yellow, yellow, yellow「あれ、また花束か?」
数日前に貰ったものがまだ萎れないうちに、またもクロが花束を持って現れた。前回よりも本数が少なく、大輪のひまわりが3本、それをくるんだだけのシンプルな花束。前は7本だった。
「先生、今日が何の日か覚えていますか?」
カレンダーを見る。7月13日。何の日か。祝日ではないし、なにかの記念日? ここ数年のこの時期に起きたことを、記憶から引っ張り出して、並べる。
「……お前の怪病が完治した日か!」
「はい」
クロの口が嬉しそうに綻んだ。
「そっか。もう丸7年になんのか。早えな」
出会った時はガリガリで死にかかっていて、治った時もまだ歳のわりに小柄で幼い少年だったクロも二十歳になって、すっかり大きくなって体格も良くなった。患者が元患者に変わって、関係性が師匠と弟子だけになってから、あの時生まれた子どもが小学生になるほどの時間が過ぎて、クロも大学生になった。正直あっという間だった気がする。毎日が忙しすぎて、楽しくて。
「それで花束? ありがとなクロ!」
あの時一緒に食ったカツ丼の味と、クロの笑ってる顔を忘れたことなんてない。んじゃ今日はクロ完治記念日だな、晩飯はカツ丼にすっか、と言おうとしたところで。
「それだけじゃないです。二十歳になったら、大人になったら、言おうと決めていたことがあります」
「あ? 急に改まって何?」
クロが完治した日の記憶が蘇る。あのとき、クロはもう来ない方がいいかと訊いてきて、俺が泣いて縋って迷惑なんかじゃないと伝えて。
あれから7年。そろそろ就活や独り立ちも視野に入ってくる大学3年生。進路のこともしっかりと考えている筈だ。
もしかして弟子を卒業したい、とか言い出すのだろうか。え、ちょっと待って。
「ちょ、なんで涙目になってるんですか!?」
「え、だってクロ俺の弟子卒業したいとか、言い出すんじゃねえかって」
「それは勿論弟子はいずれは卒業したいです」
いずれ。わかってはいる。いい大人を、本人が望まないのにいつまでも診療所の弟子なんていう中途半端な立場に縛りつけるつもりはない。どんなに長くても学生の間まで。そんなのは当然で、送り出してやる覚悟はちゃんとあって、あるはずなのに、急に突きつけられるとやっぱり動揺する。心の準備をさせてほしい。今日を以てとか言われたら流石に無理。……んな呆れたようなため息つくなよ、お前。
「十分に力をつけて弟子を卒業できたら、正式に先生の助手になりたいです」
「ん?」
思っていたのとは違う方向に話が転がり出す。なんだこれ、就活だったのか?
「それから、これが本題です」
どうも話についていけないでいると、俺の胸元に花束がぐい、と押し付けられた。視界がひまわりの黄色と、クロの真顔で埋まる。
「先生が好きです」
「おう、ありがと……?」
「僕は先生の恋人になりたいです。ずっとあなたのことが好きでした、僕とつきあってください」
「…………は?」
視界いっぱいの花束の画面のまま、脳がフリーズした。クロの言葉の意味がわからない。ひまわりが明るい色でキレイだなとか、そんなことしかわからない。
「驚かせてごめんなさい。でも、本気です。先生が、恋愛対象として、好きです」
その声に、やっと思考がカクカクと軋んだ音を立てて動き出す。恋愛対象として? 恋人になりたい? つきあってください? 知らない。何を言われてるかがわからない。ただ、だいたいは真剣な目つきをしているクロの目が、いつもに増して射抜くようにこちらをじっと見ているということ、それだけがわかった。
「俺と、つきあいてーの?」
「はい」
「こいびと、に」
「なりたいです。いつかの先生の言葉を借りるなら、ぎゅーとかちゅーとかしたいです」
聞き間違いでも勘違いでもないらしい。
「マジで……?」
「マジです」
「いつからだ……?」
「自覚したのは中3ぐらいでしょうか、一目惚れではなかったことだけは確かです。初対面の時は不審者だと思ってたので」
「んな前から……? お前んなこと全然表に出さなかったろ。ところで後半言う必要あったか?」
「大人になるまでは相手にされないとわかっていたので、ばれないように隠してました。気まずくなりたくなかったですし。それに、もし子どもに告白されてOKするような人だったら僕が無理ですから、どちらにせよ告白する意味がありませんでした」
「まあ、その通りだけどよ。……マジで、俺が好きなの?」
言えば、少しむっとしたように、眉間に皺が寄る。
「冗談で花束なんか持ってきません。花だってタダで手に入るんじゃないんですから」
「悪ぃ」
「畑を1Rレンタルして種から育てました。シーズンの間に種をとる分を残してあとは全部先生に渡すつもりです」
「春先から来るペース落ちてんなと思ったらんなことしてたの? つか、なんで一気に全部持ってこねーの?」
「まず初撃を叩き込んだあとは、忘れられないように継続的に花束を渡してじわじわと意識させ続けるという作戦です」
ノーブレスで言い切ったあと、一歩、距離を詰めて。クロのごつごつした指先が、俺の顎に当てられて、顔が、顔が近い!
「僕が来なくて寂しかったですか?」
「前振りなしで二発目をお見舞いしてくんなよ!」
「隙だらけですよ」
さらっと俺の髪の毛をひと束手に取って、唇を落と……そうとしたところで、流石に気が咎めたのか、すっと顔を離して、顎も解放された。ノーガードで三発目を食らって心情的には壁にめり込んでいる。継続とかじわじわとか言ってっけど、一撃一撃がデカいんだよ、お前。
「お前どこでこんなの覚えてきたん?」
「妹たちが観てたドラマでやってました」
「雷も氷詩も大きくなって……」
俺にまでおやすみのチューをねだってた子がもうそんな歳なんだな。クロも大人になる。その通りだが、同じだけ時間を過ごしたはずの俺の心だけがついていけてない。でも。
「本当に、好きなんです。すぐに答えを出してくれなくてもいいです。ゆっくり考えて、返事をください」
そう言った瞬間だけ、一瞬不安の影を顔に走らせるものだから。
「……わかった。ちゃんと、真剣に考える」
これ以外の、返答があろうか。
それからも変わらずに神社に通ってきながらも、クロは、隙を見ては俺に何かを仕掛けてくるようになった。
会話の時に耳元に囁いてきたりだとか、そっと手を取ってきたりだとか、今までとは違う距離感、違うやり方で俺に触ってくる。ふと気がつくと、熱のこもった視線で、俺を見ている。こっちはもしかしてずっと前からそうだったのかもしれない、俺が気づかなかっただけで。
そして、また花束を抱えてやってきた。今度は、11本。大輪の大きなひまわりがそれだけあると、一気に空間が明るくなる。前にくれた7本と3本の花は、少しでも長持ちするように毎日茎を手入れしている。クロがくれたものを、答えを出す前に枯らしてしまうのは躊躇われた。それにしても、7本、3本、11本、と、毎回大きさが違うのはなんでだろう。素数だろうか。
だいたいはいつも通りの日々の中に、不意に差し込まれる鮮やかな恋に、そのたびに心がぐらりと揺さぶられる。じわじわと意識させ続ける作戦、は、今のところきっと有効だ。
週末、一緒に出かけたいところがある、とクロが言ったのは、最初の花束を保たすのがいよいよ難しくなってきた頃だった。
「おう、いーぞ」
二つ返事で了承すると、嬉しそうに喜びを瞳に浮かべて、デートですね、なんて言うものだから、顔に一気に熱が昇った。少女漫画か、と自分にツッコミを入れるよりも先に、可愛いですね、なんて言われてしまった日には、どうリアクションすればいいかわからなくなる。俺にとっては、今もこいつは可愛いまま、なのに。
「少し歩くので下駄やサンダルではなくスニーカーを。できれば手足が出ない服装で、虫除けと日焼け止め対策もしてきてください。虫如きに先生が傷つけられるのは許し難いので」
「急に物腰物騒になんの怖ぇからやめろよ。で、どこ行くんだ?」
「着くまで教えません」
ここ二週間ぐらい毎日がサプライズだった気がするんだが、さらに驚かせるつもりなんだろうか。心臓に良くない。
夏の盛りの太陽に照らされながら、クロに言われた通りの長袖のシャツの下で汗が滲む。少し電車に乗って、少しバスに乗って。遠くもないけど近くもない、行ったことのない停留所で降りた。一応ギリギリ舗装されている細い歩道は、ひび割れから夏草が踝より少し高いぐらいに伸びる。バスが走り去った車道には、陽炎が揺れていた。
こんなとこに何があるんだろう。迷いなく歩くクロの隣についていく。
それから5分ぐらい歩いて、道に沿うような木々が途切れたところで、ぴたりと足を止めたクロは、少しだけ、緊張したような顔を、俺に向けた。
「……これを、先生にあげます」
視界が開けた先には、満開の黄色。一面の、とまではいかない細やかな区画に、鮮やかな大輪の向日葵がいっぱいに咲き誇っていた。
貸し農園なのだろう、周りにはトマトや茄子と行った夏野菜の畑が広がる中、一区画だけが花で溢れていた。
「これ、お前が?」
「はい、99本あります」
そっと、クロが俺の手を引いた。ごつごつした、骨張った指先が熱いのは、きっと、四捨五入したら40度の気温のせいだけじゃない。
視界いっぱいの向日葵の中で、少女漫画のヒーローというには、あまりにも心細さを湛えた、真剣な眼差しで、俺の両手を握った。
「先生、大好きです。ずっとあなたと一緒にいたい。僕と、つきあってください」
抱え切れないほどの大き過ぎるぐらいの愛が、この花畑だと言うなら。
「……ごめん、クロ」
俺は、その気持ちに応えることは、できない。
クロの顔が絶望に塗り替えられる。しばらくの沈黙ののち、絞り出すように、まだ、足りないですか、と掠れた声で口にした。
「違う」
そうじゃない、足りなくなんか、ない。
「違うんだよクロ。十分過ぎる。多すぎるんだ」
「僕は、重いですか?」
震えた手が、名残惜しげに離れていく。顔が伏せられる。違う、そんな顔をさせたいわけでも、俺から目を逸らしてほしいわけでもない。
「……お前の気持ちに応えてやるには、まだ、俺のほうが足りてねぇんだよ」
クロの顎に手をやって、落ちてしまった視線を俺に向けさせた。驚いたように、クロの目が見開かれる。
「お前のことは、一番大事だよ。それは間違いねーけど、でも俺の好きが、お前の好きと同じかって言われたら、正直、まだわかんねえ」
「……それでも構いません」
「俺が構うんだよ。お前が俺にどんだけ気持ちをくれてっかわかったから、絆された、ぐらいで応えたくない。生半可な気持ちで、じゃ、付き合うかなんて言えねぇよ」
これが、今の俺が返せる精一杯だ。これだけの想いに応えられるほど、まだ、俺が追いつけてない。待ってほしい、あと、少し。
「…………そういうところも、好きですよ、先生」
ほとんど動かない表情の分、目に困ったような、今にも泣き出しそうな、笑っているような、そんな感情が走る。きっと、俺にしかわからないぐらい、微かに、確かに。
「今はそれで十分です。急ぎませんから、ゆっくり、追いついてきてください。待ってますから」
手をもう一度、握ってくる。それ以上のことはしてこなかった。
「来年は、108本咲かせます。きっと受け取ってくれると信じます」
帰りのバスの中で、調子を取り戻したクロがぼそりと口にした。
「そういえばお前、毎回本数違う花束持ってきてたよな。あれ、その時一番いい感じの花持ってきてたの?」
「情緒がないですね。ググってください」
「自分から話振っといて梯子外すなよ……」
クロは俺のぼやきには答えず、自分のスマホでささっと何かを検索すると、俺の目の前にその画面を無言で突き出した。
向日葵の花言葉が、そこには書かれていた。