取り返してきなよ! 最初は小さな違和感だった。優しいと思っていた村上の言葉の端に、小さな引っ掛かりを感じた。ただそれは簡単に流してしまえる程度のもので、市河もすぐに忘れてしまった。
市河は籠いっぱいのカブトムシを眺める。それは洗って干したもので、冬に食べるために乾燥させたものだ。
「本当に市河殿はカブトムシがお好きですね」
村上の嗅ぎ当てた場所で市河は山ほどのカブトムシを獲った。一度に獲れる量としてはこれまで貞宗と獲った量とは比べ物にならなかった。
「これほど獲れたのだから、貞宗殿にも差し上げなくては」
貞宗殿もこれほどのカブトムシを見ればきっと機嫌を直してくれる。市河は籠の中から特に大きいものを選りすぐった。
すると村上が小さなため息をついた。僅かに空気が張り詰める。市河が見ると、村上は優しげな顔をしていた。
「また貞宗殿ですか」
言われて市河は俯いた。村上は市河が貞宗の話をするたびに咎めるように市河を見る。その視線が市河は苦手だった。
「しかし、カブトムシは貞宗殿も好きだから」
「拙者と獲ったカブトムシを小笠原殿に差し上げるのですか?」
見れば村上が悲しそうな顔をしていた。市河は慌てて言い繕う。
「しかし、村上殿はカブトムシは食べないだろう」
「拙者は市河殿が喜んで食べる姿を見たくて獲ったのです。それなのに市河殿は小笠原殿のことばかり……少し寂しいですな」
「すまない。そんなつもりでは」
市河は罪悪感を覚えてカブトムシを見る。悪気はなかったのに、なぜ村上はそんなことを言うのだろうか。もし貞宗であればそんなことは言わなかった。カブトムシだってきっと快く分けてくれただろう。
最近、村上といると居心地の悪さを感じる。その明確な理由がわからないまま、市河は心を少しずつ曇らせていた。
「さあ市河殿。もうカブトムシは良いでしょう。これからの北信濃について語り合いませんか」
「え、ああ。そうだな」
市河は曇った心を誤魔化すように無理に笑みを浮かべた。その市河の耳に音が飛び込んでくる。市河は思わず耳に手を当てた。
「市河殿?」
「シッ!」
人差し指を口に当てて村上を黙らせる。市河はさらに目を閉じて音に集中した。馬の蹄の音だ。しかしただの馬の足音ではない。この馬は貞宗の愛馬だ。しかしなぜ貞宗が北信濃にいるのか。
市河は目を開けて音のしたほうを見る。遠くに小さな影が見えた。弓を持っている。あの勢いとあの姿勢は貞宗だ。
「どうされた市河殿。いったい何が」
村上が鼻を蠢かせた。そして匂いを嗅ぎ当てたのか険しい顔になる。
「ここは逃げましょう市河殿。きっと小笠原殿はお怒りだ」
村上は市河の肩に手を置くと、貞宗から遠ざけようと体を押した。
すると空気を切り裂く音がした。その瞬間、村上の烏帽子が吹き飛んだ。地面に落ちた烏帽子には矢が刺さっている。それは間違いなく貞宗の矢だった。
「全く……野蛮な男だ」
村上は同意を求めるように市河を見た。しかし市河はもう村上を見ていなかった。貞宗はあっという間に馬を走らせて市河の前まで来ると馬を止めた。嘶きがあたりに響く。
「市河殿から手を離せい」
貞宗の言葉に村上は市河の肩に置く手に力を込めた。
「なんですか今更。市河殿は我ら北信濃の人間」
すると貞宗は矢をつがえて村上に向けて引き絞った。
「聞こえなかったか。市河殿からその薄汚い手をどけろと言っておるのだ」
それでも村上は市河から手を離さなかった。むしろ少しずつ市河に隠れるように移動する。村上は市河を盾にしていた。
しかし市河は村上に構わずに貞宗を見ていた。その顔がやつれているように見える。姿は戦装束のままで、まるで戦場から直接やってきたようだった。
市河は村上の手を振り切って貞宗のほうへ進んだ。
「市河殿?」
村上の声に不満が滲む。しかしそれも気にならなくなっていた。
「遅いですよ貞宗殿。北条残党相手にいつまで手間取ってるんですか」
言葉が自然と出ていた。貞宗は弓を引いたまま答える。
「ふん、風邪を引かなかったらあと二ヶ月は早う終わらせておったわ」
「え、風邪って?」
「そんなことはどうでもよい」
すると貞宗は矢を放った。矢は鋭く飛んで、村上のそばにあった木を撃ち抜いた。
「市河殿」
貞宗は弓を下ろすと市河を見つめた。
「すまなかった。そちの領地のことも考えずに引き止めた。そちが呆れて帰っても当然よの。儂が悪かった」
「俺のほうこそ、あんな言い方で途中で抜けてしまって」
あの頃、市河は貞宗に不満を持っていた。貞宗は目の前にいる北条に夢中で、少しも市河のことを見てくれなかった。そんな中で北信濃の村上から手紙が届いて、最初は北信濃の状況を知らせてくれていたが、その文にはいつしか市河が欲しがっている言葉が記されるようになった。心が徐々に村上に奪われていくのを、市河自身が止められなかった。
「俺のほうこそ、貞宗殿に謝らなきゃ」
貞宗はどうしようもなく不器用なときがある。だがいつも一途だった。貞宗の言葉はいつも真っ直ぐで、市河を欺こうとしたことがない。少し言葉が足りないくらいで、その心を疑うべきではなかった。
「貞宗殿、すみませんでした」
市河ははっきりと理解した。市河が一緒にいたいのは貞宗だ。他の誰でもない。
すると貞宗が市河に手を差し出した。
「帰るぞ、市河殿」
市河は貞宗の手を取った。勢いよく引き上げられて馬に飛び乗る。貞宗が馬に腹を蹴った。馬は勢いよく走り出す。
市河はもう村上を見なかった。楽しかった時間が全て嘘だとは思いたくない。けれど、誰と共にあるかは自分で選びたかった。
市河は貞宗の腰に腕を回してその背に頬をつけた。温かい背だ。懐かしい匂いがする。
「あ」
市河は間の抜けた声をあげた。
「ん?どうした」
「俺、貞宗殿に欺かれたことあったなーって思い出して。仮病で戦を押し付けられたんだった」
すると貞宗の体が焦ったように強張った。
「そ!その件は謝ったであろう!」
「あー、やっぱり村上殿のほうが良かったかな」
「おい、馬鹿なことを言うでない!」
言うと貞宗は腰にある市河の手に手を重ねた。弦を引くための、無骨な手が市河の手を握りしめる。
「もう儂のそばを離れるでない」
市河は目頭が熱くなって貞宗の背に顔を押し付けた。返事はくぐもってしまう。市河は貞宗の手を握り返した。