込んでいると、顎を掴まれてまた押し付けられた。中途半端に咳き込んでしまったせいで口の端に唾液が垂れた。それすらも飲み込むように塞がれる。
思えば、潔の人生初のキスだった。誰にも捧げたことのないキスは、獰猛に奪われた。
何度も窒息するまで塞がれて、何時間も水中に息継ぎもしないまま潜水を続行されているように、呼吸を奪われていく。凛の長い前髪が顔にかかってくすぐったい、それぐらい近く、凛がいる。薄っすらと開いた目に移った凛の目は血走ったままだ。
はあ。げほ。何回目かの押し付けでやっと解放されたが、顔中の温度が上がり、息切れの呼吸が続く。凛は息を荒げていない。涼しい顔で潔を睨み下ろしている。
潔の腰に腕を回したかと思ったら、一息で抱え上げた。部屋の奥へと入り、ベッドの上に荷物のように放り落した。
投げ捨てられた瞬間、背筋に悪寒が走る。本能的に逃げようとするが、凛が馬乗りになって覆いかぶさった。
「いや、やだ、凛、やめっ」
仰向けに転がした潔の制服に、凛の手がかかった。凛の手を叩いて隙を突こうとするも、腕力で敵う訳もなく戻された。
潔は、これからなされる恐怖の所業を、覚悟した。
「――――初めてなんだよ」
劈くように、悲鳴を上げた。ついには涙が零れた。凛が動きをぴたりと止めて、潔を凝視する。
「キスも、そっから先も、したことないんだよ……だから、せめて、優しく、しろよ…っ」
せめてもの防衛で、両腕で顔の上を翳して、訴えた。訴えたというより、無意識に言葉を放ったというのが正しい。突然の凛の強行に驚愕と恐怖で混乱した末の言葉であった。
恐怖に耐えるように目をぎゅっと瞑った。が、いつまで経っても凛が動かない。停止しているような気配を感じる。
ぼたり。潔の白いシャツの上に赤い雫が落ちた。
「え?」
ぼたり、ぼたりと、赤い雫が落ちて染みを作った。潔は頭上を見上げた。ばっと、凛が鼻の下を手で隠す。けど、隙間から血が流れて落ちていた。
「な、なんでこのタイミングで」
「るっせバカっ」
「あ~あ!上向くなバカ!」
布団に血がしみこむ危険を感じて、咄嗟にポケットからハンカチを出して、凛の鼻に押さえつけた。凛は一瞬抵抗を示したが、大人しくなった。移動する?と提案すると、先ほどまでの勢いも削ぎ落ちた様子で首を縦に振った。ベッドからソファの前に移動するも、その間、凛は自分で抑えようとしなかったし、潔がずっと凛の鼻頭を抑える役目を全うしていた。いやいや自分でしろよ、と思ったが、これが凛なりの甘えなんだろうと思うと、無碍にできない。短い間に凛に感化されてしまっていた。
「…なんだか、最初に会った時と同じだな」
何日ぶりか会話を振るうが、凛からの返答は無い。けど、潔を見つめる目は穏やかに戻っている。
「…なんで怒ってたんだよ?」
改めて核心に触れる。凛の目を真っすぐ見つめた。見つめ返していた凛の目が、潔から逸れた。凛から一言も発する気配を感じない。喋りたくないのだろうし、元々喋ることが少ない凛から理由を聞き出すなんて行為自体至難の業だった。
「…………………………………むかついた、から」
沈黙の間が長く続いたのであきらめかけた時に、ハンカチ越しのくぐもった声が、ようやく答えた。
「男がいるくせに俺に靡くのも、俺よりも別の男を優先させたのも、全部許せねえし……俺以外の男と付き合ってる自体が、むかつく」
潔はぽかんと口を開いて固まった。思考が真っ白になる。
なにそれ。告白みたいじゃん。つまり、それって…。頬に熱が集中した。
鼻を抑える潔の手に、凛が自分のと重ねて手繰り寄せる。血は止まっていたが、痕がべったりと残ったままだ。散々な顔のまま、潔、と呼ぶのだから、笑っていいのか照れたらいいのかごちゃごちゃになる。
「俺はどうでもいい人間を家に上げねえし。女ってだけの理由で毎日送らねえし。オフも合わせたりしねえ」
凛の目が潔を捉えて離さない。吸い込まれそうになるぐらいの強い力が潔を拘束する。熱すぎて逃げたいのに、それを許さない。
「俺だったらつまらねえって顔でいかにもつまらねえことを考えながらつまらなそうにスマホ見させるようなつまらねえ男にはならねえ。サッカーだってなんだってテメエの気が済むまで付き合う」
まって、と言うも、声はしぼんでいてか細くなっていた。自分でもみっともないと思うぐらいに。凛の顔が近づいてきているのは気のせいではない。
「あんなつまらねえ男なんてやめて俺を選べ、潔」
は、と息を短く吐いた。吐いた後、悲しい気持ちがどっと溢れた。熱くなった目頭から大粒の涙がぽたぽたとこぼれた。
「は?お前、なに、泣いて」
流石の凛もいきなり泣いたので驚いている。潔は凛からそっと手を外して、両手で顔を隠して俯いた。
「ごめん……今は、無理」
「は?」
嗚咽が止まらないまま、潔はつづけた。
「だって…付き合っているんだよ、今は…別に好きな人ができたからって理由で別れるなんて…そんな最低なこと、できない…っ」
「は?お前、あんな男のどこがいいんだよ?」
「そういうことじゃなくて…っ!だって、付き合おうって言ってくれたのに、裏切ることは、できないじゃん…」
「だったらお前は続けたいのかよ、こんな生産性の無い関係」
「………」
「別れたいんだったら別れるって言えばいいだろ。バカか。アホ。雑魚クソ潔」
「うるせーバカ。お前には一生わかんねえよ」
「てか、今はってことは、いずれ別れる予定ってことかよ?」
「まあ……そのうち、飽きて自然消滅するかもだし…」
「じゃあ俺にその時が来るまで待てっつうのか?ああ?」
凛が頬杖をついて潔を睨み始めた。涙を残したまま、拗ねるように唇をぎゅっと横に引いて、下を見つめて肯定する。凛から特大の舌打ちが鳴った。どうせ自分みたいな女子は飽きられるのがオチだし、と滑らせると、凛がまた舌打ちを鳴らした。
「だったらそんな女に必死になる俺はつまらねえ男だって言いてえのかテメエ」
「…ていうかさ、そもそも、凛は私のこと好きなん?」
「好きじゃなかったら連れ込まねえよクソが」
「さっきから暴言ばっかり吐かれてるから凛に好かれてる自信が持てねえんだけど」
血の引く思いである。実際引いていた。嬉しいと思ったのは刹那だけだった。
「ごめん…本当に、ごめん…」
もっと早く凛と出会っていたら、もしかしたらそういった未来もあったかもしれないし、反対に仲のいい先輩と後輩の関係のままでいられたかもしれないし、切磋琢磨しあう相棒の関係でいられたのかもしれない…たらればの話をしていてもキリは無いのだけれども。それらは全て、こうであったら良かったのにという、潔の願いでしかない。
ポケットの中が震えた。スマホを取り出して、着信相手を確認する。吉良涼介という文字を見て、ずんと身体が重く感じた。凛はずっと見つめている。
「ということだから、ほんとに、ごめん…」
この短時間で何回謝ったのか数えきれない。後ろ髪が引かれる想いで立ち上がり、凛から離れながら着信に出た。
「もしもし、ごめんね、吉良君―――――」
吉良が何か言う前に、スマホが奪われた。直ぐ背後に立っていた凛によって。凛は流れるような動作で潔からスマホを奪うと、自分の耳に押し当てた。
「潔はテメエに愛想つかしてんだよ。今日から潔は俺と付き合うからテメエと別れる。二度と連絡してくんじゃねえ」
一方的に喋り、勝手に通話を切った。あまりにも自然過ぎて、潔は凛を見つめたまましばし固まった。我に帰ると同時に、わああと慌てた。
「凛お前、何してくれてんだよ」
何やら操作していた凛の手から自分のスマホを奪い返す。
「連絡先消した」
「まじで何してくれてんの」
「最初からこうしていればよかったんだよ、バカ潔」
この男、全くといってもいい程、反省の色が無い。凛の言う通り、吉良との連絡手段が完全に消去されていた。
「んで」
スマホを持ったまま、凛の方に向いた。仁王立ちになって、高いところから見下ろす眼光に射抜かれた。
「あれだけ俺に無防備さらしてその気にさせたテメエが全部悪い。だからテメエが全責任を取れ」
なんだその言い方。知らねえよ。そう言い返したいが、凛から発せられる覇気に呑まれて言葉が出せない。
「今更お友達から始めましょうなんて台詞も許さねえから。俺を弄んだ罪は重めえし完全に有罪だからな」
これは告白なのか?告白なのか?凛、お前、それで告白してるつもりなのか?付き合ってくださいって言ってるつもりなのか、凛?潔は目を回した。
「それでも嫌だっつうのなら―――――今ここでテメエをブチ犯す。テメエがはいというまで犯す。はいっつっても犯す」
冗談ではないことは、凛の目が物語っていた。
潔に与えられた選択は、付き合うか犯されるかの二択。本当に好かれているのかすらもわからない告白に混乱する前に、静かに三つ指をついた。
「……よろこんで、おつきあい、させてください…」
後になって、あれ、完全に脅迫だよなと思い返すが、後の祭りだった。
こうして、凛とのお付き合いが始まった。