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    なりひさ

    @Narihisa99

    二次創作の小説倉庫

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    なりひさ

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    転生現パロガンマト

    #ガンマト
    cyprinid

    1990、晩夏、再会 静寂を突き破る音がした。それに起こされたものの、正体はわからなかった。
     窓から差し込む日の明るさからまだ朝だとわかる。昨夜の残り香を感じて窓を開ければ、違う季節の風が吹いていた。外の世界は自堕落な人間を置き去りにして秋になっていたらしい。小さな庭には夏草がぼうぼうと生えているのに、その隙間には秋の虫が身を隠している。蝉もどこかで腹を見せて死んでいるに違いない。
     部屋の中にはまだ先月のカレンダーが捲られもせずにかかっていた。ちょっと手を伸ばして破ればいいのだが、それを億劫に思う気持ちが大きくて、まあ二三日は構わないだろうという気がする。夏になったら書こうと思っていた友人への手紙も、ついぞ手をつけぬまま机の上に放り出してあった。
     朝は涼しくても昼には暑くなるのだろうと思うと、やはり外に出る気にはなれない。どうしても必要なものなら、向こうから取り立てに来る。ということは、やはり今日もこの部屋から出ないまま終わるだろう。
     窓を閉めて万年床に寝転がれば、また静寂が戻ってくる。どこからか風鈴の音が聞こえた気がしたが、夢と現を行き来しているとそれも聞こえなくなった。
     だが少しもしないうちにまた目が覚めた。この古い家に取り付けられた呼び鈴が歪んだ音を立てている。二度や三度の呼び鈴なら無視してしまうのだが、尋ねてきた人物はよほど暇なのか呼び鈴を押し続けていた。空気がむっとするほど熱い。あまり時間は経っていないと思ったが、時計を見ればちょうど天辺を指していた。
     呼び鈴は鳴り続いている。仕方なしに立ち上がって玄関へと向かった。どうせ編集の催促だろうと思うが、締め切りは随分と先のはずだった。
     玄関へ行くと硝子の引き戸に大きな影が写っていた。その影の大きさから腐れ縁の編集者でないとわかる。硝子戸の鍵はかかっていなかったが、その人物は律儀に戸の前に立って待っていた。硝子越しに見える外の様子から、残暑の厳しい陽射しを感じる。
     サンダルをつっかけて硝子戸を開ける。何か予感めいたものは何も感じていなかった。もし感じていたなら、もう少し丁寧に戸を開けたかもしれない。だが押し売りか近所の者だろうと思って開けたものだから、あからさまに不機嫌な顔をして出迎えた。
    「こういう者ですが」
     顔も見ない間に手帳を見せられて思わず身を引いた。それが警察の身分証であることに一瞬ひやりとする。だが何も疑われる事などないのだと思い直して、そこへ貼り付けられた顔写真を見た。
    「ん?」
     それがどうにも見覚えがある人物に思えて、手帳ではなくそれを差し向けている本人を見る。体格のいい姿は逆光でよく見えなかった。しかしそれでも見間違えるはずがなかった。
     ガンガディア、と口に出そうとして唇を噛んだ。前世で好敵手であったデストロールは警察の制服姿でそこに立っていた。
    「この近くで事件が起きまして」
     ガンガディアの顔には大粒の汗が滲んでいた。デストロールではない人間の姿だが、その面影は残っている。刺青はなくピアスもしていないため、以前よりさらに生真面目に見えた。今が一番暑い時間帯だろうに聞き込みでもしているのだろう。
    「この辺りで事件とは物騒だな」
     閑静な住宅地、といえば聞こえはいいが、地価も低いのに売れ残るような寂れた住宅街だった。この家を買ったのだって安くて周りが静かだからで、大きな事件など聞いたこともなかった。
    「ええ、ですのでお話を伺いたいので署までご同行願います」
    「署まで? オレは容疑者かよ」
     冗談のつもりで言ったが、ガンガディアはお愛想で笑うことさえしなかった。話が早いとばかりに外へと手を向ける。見ればそこにはパトカーが停まっていた。
    「お願いします」
     早くしろとばかりにガンガディアは言う。その頬を汗が流れ落ちていった。今さらながらに喉が渇いていると気づく。
    「嫌だね」
     警察は嫌いなんだよ、と呟けば、ガンガディアは不快そうに眉間に皺を寄せた。こちらに対する敵意のようなものがじわりと滲み出す。昔のような尊敬の眼差しは微塵もなかった。
     ああ、こいつは覚えていない。前世であったことを、あの戦いを、あの言葉を、オレを、全部忘れてしまったのだ。
    「もういいだろ」
     硝子戸を閉めようとしたが、ガンガディアの手がそれを止めた。強い意志の籠った眼差しがこちらを見つめている。
    「今朝、どこで何を?」
     喰らいつくような眼に射抜かれる。それが執拗に追いかけてきたあの頃のようで、懐かしさと同時に、渇きのような執着が生まれた。
     一九九十年、晩夏の再会だった。

     ***

     秋という季節が一年で最も過ごしやすかったのは、もう二十年も前のことだ。連日の予報で最高気温が信じられない数字を示している。
     昼からの打ち合わせを夕方に変更したいと思いながらパソコンを開いた。昨夜の書きかけのまま止まった文章が目に入る。続きを催促するようにカーソルが点滅していた。
     充分に睡眠をとったほうが創造的な活動ができるのだと寝室に押し込まれなければ、もう少し書けていたのだ。思いついていたはずの言葉は既に見失っている。思い出そうと指で頭を突くが、そんな程度では出てきてはくれなかった。
    「コーヒーでいいかね」
     キッチンからの声に上の空で返事する。少し遅れて今日は砂糖を入れてくれ、と付け足した。コーヒー豆を挽く音が聞こえてくる。またガンガディアのこだわりが始まったらしい。凝り性のガンガディアは一度熱中するとのめり込む性質だ。今はコーヒーに凝っており、また新しいコーヒー豆を買ってきたのだろう。
     しばらくすると部屋にコーヒーが運ばれてきた。この部屋に来る前から香ばしい匂いがしていて、口がすっかりコーヒーを飲む気でいる。
     ガンガディアは机の空いた場所にマグカップと皿を置いた。皿にはサンドイッチが乗っている。
    「今日は昼から出かけるのかね」
    「ああ、その予定」
     コーヒーを片手に、キーボードを連打する。昨夜に書いた部分をごっそりと消去してしまえば気分も晴れた。サンドイッチに手を伸ばしてかぶりつく。
    「では私はもう行くから」
    「おう、気ぃつけてな」
    「まだ暑いからきちんと水分を取って」
    「わかったわかった」
     世話焼きな恋人の背を押す。昇進して仕事が忙しいくせにオレの世話までする。腐れ縁の元魔王が言うには、オレが自立しないからガンガディアが甲斐甲斐しく世話を焼くのだという。ガンガディアがいなくても一人で生活していた頃だってあるのだと言い返したが、その結果がアレなのだろうと言い返された。糞元魔王はあの夏のことを掘り返すのが好きらしく、それでオレを攻撃した気でいる。それをガンガディアがいない場所で言うのだから少しは知恵がついたらしい。
    「マトリフ」
    「今度はなんだよ」
     顔を上げればタイミングを合わせたように唇を塞がれた。不意打ちのキスに思わず身を硬くすれば、ガンガディアの舌がオレの唇を舐めてから離れていった。
    「水のペットボトルが冷蔵庫にあるから、出かける時は必ず持っていって」
     念押しのように言われて口を曲げる。いきなりキスしておいてガンガディアは涼しい顔をしていた。
    「わかったってぇの。遅れるぞ」
     言ってからサンドイッチの最後の一口を押し込む。頬が熱い気がして、ガンガディアから顔を背けた。
     行ってくる、という声の後でドアが閉まる音がした。気密性の高いマンションだからか、ドアが閉まると空気が圧縮されるように思える。立ち上がって窓を開けた。朝の街はとっくに動き出している。ガンガディア曰く治安のいいこの街は、スーツを着た勤め人の列を駅に吸い込んでいく。
     途端にスマートフォンが着信を告げた。見れば腐れ縁の編集長様だった。まだ始業前だろうに、編集者には時間の感覚がないのだろう。
     編集長は今日の打ち合わせに迎えに行くと言って一方的に通話を終えた。
    「さっさと引退しろって」
     通話の切れたスマートフォンに向かって言っても聞こえないだろう。どいつもこいつもあの夏をいつまでも忘れないらしい。
     部屋にようやく静寂が戻ってくる。音が静まるときの感覚に呼吸が深くなる気がした。

     ***

    「寝てたんだよ」
     自堕落の告白は事実であっても心苦しいが、幸いなことにそんな繊細さは持ち合わせていなかった。ガンガディアの額に青筋が浮かぶのが見える。
    「ですから、起きてからは何をされていたのです」
    「二度寝してあんたに起こされるまでずっと寝てたんだよ」
     ガンガディアは訝しんで自分の腕時計を見た。この生真面目なお巡りは正午まで寝ていることが理解できないらしい。ガンガディアは余計に疑いを濃くした眼差しを向けてきた。
    「それを証明できる人はいますか」
    「あいにく一人暮らしなんでな。いねえよ」
     陽射しが眩しくて手を翳す。空を見上げると眩暈がした。太陽はよほど人間が憎いに違いない。それとも服でも脱がせたいのだろうか。昨夜から着たままの開襟シャツの首元に指をかけた。暑いせいか息が苦しい。
    「……という方をご存知ですか」
     ガンガディアの声が遠くに聞こえる。自分の感覚がぼやけている気がした。気分が悪くて戸に手をつく。
    「聞いていますか」
    「うるせぇ……」
     ちょっと休ませろと言おうとしたが先に足の力が抜けた。戸にしがみつこうとしたら古い硝子戸が大きな音を立てる。
    「ちょっと……大丈夫ですか」
     これで大丈夫なら医者は要らない。肩を掴まれたが、その感触からガンガディアの戸惑いが伝わってくる。ガンガディアからすれば真面目に聞き込みをしていたのに、突然に倒れられて迷惑だろう。
    「何か持病でも?」
     ガンガディアはうずくまったオレをどうしていいかわからないらしい。どうにか這って三和土まで戻った。そこでようやく今日は何も飲んでいないのだと気づく。熱中症だと思いながら、立ち上がることさえできなかった。
     水を、と言いたかったが口を開けば吐いてしまいそうだった。呻き声だけが漏れる。視界が暗くなっていく気がした。
    「おい、どうした」
     ガンガディアではない声が響く。聞き覚えのあるその声に、不快さが増した。体を横向きにされて眩しさに目をすがめる。
    「おい老ぼれ、死ぬならオレの管轄外にしろ」
     元魔王がいた。なぜこんな所にと思ったが、事件があったのだからこいつも来たのだろう。元魔王が警察官とは笑わせる。そこでふとあの約束のことを思い出した。
    「……ちょっと待て、こりゃあ協定違反だろうが」
    「そんなことを言っている場合か」
     荒い足音が家の中へと入っていく。それが戻ってきたら体に冷たい物が当てられた。足音は庭へと向かい、戻ってきたかと思えば体に水をかけられた。この冷たい水は古井戸から汲んできたのだろう。
     こいつにだけはこんな醜態を見られたくなかった。だがおかげで体は楽になっていく。これで助かったとしても今後一生笑われるのかと思うと憂鬱だった。
    「これを飲んで」
     体を起こされてコップを渡される。体を支えているのがガンガディアだと気付いて、その腕の逞しさに安堵を覚えた。前世でこんなことをされたことがないのに、懐かしさすら感じる。
    「お前はここで何をしているんだ」
     それはハドラーがガンガディアに言ったようだった。ガンガディアはこちらに多少の遠慮を見せながら、メモ帳をハドラーに見せている。ハドラーは口を歪めた。しかしそれは笑みのようだった。
    「おい、お前が殺したのか?」
     
     ***

     昼近くになるとやはり汗が滲むほどの暑さになっていた。嫌々ながらに部屋を出てエレベーターで降りていくと、ちょうど出版社のセダンがマンションの駐車場へと入ってくるのが見えた。向こうも気づいたらしく車が止まる。
    「お迎えにあがったぜ、師匠」
     窓を開けてそう言ったポップに、ご苦労さんと手を上げる。思わずその顔をじっと見ていると、ポップは「またかよ」と苦笑した。
    「いい加減に慣れてくれよ」
    「無理だろ」
     言って助手席に乗り込む。ポップの不満そうな間伸びした声が車内に響いた。
    「オレだって同い歳なんて違和感あるけどさ、慣れようとしてるんだぜ」
     慣れるわけねえだろ、と内心で思いながら髭面のポップを見る。数年前に再会したときも、本当にポップなのかと信じられなかったくらいだった。自分の中でポップはいつまでも少年のイメージのままなのに、五十を過ぎた姿で目の前にいる。会うたびにしげしげと眺めてしまい、ポップはうんざりしているようだ。
     だがそのおかげでわかったことがある。前世の魂を引き継いで生まれてくる者が、以前と同じ順番で生を受けるわけではないということだ。これまで周りにいた転生者はハドラーとガンガディア、そして師匠であるバルゴートだが、バルゴートとは以前ほどではないにしろ歳の差があり、ハドラーもオレより歳上だった。それがどうにも気に入らないが、前世での年齢のせいかと思っていた。だがポップが同い歳ときて、これは前世での年齢は現世へ反映されるわけではないと気付いた。
    「おめえの髭、似合わねえな」
     運転席のポップを眺めて呟く。するとポップは口を尖らせた。
    「まだ伸ばしてる途中だっての」
     年齢のわりに威厳が足りないと悩んでいるポップは誰の影響か髭を伸ばし始めた。そういえばまぞっほもこんなふうに髭を伸ばしていたなと思い出す。
    「編集長はもう店で待ってるから」
     言いながらポップがハンドルを回す。駐車場から出たセダンはゆっくりと公道へと進んだ。ちょうど昼前だからか道も空いている。
    「担当から外れたんだから出しゃばってくんなって言ってくれよ」
     オレを執筆業へとと引き摺り込んだのはバルゴート師匠で、ずっと担当の編集者でもあった。だが編集長へと昇進したのを機にポップをオレの担当にすると決めたはずだ。そのわりには打ち合わせのたびに参加してくる。
    「編集長は師匠のことを心配してるんだって。だからこうして迎えにだって来てるんじゃん」
    「余計な世話なんだよ」
    「今だって飲み物も持たずに出てきただろ?」
     ポップに言われて水を持って出なかったことに気づいた。ガンガディアが家を出る前に持って行けと言っていたものだ。
    「これから店でなんか飲むんだろ。こんな短時間で熱中症になんてなるかよ」
     二十年前にたった一回だけなった熱中症を、師匠はいまだに忘れてくれない。それは師匠だけではなくガンガディアも同じで、特にガンガディアはその場に居合わせたものだから過剰な心配をしてくる。
    「あと頼まれてたやつ、そこにあるから」
     ポップが指差したダッシュボードの上には茶封筒があった。それを手に取って中から書類の束を抜く。
    「やっぱりハズレっぽいんだわ」
     ポップがすまなさそうに言う。書類にさっと目を通したが、やはり別人のようであった。駄目もとで調べてもらったものだが、気持ちが萎むのを感じる。
    「そうか。手間をかけたな」
    「もし見つかってもやっぱりハドラーには言わねえの?」
    「当たり前だ。先に協定を破ったのはあいつなんだからな」
     書類を封筒に戻してダッシュボードに置いた。ちょうど信号機が赤に変わって車も止まる。ポップはいいタイミングを見つけたとばかりに口を開いた。
    「で、ガンガディアのおっさんとは仲良くやってんのかよ」
    「ガキがいらねえ心配すんな」
    「もうガキじゃねえんだってば。こんなのただの世間話だろ」
    「別に何もねえよ。あいつだって最近は忙しくて夜も遅くにしか帰ってこねえし」
    「その言い方はさ、寂しいんだろ」
    「だから余計な世話なんだよ」
     信号が青に変わった。ポップの肘を突いて発進しろと促す。図星だったから面白くなく、ラジオのボリュームを最大値まで上げた。

     ***

     殺してきた人数なら数えてこなかった。魔族も含めれば相当な数になる。だがその中で顔も名前も一致しているのは数えるほどだった。
     殺さなければならない相手を、殺したくないと思ったのは後にも先にもガンガディアだけだった。それほどの感情を持つ相手は生者にも少ない。
     だがそれは前世の話だろうと痛む頭で考える。確かにオレはガンガディアを殺したが、そのガンガディアは今は人間として生を受けてここにいる。罪を帳消しにしたいわけではないが、今は別の殺しの話だ。
    「……誰を殺したって?」
     ハドラーを睨めつければ、オレが引っ掛からなかったことを残念がるように薄い笑みを浮かべた。
     ハドラーはこの近くで殺人があったと説明した。被害者は近所に住む男で顔見知りだ。何度か話したこともあるが、その全てが最終的には言い争いのように終わった。
     だからか、とガンガディアを見る。この真面目なお巡りであるガンガディアは周辺の聞き込みをして、オレの存在を知ったのだろう。殺された人物と揉めていた人物は重要参考人というわけだ。
    「そいつを殺したのはオレじゃねぇが、まあ気持ちはわからなくもない」
     死んだと聞いても悲しさを微塵も感じない相手だった。あの男はオレに何かと難癖をつけてきた。余所者が嫌いなのだろう。オレは愛想を振り撒くタイプではないが、敵意を剥き出しにしてこなければ相手にはしない。突っかかってきたのは向こうのほうだ。
    「話なら署でゆっくり聞いてやるぞ」
     ハドラーは完全に面白がっていた。こいつも流石にオレが犯人ではないことくらいわかっているはずだ。
     するとガンガディアが急に怒ったように言った。
    「急病人を連行なんて出来ません」
     ガンガディアはハドラーが本気でオレを連れて行こうとしていると思ったらしい。生真面目を通り越してないかと心配になる。ハドラーは手を振って本気ではないと示した。
    「わかっている。おい、誰か呼ぶのか?」
     ハドラーに小突かれる。呼べる相手は一人しかいない。だが呼べば厄介だった。少し迷ったものの、背に腹は変えられない。電話番号を伝えれば、ハドラーが家の中に入って黒電話のダイヤルを回した。
     気分は良くなってきたものの、ずぶ濡れで肌に張り付いた服が不快だった。ふとガンガディアを見る。濡れたオレを支えているガンガディアが濡れていないかと思ったからだ。
     ガンガディアは薄青色の夏制服を着ていたが、それが濡れて濃い色になっていた。今更だと思いながらガンガディアから離れようとする。
    「もうしばらく安静にしておいたほうが」
     ガンガディアの手に肩を抑えられる。密着した体から汗の匂いがした。それが嫌ではないことに戸惑いを感じる。
    「もういい。あんたは帰ってくれ」
     この命を燃やしたことを忘れてはいけない。もしガンガディアに記憶があれば、オレを恨んでいるはずだ。覚えていないことをいいことに、近付いていい相手ではない。
    「いえ、お連れの方が来るまでここにいます」
    「余計な世話なんだよ。あんたが来なければこんな事にはならなかったんだ」
     ガンガディアはわかりやすく傷ついた顔をした。しかしオレを支える手は離さない。それが使命感にしろ何にしろ、突き放されないことに許されたような気になる。
     程なくしてバルゴート師匠がやってきた。それを見届けてハドラーとガンガディアは帰っていく。ガンガディアの背を惜しむように見ていたら、陽炎のようなゆらめきが見えた。

     ***

     一人の時間は嫌いじゃない。一人のほうが何をしていても煩く言われることはなく、どんなに自堕落だろうが、荒廃的だろうが、とにかく自由だ。
     気に入っているソファに座りながらグラスを傾ける。本当は缶ビールが飲みたかったのだが、あったのはガンガディアが買ったワインだけだった。これは高いのだろうかと思いながら栓を開けた。ガンガディアが早く帰ってきたら一緒に飲めばいいと思ったからだ。
     だがガンガディアはまだ帰ってこない。ワインの瓶を傾ければ随分と軽くなっていた。残りを全てグラスに注ぐ。澱がグラスの中で舞っていた。テレビではドラマが放送されていて、知らない俳優が泣いている。
    「一緒にいる時間が少ねえのに、一緒に暮らす意味あんのかよ」
     ガンガディアは昇進して希望の部署へと異動になった。それは喜ばしいことだが、一緒に過ごす時間は格段に減った。警察官であるガンガディアが忙しいということは、人間がそれだけ罪を犯しているということだ。ならば恨むべきは人間ということになる。
    「魔族が勝ってりゃどうなってたんだろうな」
     大魔王との戦いで人間が勝ち、その後どうなったかは知らないが平和が続いたのだろう。今の世に魔族はおろか魔物すらいない。淘汰されたか或いは人間が根絶やしにしたのか、そのどちらにせよ、それが正義と呼べるのだろうか。魔族がいなくなってた今度は人間同士で争っている。
     最後のワインを口に含むと苦味が口に広がった。グラスをローテーブルに置いて寝転がる。コマーシャルがファストフード店の新商品を宣伝していた。そういえば暫く行っていない。ガンガディアは忙しいだろうにまめに料理を作る。健康重視と一目でわかるそれらに間違いなく健康を支えられていた。
    「……オレがいなきゃガンガディアは楽だろうな」
     何が嬉しくてあいつはオレと一緒にいるのだろうかと、何百回も抱く疑問を本人にぶつける勇気はない。ガンガディアの幸せを思うなら離れた方がいいことは二十年前からわかっていた。だがそれを出来ないまま今に至る。
     瞼が重い。寝る時はベッドで、というガンガディアの声が聞こえてきそうだった。だが既に体は動く気を無くしている。
     どれほど経ったか、あたたかいものに包まれた。すぐにそれがガンガディアだと気付く。目を開けたが眩しさに細めた。ガンガディアは笑みを浮かべてオレを見ている。
    「ベッドで寝よう」
     促されてその大きな体に抱きつく。帰ってくるのが遅い。もう日付けが変わろうとしていた。
     その存在がそばにあるだけで、なぜこんなにも満たされるのだろう。前世でも今世でもオレは一人で平気だったのに。
     ガンガディアに抱き上げられて逞しい胸筋に顔を擦り寄せる。硬い胸だ。女の胸が好きだったことを忘れそうになる。ガンガディアに出会ってからは女を抱いていなかった。そしてすっかり抱かれることに慣れてしまった。それなのに最近はセックスをしていない。いったい何ヶ月やっていないんだ。もっと早く帰ってきたらセックスだってできるんだ。それともオレが歳を取ったせいか。昔はあんなに求めてきたじゃないか。二十年も一緒にいてオレに飽きたのか。それとも仕事が忙しいのは嘘で、外に誰かいい奴がいるのか。ありえない。ガンガディアに限ってありえない。だったら早く帰ってきてオレを抱けよ。
     不満が口から出ていたのか、ガンガディアがこちらを見た。聞き取れなかったからかこちらに耳を寄せてくる。
    「……遅ぇんだよ。待ちくたびれた」
    「明日は早く帰れるように努力する」
     ガンガディアの真面目腐った言葉は聞き飽きた。帰れると言い切らないのは誠意のつもりなのかもしれないが、明日もオレはお前を待ちながら酒を一人で飲む。守られることのない約束のほうが浪漫があっていい。
     ベッドにそっと下ろされた。髪を撫でられて額へと口付けられる。オレは子どもじゃねえんだよ、とガンガディアの胸倉を掴んで引き寄せた。唇を合わせて舌を入れる。酔った勢いでもなんでもいい。愛してくれないか。
     薄暗い寝室でガンガディアはネクタイを外した。疲れていて理性がないガンガディアと寝るのは楽しい。こいつの本能がオレを求めているのだと感じるからだ。

     ***

     惹かれる、という感情を知識以外に抱いたことはない。心を踊らされるのはいつも長い年月をかけて研究された謎とその答えだった。だから本を読んでいるときが一番幸せで、他には何もいらなかった。
     だが、不思議と惹かれる人に出会った。
     その人はあまりにも私の常識から外れた人だった。悪い先入観を持って会ったせいか、あるいは暑さのせいか、その人を酷い人だと思った。近所の評判は良くない。何の仕事をしているかもわからず、ずっと家にこもっているという。被害者とは何度も口論になっていた。愛想は悪い。地域の集まりにも顔を出さない。いつも人を見下したような目で見てくる。悪口のような情報ばかりが集まっていた。
     だが、合ってみれば話に聞くほど悪い人のようには見えなかった。不機嫌そうな表情だが、そこに知恵者の思慮深さのようなものを感じたからだ。だが容疑者であることには違いなく、慎重に会話を進めるべきだと気を引き締めた。しかし警察は嫌いだと言われて自分でもよくわからないほどショックを受けた。警察官をよく思わない人物は珍しくなく、なじられたこともある。しかしこの人に言われた言葉は鋭利なナイフのように胸に刺さってしまった。
     結局、その人に話は聞けなかった。だが居合わせた課長は「残念だがあいつじゃない」と言い切っていた。
     書き終えた書類を手に課長を探す。重要参考人の情報を書いた書類はたった一枚の薄っぺらいものだった。殺人は強行犯係の管轄で、その課長はこの事件のために忙殺されている。
    「重要参考人の書類です」
     課長は顔を上げないまま「どいつだ?」と言った。私は覚えた名前を口にするが、課長は顔を上げて考えるように私を見た。
    「あの具合を悪くさせていた彼です」
    「ああ、あいつか」
    「知り合いなのでしょう?」
     二人の会話からあの人と課長は知り合いなのだと思っていた。だから課長はあの人が犯人ではないと言い切ったのだろう。それなのに名前を聞いても思い出せないのはおかしい。
    「知り合いじゃない。腐れ縁だ」
    「仲良し、という意味ですか?」
    「違う。あの老ぼれと仲良しなんて死んでも御免だ」
     あまりに嫌そうに言うのでそれ以上は聞かないことにした。だが変なあだ名だと思う。あの人は老ぼれと呼ぶような年齢ではない。私よりは歳上だが、課長よりは若い。
     課長はまだ嫌そうな顔をしながら書類に目を通している。
    「彼には動機があってアリバイはありません。課長の知り合いだからと容疑者から外すのは納得できません」
    「オレはあいつを庇っているんじゃない」
    「では協定ですか? そのようなことを言っていましたよね?」
    「協定はこの事件には全く関係のないことだ。オレがあいつは犯人じゃないと言うのは、もしあいつが殺すなら、あんな方法はしないからだ。それとここ」
     課長は書類を指差した。そこは「職業不詳」と書いた箇所だった。
    「あいつは小説家だ」
    「小説家?」
     私は愚鈍のようにおうむ返ししてしまった。課長はデスクの一番下の引き出しを開けると、中から数冊の本を取り出して置いた。
    「あいつが書いた本だ」
    「児童書……ですか」
     カラフルな表紙には少年が描かれている。他にはドラゴンのようなものもいる。ファンタジーものらしい。名前を探すと著者マトリフとあった。それは書類に書いた名前とは違う。これはペンネームなのだろう。
    「読むか?」
    「え?」
     あまりにも意外だったので返答が遅れた。課長は仕事の鬼のような人で、いくら参考人の著作とはいえ、児童書を勧めるような人だとは思わなかったからだ。
     課長はその児童書を全部持って私に押し付けた。しかし興味よりも戸惑いの方が大きい。
    「しかし……私は小説を読みません」
     すると課長は珍しく驚いたような顔をした。
    「お前、本が好きだろう?」
    「ええ、ですが読むのは学術書や専門書などで、小説はまったく」
    「読まないのか?」
    「はい。教科書や課題図書以外は読んできませんでした」
     私は受け取った本を返そうとしたが、それを課長は止めた。反対に押し返してくる。
    「いいから持っておけ」
    「なぜそこまで」
    「協定違反の罪滅ぼしだ」
    「ですから協定とは?」
     課長はそれには答えずに書類を指差した。私は職業不詳を消して訂正印を押し、小説家と書き直した。

     ***

     緋色の太陽が沈もうとしている。秋の涼しさを肌で感じながら家路についていた。横を歩くガンガディアは機嫌が良いのがわかるほどの足取りだった。
     二人揃った休日は久しぶりだ。ガンガディアと違ってオレには出勤なんてないものの、締め切りに追われる日々で休日という休日は殆ど無く、どうにかガンガディアの休みに合わせて日程を調整した。
     せっかくだからと一緒に出かけたはいいものの、買い込み過ぎた荷物が重い。出先で見つけた古書店で二人して大量に買い込んだせいだ。紙袋の持ち手が指に食い込んで痛い。運動不足の脚は悲鳴をあげていた。
    「持とうか?」
     ガンガディアの手が差し出される。ガンガディアの手にも紙袋はあった。ガンガディアも欲しかった本があったからと、何冊も買い込んでいた。それらは図鑑だったから随分と重いだろう。オレは限界が近かったので持っていた紙袋を差し出す。ガンガディアはオレの分の本を持っても顔色ひとつ変えなかった。
     ガンガディアは今も小説を読まない。買い求めるのは専門書や図鑑だ。知識を増やすことは好きだが、空想の世界に浸ることはない。オレが書いた本も一度は読んだが、よくわからないの一言だった。
    「すまない。もっと早くに気付くべきだった」
    「お前だって重いだろ」
    「鍛えているから大丈夫だ。なんならあなたを背負って歩ける」
    「よせよ、年寄りじゃあるまいし」
     若いと言える歳は過ぎたものの、介護が必要な歳でもない。前世でガンガディアと戦っていた頃よりも若いのだ。ガンガディアも出会った頃に比べれば歳を取ったが、前世での年齢に近いようにも思える。
    「帰ってから読むのが楽しみだよ」
     その弾んだ声に、やはり一緒に出かけて良かったと思う。ガンガディアが喜ぶ姿を見るのが好きだった。怒ったり苛立っているより、喜んでいるほうがよっぽどいい。
     ガンガディアは買った本がどれほど素晴らしいかを興奮気味に喋っている。夕陽はあたりを赤く染めていた。隣を歩くガンガディアも赤く染まっている。
     今でも燃えているガンガディアの姿を覚えている。それをやったのが自分だと理解しながらも、その結末を望んではいなかったと今でも思う。あのときガンガディアの表情は穏やかで、苦痛すら感じていなかったのかもしれない。それほどまで傷付けなければ戦いは終わらなかった。
     ふと、ガンガディアのお喋りが止んでいることに気づいた。見ればガンガディアはじっとこちらを見ている。
     どうしたんだと問う間もなく唇を塞がれた。外ではやめろと言っているのに、ガンガディアは気にしないらしい。
    「あなたをずっと大切にするから」
     至極真面目な顔で言われて胸を衝かれる。ガンガディアはもしかして何かを感じ取ってそんなことを言ったのかもしれない。
     前世でのことをガンガディアには言わなかった。だがオレとハドラーのやりとりや、オレが書いた小説を読んで何かがあるとは思っているらしい。だがあの小説を読んでもガンガディアが前世を思い出すということはなかった。
     あの小説は失敗だった。マトリフの名で前世での出来事を書いて本にすれば、前世で縁のあった者たちから連絡がくるかと思ったのだ。だがいまだに誰からも連絡はない。あの小説は売れなかった。今では絶版になり、たまに古書店で投げ売られている。きっと誰の目にも止まらなかったのだろう。
     今となってはハドラーとの協定もあってないようなものだ。オレが本で前世との繋がりを探そうとしたように、ハドラーも警察官になって前世での繋がりを探そうとしていた。それを知って協定を結んだのだ。
     もし、前世での繋がりを見つけたらお互いに教え合うこと。たったそれだけの約束だった。だがハドラーはそれを破った。ハドラーは警察学校で教官をしているときにガンガディアを見つけたというのに、それを黙っていた。
     もしそれが他の誰かならオレだってそこまで怒らなかった。だからオレはもしアバンを見つけても絶対にハドラーには教えてやらないと決めている。だがアバンの居場所はポップの協力を得て積極的に探しているものの、まだ見つかってはいない。
     ガンガディアは頬を赤らめてオレを見つめている。今になって照れているらしい。突然のキスもクサイ台詞も普段は平気で言うくせに。
    「……突然なに言ってんだよ」
     ガンガディアの言葉が嬉しい反面、自分の罪が重くのしかかる。一度は奪った命だと、誰かが叫ぶ声が聞こえる。それは低く嗄れた声で、前世の自分の声なのだと気付く。忘れるなと後ろから指を指されているようだった。
    「……それはオレのセリフなんだよ」
     今度こそガンガディアを大切にする。そう決めた。変えられない過去を嘆いても意味はない。
     夕陽が沈んでいく。ガンガディアの手がオレの手を包み込んだ。
    「最高に嬉しいよ」
     その声が昔のガンガディアと重なる。だが目の前にいるガンガディアは、あのガンガディアではない。お互いに命をかけて戦ったガンガディアではないのだ。
    「……お前のこと愛してる」
     それはどちらのガンガディアに言ったのか、自分でもわからなかった。

     ***

     縁側から見える空に鱗雲を見つけた。今朝は急に涼しい。突然に幕を引くように夏は終わるのかもしれない。
     畳に敷いた布団に横になったままペンを握っている。さっきから一文字も書けていなかった。あの事件から数日が経つが、どことなく体調が優れない。数日も何もせずに寝ているから締め切りは目前だった。だが焦る気持ちは微塵もなく、ペンは手から転がり落ちそうだった。
     扇風機が低く唸りながら首を振る。それが原稿用紙を捲っていた。
     考えるのはどうしてもガンガディアのことだった。あの眼差し、あの手の温度、詰め寄る声。それらが頭の中を巡って他のことが考えられない。
    「マトリフ」
     バルゴート師匠の咎める声に、手を原稿用紙に伸ばす。バルゴートはマトリフが寝ている布団の横に正座して腕を組んでいた。締め切りが近づいたから進捗を見にきたのだが、いくら待っていても渡せる原稿はない。
     すると呼び鈴が鳴った。無視しようと決め込んでいると、バルゴート師匠が立ち上がって玄関へと向かった。硝子戸を開ける音がする。何やら話し声がしているが、何を喋っているかまでは聞こえなかった。
     やがて硝子戸が閉まる。足音が戻ってくるが、その足音は一人ではなかった。縁側の廊下を鳴らしながらこちらへとやってくる。
    「お前に話があるそうだ」
     バルゴートの後ろに立っていたのはガンガディアだった。ガンガディアは帽子を取って頭を下げた。
    「先日は大変失礼しました」
     えらく畏まった態度に訝しむ。体を起こすと、ガンガディアは心配そうな表情になった。
    「まだ具合が悪いのですか」
    「怠け癖が出ているだけだ」
     先にバルゴートに答えられてしまう。だが否定もできなかった。
    「まだオレは容疑者なのかよ」
     殺人があったせいで、前にも増して辺りは静かになっていた。みんな息を潜めて生活しているらしい。
    「いえ、実は昨夜に犯人が逮捕されました」
    「じゃあオレに何の用だよ」
    「あなたを疑って申し訳ありません。そのせいで体調を崩されたようですし、謝罪に参りました」
     ガンガディアは深々と頭を下げた。前世ほどではないにしろ、体格のいい体が綺麗にお辞儀をする。それは妙な威圧感があった。
    「別に……警察なんだから疑うのが仕事だろ。んなことでいちいち謝るなよ」
    「いえ、本当にあなたには申し訳ないことをしたと思っているので、どうしても謝罪がしたかったのです」
    「あっそ。じゃあもういいから。頭を上げろよ」
     容疑が晴れたのであれば何でもかまわない。ガンガディアは顔を上げると落ちていた原稿用紙に目をとめた。
    「すみません。お仕事中にお邪魔しました。書かれているのはあの本の続きでしょうか」
    「あの本?」
    「課長からあなたの書いた本を借りて読みました。途中で終わっていたので、続きを書いているのかと」
    「ああ、いや、あの本の続きじゃねえ。あれの続きは出ねえよ。打ち切りになったんだ。売れねえと全部は書かせてもらえねえんだ」
     ちらりとバルゴート師匠を見るが、当然だろうと顔に書いてある。前世での出来事を小説に書けば出版してやると言ったくせに、売れないからとさっさと絶版にしてしまった。そもそも児童書が向いていなかったのだが、少年が魔王に立ち向かう小説は児童書でしか出せなかったのだ。
    「今は官能小説を書いている」
    「かっ……」
     ガンガディアは目を見開いて焦ったように口をつぐんだ。その反応が面白くてつい笑みを浮かべる。ガンガディアは居心地が悪そうに視線を彷徨わせた。
    「そうですか……お仕事の邪魔をしてすみませんでした」
     ガンガディアはもう一度頭を下げて立ち上がった。見送ろうと立ち上がる。ついでに近くにあった本棚から一冊抜き取った。
    「読むか?」
     差し出した官能小説を見てガンガディアは首を横に振った。しかし視線は表紙に向いている。
    「……こちらは本名で書かれているんですね」
    「児童書で使った名前で官能小説を出すわけにはいかねえからな」
    「そうですか」
     受け取られなかった本を棚に戻す。児童書はさっぱり売れなかったのに、生活のためにと書いた官能小説はそこそこ売れている。棚にはこれまで出した官能小説が並んでいた。
    「では、私はこれで」
    「また会えるか?」
     ガンガディアは振り返って先ほどよりも驚いた顔をした。
    「なぜ?」
    「この近くに美味い中華料理屋があるの知ってるか?」
    「ええ。管内ですので」
    「一緒に食いに行こうぜ」
     一瞬の間があった。視線がぶつかり合う。そこには引力のようなものがあった。お互いに引き合う力を感じる。
    「あと二時間で勤務が終わるのですが」
    「じゃあ十二時半にその店で」
    「わかりました」
     ガンガディアは帽子をかぶって一礼して出ていった。落ちていた原稿用紙を拾い上げる。バルゴート師匠の視線が突き刺さるが今は気にならなかった。
    「十二時までに終わらせる」
     ペンはようやく息を吹き返した。女の艶かしい肌もそこに滑り落ちる汗も書き殴る。いつしか想像上の女の声がガンガディアの声に変わっていた。

     ***

     お互いに努力はあったはずだ。一緒に過ごすための気遣いや献身が。だがそれが一方に偏ると、過重がかかったほうへと大きく傾く。
    「マトリフ」
     呼ばれて振り向けば、ガンガディアが何か言いたそうな顔で立っていた。部屋着ではないから出かけるのだろう。そういえば今日は休みだと言っていた気がする。だが今日中に送らねばならない原稿が完成していなかった。
    「なんだ?」
     できればキーボードを打つ手を止めたくない。用があるなら早く言ってくれと思いながら待つ。
     ガンガディアは音もなく溜息をつくと、何も言わずに背を向けた。
    「おい、なんだよ」
     こっちは手を止めているのに何も言わないことに苛立ちを感じる。ガンガディアから不機嫌そうな雰囲気を感じるが、こっちだって忙しい。用があるならさっさと言ってほしい。
     ガンガディアは玄関に向かっていたが振り返った。
    「今日は一緒に出かける約束では?」
    「え?」
     一気に焦る気持ちが襲ってくる。約束をしたこと自体は覚えていた。慌てて自室に戻ってカレンダーを見る。そこは締め切りなどが書き込まれたもので、他の予定もそこは書き込むようにしている。
     カレンダーの今日の日付には締め切りとしか書かれていない。見れば来週の同じ曜日に赤ペンで丸が付けてある。自分の性格はよくわかっているから、締め切り日に予定を入れるわけがなかった。
    「それって来週じゃなかったのか?」
     玄関に向かってやや大きな声で言う。ガンガディアだって間違うこともあるだろう。とにかく原稿の進み具合から今日は出かけられる状態ではなかった。
     だがガンガディアから返答はない。玄関を見るとガンガディアは靴を履いている。
    「なあ。一緒に行くのは今日じゃねえだろ?」
    「約束したのは今日だ。私のカレンダーにはそう書いてある」
    「けど、オレは締め切りが」
    「締め切り日を勘違いしていたのでは? あなたが今日なら大丈夫だと言ったんだ」
     ガンガディアの責めるような口調に頭に血がのぼる。自分が正しいと一方的に言われれば気分は良くなかった。
    「喧嘩してえのか?」
     少し頭を冷やせば馬鹿らしいことだとわかるはずだ。どちらかの勘違いや認識のミスがあったのは間違いない。だが現実問題としてオレは出かけられない。お互いに謝って、今後はこういった行き違いが起こらないように対策すればいい。ここがお互いに引き時だった。
     だがガンガディアはドアを開けた。
    「あなたが行かないなら一人で行ってくる」
    「行かねえとは言ってないだろ。今日は無理なだけで、来週なら」
    「来週は出張が入ったと言ったはずだが」
    「出張?」
     それこそ聞いていない。お互いの仕事の都合は出来る限り共有しようと同棲を始めるときに約束した。だが思い返せばガンガディアの仕事が忙しくなってから、それも疎かになっていた気がする。ガンガディアが家にいる時間は少なく、オレはガンガディアがいないからと生活が不規則になっていた。顔を合わせる時間が減れば会話も少なくなる。話す機会がないまま連絡をしそびれることもあった。
    「あなたは私が話しかけても上の空だ」
    「そりゃ仕事中はしょうがねえだろ」
    「少し手を止めて聞いてくれれば」
    「オレがそういうの出来ねえって知ってるだろ」
    「あなたは私よりも架空の誰かのほうが大切なようだ」
    「なんだよそれ」
    「ガンガディア。そういう名前だろう。あなたが書いた本に出てくる怪物の」
     急所を一突きされたようだった。咄嗟に平静を保とうとするが、それは無駄な努力だった。ガンガディアはさらにオレに突き刺す言葉を振り上げる。
    「あなたが寝言で呼ぶのもガンガディアだ」
    「それは……寝言なんてどうでもいいだろ」
     前世のガンガディアの夢を見ることはたまにある。だがその名前を呼んでいたとは知らなかった。
    「私の名前は呼んでくれないのに」
     ガンガディアの眼が悲しみに染まっていた。きっとガンガディアの怒りの根源は悲しみなのだろう。
     ガンガディアには現世での名前があった。この世界で新たに生を受けたのだから当然のことだ。それは知っているものの、ガンガディアを違う名前で呼ぶことがどうしてもできなかった。同じ理由でオレのことはマトリフと呼ばせている。このペンネームのほうが気に入っているからと適当な嘘をついて。
     ガンガディアは深く傷ついているようだった。本当はずっと気にしていたことが、今になって溢れ出したのだろう。ガンガディアは外へと足を向けた。
    「行ってくる」
     ドアが静かに閉まった。足音が遠ざかっていく。
    「……全部忘れやがったくせに」
     それはガンガディアのせいではないだろう。だがオレはその寂しさを一人で抱えねばならない。

     ***

     前世の記憶はやがて薄れていくらしい。バルゴート師匠が言うのだから間違いない。細かなことから忘れていき、やがて何十年も経てば全て忘れてしまうという。
     だから書き残さないか、とバルゴート師匠は言った。それを本にして、広く読まれるようになれば、かつての仲間が気付いて連絡を取ってくるはずだと。だから書いた。あの冒険を。そして書ききれないまま物語は終わってしまった。
     心地よい風が縁側から入ってくる。気怠い昼下がりには昼寝以外の予定はないが、今日は不思議とペンを持ちたい気分だった。思いつくままに手を動かすと原稿用紙はすぐに埋まっていく。他の誰も読まなくていいと思うと、ありのまま書くことができた。
    「先に上がったよ。あなたもシャワーを浴びてきて」
     腰にタオルを巻いたガンガディアが部屋に入ってくる。曖昧な返事をしたが手は止めなかった。今はこれを書きたい。途中で止めたくはなかった。
    「何か着ないと」
     ガンガディアが肩に何かをかけた。大きさからガンガディアの服だろう。そういえばまだパンツも履いていなかったと気付くが、まだ暑いのだから風邪などひくはずもない。気にせずに書き続けると、首筋にリップ音を立ててキスされた。そのまま後ろから抱きしめられる。
    「締め切りはまだ先なのでは?」
    「これは仕事の原稿じゃねえよ。ただの走り書きだ」
    「……これはあの児童書の物語なのでは?」
     ガンガディアは書いているものを読んだらしい。小説に興味はなくても、一度読んだ本の登場人物の名前は覚えているようだ。
    「続きを書くのかね?」
    「これはただの手慰みだ。書いても本にはならない」
    「書きたいなら書けばいい。途中で終わるのは残念だ」
    「お前は読まねえだろ」
    「あなたが書いたものなら読むよ。あなたのことをもっと知りたい」
     ガンガディアの手が腹に回る。意味ありげに撫でられて身を捩った。
    「おい、よせって」
    「服も着ずにいるあなたが悪い」
     ガンガディアの手がオレの手からペンを奪っていく。反対に身体は引き倒された。すぐそばにさっきまで使っていた布団がある。捨てていないティッシュが転がっていた。抵抗のつもりで伸ばした手を掴まれて押さえつけられる。ガンガディアが覆い被さってきた。
    「……またやんのか?」
     答えの代わりなのか啄むように胸に口付けられる。一度引いた熱が戻ってくるのは簡単だった。ガンガディアの腰からタオルがずり落ちる。そこへ腰を擦り付けた。はやくこいと腰を揺らす。ガンガディアの大きな手に腰を掴まれた。
     すると呼び鈴が鳴った。お互いに固まって玄関のほうを見る。硝子戸が開く音がして、足音は勝手にこちらへと進んでくる。そんなことをしそうな人物は二人だけだが、どちらにしてもこの状況を見られるのはまずい。
    「オレの」
     パンツはどこだよ、と言う前に縁側にハドラーが立っていた。ガンガディアはかろうじて腰にタオルを巻いたらしい。オレはガンガディアの服を引き寄せて羽織った。
    「……これだから貴様には言いたくなかったんだ」
     ハドラーが深いため息と共に言った。ハドラーはガンガディアがオレと出会えばこうなると予測していたとでもいうのか。それが協定違反の理由だとしても、許すつもりはない。
    「あの……これは同意を得ての行為であって」
     ガンガディアはしどろもどろに言葉を並べる。ハドラーにこの現場を見られて狼狽えているようだ。服を着たくてもそれはオレが羽織っている。ハドラーは哀れみがこもった眼差しをガンガディアに向けた。
    「お前は相変わらず趣味が悪い」
    「相変わらず?」
    「そいつだけはやめておけ。お前が不幸になるぞ」
    「勝手に決めんじゃねえよ三流課長。降格しろ」
    「黙れ老ぼれ。貴様の供述調書の捺印が足りんからわざわざ来てやったんだ。早く押せ」
     ハドラーに書類を突きつけられる。そういえばあの事件の時に何枚か書類を書かされた。のろのろと文机に手を伸ばして印鑑を探す。
     ハドラーはそれが済むとさっさと帰っていった。そのときになってようやくガンガディアがオレの服を集めて渡してくる。甘い雰囲気などとっくに消え失せていた。
    「風呂に入ってくる」
    「……あなたの過去に口を出すつもりはなかったのだが」
     ガンガディアの言葉にはっとして立ち止まる。まさか前世のことかと思ったのだ。だがガンガディアが言ったのは全く的外れなことだった。
    「あなたは課長と交際していたことが?」
    「はあ!?」
     何をどう勘違いしたらオレとあの三流魔王に関係があったと思うのか。だがガンガディアは思い詰めたように俯いている。
    「ただ事実だけを確認したい。課長と恋人だったのかね?」
    「んなわけあるか!!」
     腹の奥から叫んだ。前世でだって指一本触れてない。言いようのない感情を吐き出すように呻きながら風呂場に入った。

     ***

    「うわっ、きったねぇ」
     何とでも言えばいい。締め切りを守ったのだから、部屋がどれほど散らかっていようが何の文句がある。部屋が荒れ果てていようが、ガンガディアがいなかろうが、オレの知ったことではない。
    「ちょっと師匠! 掃除くらいしろって」
     ポップは転がっていたカップ麺の容器を拾い上げた。それを横目に見ているものの、動く気はない。ここ数日はトイレ以外でこのソファから動いていなかった。
    「原稿の直しか?」
     担当編集者のポップが来るということは原稿のことだろう。締め切り当日に送った原稿は、ガンガディアと喧嘩した日に仕上げたものだ。不備だらけな気がする。
    「原稿はまだ校正中。今日は様子を見に来ただけ」
    「なんでだよ」
    「ガンガディアが暫くいないんだろ? 師匠が干からびてないか見に来たの」
    「なんであいつがいないって知ってんだよ」
    「ハドラーから聞いた」
     こともなげにポップは言う。そのときになってようやくポップの顔を見た。ポップは呆れたような顔をしている。
    「お前、ハドラーと連絡取り合ってんのかよ」
    「たまに飲みに行くけど」
     二人が揃って酒を飲んでいる姿を想像する。三流魔王はともかく、ポップは誰とでも親しくできる。前世での繋がりを持った者同士で助け合うこともあるだろう。
     だが、オレはガンガディアのいないこの部屋で数日を空虚に過ごした。だからハドラーとポップが仲良くしているなんて聞きたくない。
    「お前、オレのことは飲みに誘わねえくせに」
    「拗ねんなって。師匠にはガンガディアがいるから遠慮してるんだよ」
     ポップはゴミ袋を探してきたらしく、落ちているゴミを拾い集めていく。いつもはオレが散らかしたものはガンガディアがまめに片付けていた。あなたが片付けられないのは理解した、と同棲数日目に言われてから、片付けはガンガディアの仕事だった。それがガンガディアの負担になっているかもしれないと、今になって思う。
    「どうせオレはあいつを幸せにしてやれねえよ」
    「自虐なんてらしくねえぜ。前世の不遜さはどこにいったんだよ」
    「その前世がいけねえんだ。そんなこと覚えてるから、あいつの事を真っ直ぐに見れねえ」
     前世のガンガディアと、今世のガンガディアは違う。たとえ同じ魂を持っていたとしてもだ。オレは前世のガンガディアを求めるあまり、今世のガンガディアを代替品にしていた。
    「前世の記憶がなきゃ出会っても気付かなかっただろ? そうしたら恋人になることも一緒に暮らすこともなかったかもしれねえぜ?」
    「そのほうがあいつは幸せだったかもしれねえ」
    「いい加減にしろって。出会えてるだけでどれほど幸せかってわかってんの?」
     厳しい口調で言われた。ポップは一緒に旅をした仲間とは今世で出会えていない。
     ポップはソファにドスンと座った。手を伸ばされて頭を撫でられる。見ればポップが歯を見せて笑っていた。
    「まず風呂に入ってくれよ。匂うぜ」
    「……おう」
     風呂から上がって部屋を片付けた。出張から帰ってきたガンガディアに片付けさせるわけにはいかない。ポップにあれこれとダメ出しを受けながら、部屋を片付けていく。
    「うわっ」
     床に積み上げた本に蹴つまずく。読もうと思って持ってきたが、手もつけていない本だった。それはいつだったか、ガンガディアと一緒に行った古本屋で買った本だった。
    「大丈夫かよ」
     ポップが崩れた本を拾う。それは年季の入った本で、題字も薄れていた。
    「これ何の本?」
    「次に書くやつの資料だよ」
    「ああ、明治時代が舞台の?」
     ポップがページをパラパラと捲っていく。だがその手がぴたりと止まった。
    「……あれ?」
     ポップの目が驚きのために見開かれた。そして救いを求めるようにこちらを見る。
    「これって……アバン先生だよな?」
     ポップは開いた本を指差す。そこに載っている白黒写真の中でアバンが微笑んでいた。

     ***

    「へっくし」
     突然に出たくしゃみに小鳥たちが飛んでいく。地面に落ちた米粒を啄んでいたのにすまないことをしてしまった。
     今日は風もあるが寒いというほどでもなかったから、誰かに噂でもされたのかもしれない。
    「ほら」
     首筋に暖かいものをかけられる。ロカが自分の襟巻きをかけてくれていた。
    「ありがとう。ロカは寒くないんですか?」
    「暑さ寒さも彼岸までって言うだろ」
     ロカは着物の裾をたくし上げて隣に腰を下ろした。そこは小高い丘になっていて、遠くに線路が見下ろせた。まだずっと遠くに蒸気機関車の上げる煙が見える。今日は蒸気機関車を見物しようと声を掛け合って出かけて来たものの、子どもたちは追いかけっこのほうが楽しいらしい。ダイがマァムとヒュンケルを追いかけて走っていく。彼らの着物は泥だらけだ。それは長閑な光景であるものの、そこにいない存在が余計に浮き彫りになってしまう。
    「……どこかでポップが私の噂をしているのかも」
     前世の記憶を持った者たちは今世でも自然と集まっていた。だが、出会えていない者もいる。大事な弟子と友をどれほど探したことだろう。
    「マトリフとポップは一緒にいる気がするんですよね」
    「師弟だからか?」
     ロカはつられるようにみんなへと目を向ける。そこにはブロキーナやマァム、ロン・ベルクやノヴァもいた。集まったのは彼らだけではない。クロコダインやヒムやキギロもいる。
    「……ハドラーもどこにいるんでしょうね」
     仲間だけでなく、あの頃に戦っていた相手とも今世で再会している。あのバーンですら今では人間として生を受けていた。それなのにハドラーと、その側近のガンガディアとは出会えていなかった。
    「ハドラーはともかくよ、あの蒸気機関車に乗れたら、もっと遠くに探しに行けるだろ。そうしたらオレがマトリフとその弟子も見つけてやるよ」
     何の屈託もなく笑みを浮かべるロカに救われる気持ちになる。本当はもう彼らと出会うことは無理なのではないかと諦めかけていた。
     青い空に蒸気機関車の煙が伸びていく。世界はずっと広くなったように思えた。そのせいか、彼らはずっと遠くにいる気がする。それはどれほど探しても辿り着けないほどの遠さのように思えた。
    「……どこにいるんですかね。まったく」
     友も、弟子も、宿敵も。楽しく過ごしているならそれでいい。それでも会えないのは寂しかった。
    「皆さん、集まってください」
     ノヴァの呼びかけに目を向けると、ロン・ベルクが何やら設置しているようだった。興味を引かれて見にいく。それは四角い箱にレンズが付いたものだった。
    「写真機ですか?」
     聞けばロン・ベルクは外国から持ち込まれた写真機を見て真似して作ったらしい。せっかくみんなで集まるのだから写真を取ってみようと持ってきたという。ロン・ベルクに後で詳しく写真機の話を聞かせてもらおう。
    「撮りますよ」
     ノヴァの呼びかけにみんなが集まってくる。呪文は知っていても、写真は初めて見る者ばかりだった。写真機の周りに集まって賑やかになる。
    「もうちょっと離れないと撮れないんですよ。そっちに並んでください」
     みんなが写真に収まるように並んでもらう。子どもたちは最前列になった。
    「先生はこっち!」
     ダイに手を引かれる。その肩に手を置いて写真機を見た。ノヴァが撮りますよと手を振っている。
     その向こうに、どこかにいる友を思い浮かべた。もし彼もこの世界にいるなら、魔法がないこの世界を嘆いているのではないかと思ったからだ。それとも科学技術の発展を楽しんでいるだろうか。
    「みなさん、笑って」
     もし彼らが遠い場所にいるとしても、いつかこの写真を見るかもしれない。私たちはここにいたんですよ、と残しておきたかった。

     ***

     文机の天板を撫でる。パソコンを使い出してからこの机で書かなくなった。前の家では馴染んでいたが、このマンションに引っ越してからはこの机だけが浮いている。
     文机の引き出しを開けて中に入れていた手紙を出した。友に宛てて書いたものだが、宛名は書いていない。現世での名前も住所も知らないままだった。数十年分の手紙は、それでもその年数よりも少ない。書くのを忘れた年もあったからだ。再会できない友へ宛てて日記代わりのように手紙を書いてきた。
     それを文机の上で整える。何かに入れようと思ったが、手頃なものがなかったので紐で縛った。
    「ちょっといいか?」
     ガンガディアの背に呼びかける。ガンガディアは出張から帰ってきて数日の休みを取っていた。出張に出る前の気まずい雰囲気を引きずってはいない。そんなところに出来た人間性を感じる。そういうものがオレには不足しているのだろう。
     ガンガディアは読んでいた本を置いた。こちらに向き直ったので、その正面に座る。
    「ついてきてほしい場所がある」
    「どこだね」
     調べておいた場所をスマートフォンで見せた。近くはないが、電車で数時間の距離だ。本に残された記述から候補を絞って見つけた場所だ。ルーラが使えないのは不便だが、インターネットを使った検索は非常に便利だった。
    「理由は道々説明する」
     それから二人で電車に乗って二つ県を跨いだ。時間は充分にあったから、目的地に着くまでにこれまでのことを説明することができた。前世のこと、今世で記憶を持って生まれたこと、かつての仲間を探していたこと、そして見つけたこと。全てを話した。ガンガディアはそれを黙って聞いて、最後に質問はあるかと尋ねたら、ひとつ頷いてから言った。
    「あなたは前世の私を愛していたのか?」
    「さっきの説明を信じるのか」
    「質問に答えてくれ」
     ガンガディアの眼差しに気圧される。それを訊ねられるのを恐れていたのかもしれない。
    「ガンガディアとは好敵手だった。惚れる間も無いまま終わったよ」
    「ではあなたは私のことをなんだと思っているんだ」
     それを自分でもわからないまま今まできてしまった。前世のガンガディアと、目の前にいるガンガディアを明確に分けて考えることは出来ない。ガンガディアは言葉に窮するオレを見て表情を歪めた。
    「質問を変える。もし前世が無くても、私を愛してくれたのか」
    「当たり前だ」
     それだけは断言できた。この二十年は、いま目の前にいるガンガディアと共に過ごした時間だ。前世のガンガディアを忘れることはできない。だがオレたちは今世で出会った瞬間に惹かれ合った。そうして今まで一緒に生きてきた。愛がなければできるわけがない。
     電車が止まる。駅名がアナウンスされた。
    「一緒に来てくれるか?」
     差し出した手を、ガンガディアが握った。はじめて見るホームに二人で降り立った。

     ***

     そこは小高い丘だった。遊園地の跡地らしいが、今ではソーラーパネルが並んでいる。本に載っている写真を見ると、やはり場所はここで間違いなさそうだ。地形は大きく変わっておらず、線路も同じ場所に通っていた。
    「その写真と同じ場所に来たかったのかね」
    「ああ」
     持ってきた手紙の束を地面に置いた。そこへライターで火をつける。
    「それは?」
    「ダチへの手紙。会ったら渡そうと思って書き溜めておいた」
    「なにも燃やさなくても」
    「燃やしたらあっちに届くかと思ってな」
     煙は空へと上っていく。そこにいるのか、はたまた生まれ変わっているのか。もしそうならオレがそっちに行くまで待っていてほしいと思う。手紙が燃え尽きるのを待って燃えかすに水をかけた。
    「来るのが随分と遅くなっちまったな」
    「まったくだぜ。百年も遅れるなんてな」
     言いながら歩いてきたのはポップだった。ポップは手に一枚の写真を持っている。
    「現物の写真、見つけて引き伸ばしてきたぜ」
     見せられた写真は本に載っていたものより鮮明だった。かすんでいたものがはっきりとして、それぞれの表情まで判別できるほどになっている。
    「見てくれよ。ダイのやつ嬉しそうに笑ってる」
     ポップの鼻は赤くなっていた。目尻には涙が浮かんでいる。それがあふれるのに時間はかからなかった。
    「会いたかった……みんなに」
     俯いて涙をこぼすポップの頭を抱き寄せる。そこへもう一人歩いてきた。
    「こんな場所に呼び出しておいて辛気臭いぞ」
     ハドラーは鼻を鳴らして写真を取り上げた。せっかく教えてやったというのに信じていないらしい。本当ならアバンを見つけてもハドラーに教える気は無かった。だが、二度と会えない人物をこれ以上探すのを見ていられなかった。
     ハドラーは眉間に皺を寄せて写真に見入っていた。そしてその表情が段々とポップと同じになっていく。ハドラーはその場に蹲った。
    「こんな馬鹿なことがあってたまるか!!」
     その怒号はその場にいる全員の心情だった。感情のままに声を上げるハドラーに下手な慰めはできない。だがその激情のおかげで心を保っていられた。
     隣にいるガンガディアの手を握りしめる。ポップに言われた通り、出会えただけで奇跡だったのだ。
     落ちていた写真を拾い上げる。それをガンガディアに見せた。
    「この真ん中にいるのがアバンだ。その前にいるのがダイ」
     写真の中でアバンは微笑んでいる。幸せな人生だっただろうか。調べても多くのことはわからず、写真もこれしか見つからなかった。
    「その横にいるのがマァムとヒュンケル、こっちがラーハルトとノヴァ」
     写真の解説にポップが加わる。その一人一人にガンガディアは頷いていた。ガンガディアはオレが書いたあの物語を全部読んでいる。名前を聞けば誰が誰かわかるはずだ。
     ハドラーも立ち上がった。そして割り込むように写真を指差す。
    「こいつがキギロ、こっちがバルトス。ブラスもいるな。最初の魔王軍の者たちだ」
     そこからは写真にいる人物を全員説明することになった。ガンガディアは律儀に名前を聞いて頷いている。
     するとポップがスマートフォンを取り出して言った。
    「な、おれたちも写真を撮ろうぜ」
    「写真だと」
    「みんなの写真と一緒にさ」
     ポップがハドラーに写真を持たせてスマートフォンを構える。
     ガンガディアを見れば、やはりまだ困惑の色が残っていた。その手を取って強く握る。
    「お前をあいつの代わりにはしない」
     それは前世のガンガディアに別れを告げる気持ちだった。あのとき失った命を求めるのではなく、この男を愛していこうと決めた。
    「あなたが望むなら私はガンガディアとして生きてもいい。私が覚えていればあなたを苦しませなかっただろうから」
    「いいんだ。お前はお前で、あいつはあいつだ。それにあいつはオレが殺しちまったから、オレを好きにはならないだろうしな」
    「……それは違うと思うよ。きっと記憶があっても、私はあなたを愛していた」
     穏やかに微笑む顔が死ぬ時のガンガディアを思い起こさせた。もう思い出さないと決めたのに、その影は簡単には消えてくれない。
    「ったくよぉ、羨ましいぜほんとに」
    「オレたちがいることを忘れるな」
     ポップとハドラーが呆れたようにこちらを見ていた。ポップは写真に向かって当て付けのように愚痴を言う。聞いてくださいようアバン先生ぇ、と昔のように甘えた声を出した。
    「わかったわかった。写真を撮るんだろ」
    「写真なら私が撮ろう」
     いつの間にか後ろにバルゴート師匠が立っていた。驚いて飛び上がるが、バルゴート師匠はさっとポップの手からスマートフォンを取ると数歩離れていく。
    「インカメラにしたら全員で映れるだろ」
     言ってもバルゴート師匠は自分は写真に写る気はないらしい。スマートフォンを横に向けて待っている。
    「撮るぞ」
     素っ気ない掛け声とともにシャッターが押される。撮ると言った割に愛想もない。撮られた写真を見れば泣き笑いのようになっていた。
     その写真はフレームに飾られて居間に飾られてある。日が良く当たるせいか、その写真も少しずつ色褪せていった。

     ***

     遠い記憶は夢のようだった。確かにそこにあったはずなのに、思い出そうとした途端にぼやけていく。
    「お茶だよ」
     手渡されたマグカップが手に温もりを伝えてくる。知らない香りだが、どこか懐かしくもある。
    「ポップ君から荷物が届いていた」
     膝の上に置かれたのは数冊の本だった。タイトルを見れば、それは大昔にオレが出した本の続きだった。出版はしないが、物語は書き上げてあった。それを知ったポップが本にしようと作ってくれたものだ。
    「あのときに書いておいてよかったな」
     もうあの頃のことを思い出せない。前世の記憶はいずれ薄れていくと言われたがその通りだった。今はガンガディアの姿さえ思い出せない。
     離れていこうとする大きな手を捕まえる。隣に座るように促せば、ゆっくりと身を屈めた。
    「愛してる」
     あれから何度も伝えてきたが、まだ足りない気がする。前世のガンガディアを思い出せなくなっても、やはり愛おしいと思う。
    「私もだよ」
     抱き寄せられて、その首筋に顔を埋める。オレは本当にこの男を愛せていたのかといつも自問していた。一緒に生活をしていても、助けられることのほうが多かった。その代わりに何を返せていただろう。愛しているという言葉で縛りつけてはいなかっただろうか。
    「お前を愛してる」
     それでもこの言葉を繰り返す。憂鬱でも空虚でもない。心に燃え起こる情熱を含んだ感情だった。
    「知っている」
     その言葉をどこかで聞いた気がする。だが思い出せなかった。しかしそんなことは些細なことだ。
     窓の外では朝日が昇ろうとしている。それがかえって静寂を生んでいた。清いものに照らされて闇が逃げていく。とろりとした眠気がやってきた。
     夢と現実の狭間で時間の感覚がなくなっていく。静寂を突き破る音がした。それに一瞬だけ瞼が開くものの、その正体はわからなかった。

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