鬼ごっこ 市河は今夜も小笠原館に泊まっていた。それ自体は別段珍しくもない。貞宗は秋の夕暮れを早く感じたためか、暮れてもいない空を見上げて今夜も泊まっていかれよと市河に言った。
市河と貞宗は幼少の頃からの付き合いであった。お互いの館へ泊まることも度々あったが、あの頃と違うのは別々の部屋で眠ることだった。この館の主人である貞宗はもちろん主屋で寝るが、市河には客用に用意された部屋がある。いつから部屋が分けられたのかはっきりと覚えていなかったが、貞宗が元服した頃だったように思う。それに不満を覚えた市河が昔のように一緒に寝たいと言っても、貞宗はいつまで稚児のつもりだと言って聞き入れてはくれなかった。
稚気だと恥じるが市河にとって貞宗はいつまでも豊松丸兄様であった。しかし貞宗は市河が元服した途端に「市河殿」と呼んで少し距離を取った。市河はそれを寂しく思ったが、貞宗の考えていることも理解していた。お互いに小笠原家と市河家の惣領となる立場である。市河は自分の役目を忘れたつもりはなかった。
その日の夜の、見張り以外は寝静まった丑三時の頃。眠り込んでいた市河の耳が音を拾った。考えるより先に体が動き、身を起こして刀を持った。音を探る。木戸にぶつかる音と、慌てたような足音。刀を抜く音。それらが聞こえるのが貞宗の寝所からだと気付いて市河は駆け出した。
走る間も耳が音を拾う。貞宗の怒気のこもった声、刀が肉を切る音、呻き声。只事ではなかった。
市河は履き物も履かずに外廊下から飛び降りて主屋へと向かった。音を聞きつけた郎党たちが松明を持って集まりはじめていた。
「退け! 貞宗殿はどこだ!」
貞宗の寝所の前の庭先に人垣ができていた。市河はそれを押し退ける。すると抜き身の刀を手にした貞宗と、その数歩先で血まみれで倒れている男がいた。
誰も貞宗と斬られた男に近寄ろうとしなかった。郎党たちが持っている松明の明かりに照らされて、貞宗のぎょろりと剥き出た目玉が炯々と光っている。貞宗は血飛沫を浴びており、手にした刀からは血が滴り落ちていた。
誰も動けなかった。それほどの異様な覇気を貞宗は纏っていた。貞宗の刀が微かに音を立てただけで、空気は凍りついたように静まり返る。血の匂いが混じった夜風が冷たく感じられた。誰一人として息をすることすらためらっているようだった。
倒れた男は袈裟懸けに斬られていたが、まだ死んではおらず手が動いていた。貞宗の目がぎょろりと動いて市河を見る。周りにいた郎党が息を飲んで体を強張らせたのがわかった。彼らとて戦場を知らないわけではない。だが、貞宗の前では稚児同然だった。冷徹で容赦のないその視線の前では誰もが凍りつく。それは人ではない存在だった。
市河の目には幼き日の豊松丸の笑顔が浮かんだ。しかし、その笑顔は一瞬で消える。目の前にいるのは豊松丸とはかけ離れた存在だ。市河の胸に切なさがこみ上げてくるが、それを押し殺した。
市河は自分の役目を心得ていた。皆が気圧されるなかで市河は人垣から抜け出し、斬られた男の側まで行く。そして刀の先を男の喉元に突き付けて貞宗を見た。貞宗が小さく頷く。
市河は刀先を男の喉元に押し込んだ。鋼が肉を裂く感覚が手に伝わり、男の最後の息が喉から漏れ出る。それは短く脆かった。市河は男が絶命するのを見届けてから刀を抜いた。
貞宗は郎党を見渡して声を張り上げる。
「賊は儂が斬り捨てた。斬首して首を晒せい!」
そこでようやく郎党たちは我に返り声を上げた。我が殿が賊を自ら斬り捨てたと郎党たちは口々に言う。そして我先にと死んだ男に群がり、首を落とした。
夜の冷たい風が屋敷を吹き抜け、松明の光が揺れた。静かな庭には血の匂いが漂う。郎党たちは賊の体を運び出し、月明かりが貞宗の横顔を冷たく照らしていた。
「殿、お怪我は」
赤沢常興が貞宗の側へと寄る。貞宗は顔についた血を手の甲で拭った。
「大事ない。返り血だ」
貞宗は持っていた刀を常興に渡すと、振り返って市河を見た。市河はすぐさま貞宗に駆け寄って貞宗の背を守る。貞宗は声を落として常興にだけ聞こえるように言った。
「賊は一人とは限らん。警戒を怠るな。儂の寝所には市河殿に居て頂く。外は常興と新三郎で固めよ」
常興は短く返事をすると周りにいた郎党たちに指示を出した。市河は貞宗に寄り添って寝所まで戻る。寝所の戸を閉めた途端に、貞宗は息をついてその場に腰を下ろした。
「貞宗殿」
貞宗はこんなときでも正座していた。呼吸が先ほどより荒い。市河は手燭に火を灯すと、貞宗の側に置いた。
「貞宗殿、早く見せて」
貞宗は息をつくと片肌を脱いだ。脇腹に斬り傷があり、そこから血が流れ出ていた。
「弓ばかり稽古していたせいだな」
自嘲するように貞宗が言う。
「お父上の言葉通りですね」
市河が軽く笑みを浮かべると、貞宗は息を切らしながら笑みを作ってみせた。
「賊ごときに斬られるなど、あまりに情けない話よ。誰にも言ってはならぬぞ」
無造作に言って笑う貞宗の体を支えながら、市河の心の中では恐れが渦巻いでいた。血の匂いが胸を満たし、手が震えそうになるのを堪える。貞宗の脇腹に触れると、その熱が手の平に伝わった。それは間違いなく血の通った人間の体だ。市河は丁寧に傷口に布を当てる。市河は出来るだけ痛まぬようにと手当てをしたが、貞宗の表情は張り詰めていた。呻き声すら上げないのは小笠原家の惣領としての矜持なのだろう。
「横になってください」
貞宗の体を支え、傷にさわらぬよう体勢を整える。市河は刀をすぐ手の届く場所に置いた。
「休んでいてください。寝ずにお守りいたします」
「ふ……頼もしくなったな」
「いつまでも稚児ではありませんので」
すると貞宗は目を丸くさせて市河を見た。
「なんだ六郎、まだ儂と一緒に寝たいと申したのは本気であったのか?」
揶揄いを含んだ笑みに市河の頭に血が上る。先ほどまでの万人を凍り付かせる覇気など消え失せて、気の良い豊松丸の顔になっていた。市河の心が揺れる。昔の豊松丸はまだここにいるのではないかと思ったからだ。だが、今の貞宗は豊松丸とは遠い存在だ。貞宗は手の届かない遠いところにいる。
「どうした六郎?」
「なぜ六郎などと呼ぶのです」
「今夜は一緒に眠れるぞ」
「俺は寝ないであなたを守るんです」
市河は貞宗を見守りながら、心の中で芽生えた感情を押し殺した。幼き頃、一緒に寝ていた兄様はもういない。ここにいるのは人間からかけ離れた存在だ。鬼だ。鬼が時々兄様の顔をしているだけだ。
微かに息をついた市河は、静かに貞宗の傍に座り、夜が更けていくのを待った。やがて白々と空が明けてくる。
鬼はなぜ鬼になるのだろうかと市河は思った。なろうとして成るのか。それとも、否応なしに成るのか。どちらにせよ、もう人間には戻れないのだろう。
市河は朝焼けに耳を澄ませた。この世の全ての音が聞こえたならば、自分も鬼になれるだろうかと思う。鬼になることが恐ろしい。しかし、貞宗が鬼になったのならば、俺も鬼になろう。そうすればいつまでも一緒にいられる。貞宗と一緒にいるためならば、恐怖すら飲み込んだ。
「……どぉこだ」
耳を澄ませば、どこかに豊松丸兄様の足音が聞こえるだろうか。