桃の実りの健やかなれど:
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「桃……水蜜桃か?」
食卓の上に盛られた桃を見て、養い子の太宰治を連れて幼稚園から帰宅したばかりの織田作之助は緩く笑みを浮かべた。
仕事が一段落ついた坂口安吾が書斎から顔を出し、ふたりを出迎える。そして同じく笑みを浮かべながら桃を見る。そんなふたりを見上げて、太宰は園帽を脱いだ。
「太宰君、着替えてきなさい。おやつに桃を剥いてあげましょう。織田作さんのいうとおり水蜜桃です。甘い桃ですよ」
「すいみつ、とう?」
「ああ、水蜜桃。うまい桃だぞ。楽しみだなあ太宰」
そういながら織田作は一つ桃を手に取り、太宰に渡す。まだいとけない手のひらに、桃はずしりと重さを主張した。
「もも……だぁ」
その甘くみずみずしい香りを吸い込むと、その味が大人たちが言うように期待できる物であることが太宰にもわかった。思わず溢れ出しそうになる唾液をこらえごくりと喉を鳴らす。そうして白磁にほんのりと紅が色づいたそれをじっと眺めていると、それは太宰の脳裏に不意に何かを思い起こさせた。
「ところでどうしたんだ、この桃は」
「ああ、お隣さんから頂いたんですよ」
「隣……ああ、昨日越してきた、どこぞの先生をしているという」
おとなりさん。
「そうです。その先生の御親戚が送ってきてくださったとかで。小さな子はお好きなのではと仰って」
「小さな子とは、もしかして太宰のことか」
「そりゃあうちの中ではそうでしょう」
「……あちらの方が小さな子じゃなかったか?」
「……織田作さん、なにボケてるんですか」
そうだ、おとなりの、ちいさな、あのこ。
「まあ、聞けば太宰君より4つほど年が下でね。昨日は抱っこされて寝てましたけど、さっきは手を繋がれてちょこちょこと歩いて来ましたよ。玄関先で寝ころんでいたミィちゃんをいたく気に入ったようでずっと撫でていましたね。気難しいミィちゃんが珍しい事に喉をならしてました」
「ほぉ」
昨日、引っ越しの挨拶にやってきた隣人は、きっちりと切りそろえられた前髪の下に顰めっ面を貼り付けた大人と、その腕に抱えられ肩にほほを預けてすよすよと心地よさげな寝息をたてて眠る、太宰や、幼稚園の周りのこどもたちよりもずっとずっと小さなこどもだった。
太宰は不意にそのこどもの丸い頬を思い出した。今自分の手のひらある桃の様に白く、そして淡く紅に色づいた頬をしていた。
先生だというその大人は、織田作の袖を掴みながら背伸びをしてその顔をのぞき込もうとする太宰に気がついたらしく、抱えたこどもが起きないように少しだけからだを傾けた。
そして太宰は手を伸ばしそっとその頬に触れた。
「あのこみたいだ」
手のひらに残るまろい頬の柔らかさが桃を乗せた手のひらに蘇る。
「こら、太宰君!」
安吾の声と共に太宰の眼前に有ったはずの桃は手を伸ばしても届かない頭上、安吾の手の中に移っていた。
「そのまま齧らないで!桃は皮を剥いてからですよ。ほらほら、制服を着替えてきなさい」
「はぁ~い」
桃を持って台所に向かう安吾をの背中を、口をとがらせ恨めしげに太宰は眺める。そんな太宰が居間を出て自室へと向かうのを見届けると、織田作は安吾の方を振り返った。
ある新月の晩、日付が変わった頃だった。人が訪れてくるには少々遅すぎる時間だ。
愛用の万年筆を置いて、織田作はそっと立ち上がった。
さり気なく伸びをしながら窓の外を見た。庭を挟んで見える垣根の向こう側には、先日水蜜桃を持ってきたふたりが住む家がある。古めかしいが手入れの行き届いた平屋だ。幼いこどもが住む家なのでもうとっくに眠りについているはずだった。
しかしそこに不意に灯りがともり、微かだが銃声が聞こえた。
「織田作さん!」
「安吾!」
織田作は窓を開け庭を駆け抜け垣根を飛び越える。
安吾も玄関から飛び出して織田作の後を追った。隣家までほんの数秒。勝手口の扉は鍵が壊されていた。
「大丈夫ですか!」
安吾が布団の上で何かを守るようにからだを丸めてうずくまっている男に駆け寄った。肩の銃創から寝間着に血が滲んでいたが急所は外れているようだ。
「襲撃者は此方で捕らえた。足を打ち抜いたので動けないだろう。救急車は呼んだが、まずは応急手当を。……少し動けますか?」
ホルスターに銃を納めながら織田作が部屋に入ってきた。痛みに呻きながらも、男は安吾に支えられからだを起こす。
「あ……敦は」
男の下には健やかな寝息をたてる小さな……白い虎の子がいた。
「あつし……ああ、大丈夫です。怪我一つなくよく眠っていますよ」
「そうか……ならば、よか……っ……」
「あつしくん、もも、すき?」
「もも!すき!」
太宰の隣で、隣家の小さなこども……中島敦は桃を頬張りながら満足げに笑っていた。
それを見ている太宰もまた桃のような頬をすこしばかり赤らめてにこにことこどもらしい笑顔を見せている。それは何処にでもある微笑ましい光景だ。太宰が謎に片目を包帯で覆っていなければ。
引越後、敦達を襲ったのは桃を送ってきた親戚だった。
敦は資産家であった両親を事故で亡くし、その財産を総て相続したばかりだった。
しかしまだ幼いので成人するまでは財産管理のための後見人がつくことになる。それが敦の母方の親戚である男、『先生』であった。
男は一人身であったが世間的な地位や財力も有ったので裁判所で問題ないと決定がされた。しかしその決定に不服を持った者がいたようで……このような事態になった。
「来週には退院出来るそうですよ、先生」
「そうか、よかったな、敦」
「うん!」
まだ幼い敦は男が入院している理由など知る由もないし、知る必要もないとふたりは思っている。おそらくは保護者である男も同じであろう。
男が入院している間、敦のことは織田作と安吾が預かる事になった。男のからのたっての要望でもあったが、状況などから安吾がこの事件の担当になったからでもある。
男から桃を貰ったとき、安吾が己の持つ異能力「堕落論」で読みとってしまったのは親戚の賤しい思惑と疾しいこの計画だった。
織田作と相談の上、桃のお礼がてらやんわりと探りを入れてみようと翌日安吾が隣家を訪れて見ると、突然小さな白い虎が飛び出してきたのだ。
安吾の仕事は内務省の異能管理監視機関、異能特務課だ。その白い虎が異能であることはすぐに察知できた。
そうなると話は早い。
異能を持つ小さなこどもとその保護者が隣家に越してきたのは偶然ではあったが、その偶然より最悪の事態は免れた。
安吾が異能で知った親戚の思惑を伝えると男も薄々は感づいていたようだった。
しかしながら親戚ということもあり何もないうちに騒ぎ立てることも出来ない。なのでそれとなく安吾と織田作が見張ることにしていた。
「俺がもう少し早く、予知ができれば先生も傷を負うことはなかっただろうに」
織田作も数秒先の未来を見る異能力、「天衣無縫」を持っている。数秒先のこととは言え、勝手口を壊した侵入者が家人を襲撃する未来が見えたことで大事には至らなかった。
「それでも十分ですよ、織田作さん。もしもっと遅ければ……いやいや、今こんな事を言うのは止めましょう。せっかく長官が美味しい桃を差し入れて下さったんですから」
あっという間に空になった、桃の盛ってあった硝子の器を引き上げようとすると、太宰と敦が名残惜しげに安吾の手元を見た。
「ふたりとも……まだ食べたいんですか?」
「だめ?あんご?」
「だめぇ?」
上目遣いで甘えた口調で桃をおねだりする太宰を敦が真似をする。ふたりして大変愛くるしい顔立ちをしているので安吾は一瞬絆されそうになる、が。
「夕ご飯が食べられなくなるでしょう、もうダメですよ」
ここは心を鬼にしてふたりを突き放す。
「ぼくしってるんだよ!ももはいまのきせつしかたべられないんだよ。それにももって、すぐにいたんじゃうんだって。だからはやくおいしいうにちたべてあげないとももがかわいそうだとおもうんだ!」
しかしながら太宰は同じ年嵩のこどもたちより数段口が達者である。諦めきれないらしく小賢しい屁理屈を捏ねてくる。それでも駄目だと安吾は突っぱねた。
「え~あんごのけち~!」
「けち~」
口をとがらせる太宰のまねをする敦の背中で白い物が動いていた。見れば異能の白虎の尻尾が不満げに揺れている。
「あつしくんだってももはおいしいうちにたべるべきだとおもうよねぇ~!」
「ね~」
顔を見合わせ同意を求めながら太宰が敦の頭を撫でると、その尻尾は影も残さずに消えていった。
おそらくはこれも異能力、異能を打ち消す異能……。
その意味もまだ理解しないこどもたちに現れる力を目の当たりにした安吾は黙って立ち上がった。
「ええやないか安吾、ちぃとぐらい。坊たち桃が好きか!水蜜桃美味いもんなあ!儂がなんぼでも購ぅてきたるわ!」
部屋を出ようとする安吾と入れ替わるように入ってきた大柄の男、異能特務課長官の種田山頭火は敦を抱き上げ、その胡座の中に納めながら桃をねだるふたりに助け船を出した。
「長官!物には節度ってもんが有るんですよ!全く!そうやって甘やかして!そんなことおっしゃるなら今日の晩勺は水です!水道水コップ一杯100円!」
しかしそれは逆効果にしかならなかった。ふたりの桃どころか自分の晩酌のお銚子すら無くなってしまいそうだ。
「……安吾に叱られてしもたわ」
「あーあ。あんごおこっちゃったね。たねちょ、ばんしゃくなくなっちゃった」
「た……なくなた?」
しょんぼりとうなだれるふりをする種田の禿頭を太宰が撫でると、敦も種田を見上げ、その小さな手を伸ばす。
「ありがとうなぁ坊。おうおう、お前さんも慰めてくれるんか。ああ、お前さんのほっぺたは桃みたいやなあ、可愛いのぉ、食べて見たら桃みたいに甘いかのぉ、ちょいと一口……」
「え!たねちょ!だめ!あつしくん、ぼくの!」
結局根負けして桃を持って来た安吾が和室に入るなり目にした光景は……桃のような幼い頬に齧り付こうとしている種田とその反対側の頬にぱくりと齧りついている太宰、そして真ん中で何が起こっているのか解らないまま、丸い目を大きく見開きそこに涙を滲ませ始めた敦の姿だった。
「ちょっと!この耄碌爺何やってんですか軍警に突き出しますよ!太宰君も真似をしないで!よしよし敦君こちらにいらっしゃい。桃を持ってきたから泣き止んで、お食べなさい。織田作さんも!見ててなんで2人を止めないんですか!」
「いやあ面白いことになってきていたから、つい」
「つい、じゃあ有りませんよ!全く!」
海が見えるこの家には、今、穏やかな優しい時間が流れている……。