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    @ori1106bmb
    バディミ/モクチェズ

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    ヴ愛後、南の国へ向かう機内でのモクチェズ(未満)

    ※イベント後も読めますのでごゆるりとどうぞ。

    『皆様、当便はまもなく出発いたします。シートベルトを腰の低い位置でしっかりとお締めください……』
     飛行機はルドンゲン国際空港を飛び立ち、一路南の国へ。
     窓から地上を見下ろせば、ヴィンウェイは国中が真っ白な雪に包まれていた。
    「極北生まれって聞いちゃいたが、お前の生まれた国はほんとに寒かったねえ」
     空港で分厚いコートを脱いで、ようやく身軽になれたところだ。重たい防寒着も歩きづらいブーツも、しばらくは勘弁願いたい。
    「おや、モクマさん。まだ雪の降り始めですよ。本格的なヴィンウェイの冬はこれからです」
    「うへえ、想像もしたくない。また来る時は、きれいな野花なんがが咲いてる暖かい時期がいいね」
    「そうですね。暖かい時期には、もっと穏やかなヴィンウェイをお見せできると思いますよ」
     あの国に根を張り巡らせていた巨大犯罪シンジケートは、組織のトップの失脚により、弱体化の一途を辿る予定だった。もうシンジケートの構成員に襲われることも、私服警察に追われることもない。母国を手中に収めるための足掛かりを、チェズレイは今回の帰郷で得ていた。
     予期せぬ訪問と相成ったが、俺自身としては、あの国に行って良かった。相棒が生まれ育った国を直に目にすることができて良かった。
     チェズレイ・ニコルズという人間を作り上げている要素を少しだけ理解できた気がするし、チェズレイを誰より愛していた彼女にも会えた。
     もう一度窓の外を見ると、機体は真っ白な雲の中を飛んでいた。地上はとうに見えない。空のお姫さまは、この雲のどこかにいるのだろうか。探そうにも、雲は果てしなく広がっていた。
     やがて雲さえも眼下に見下ろす高さまで上昇したところで、シートベルトの着用サインが消えた。
     空港で南の国への行き先変更を提案して、運良く昼過ぎの便を予約できた。
     大傷を負っている相棒の体への負担が少ないよう、なるべく広い席をと申し出たところ、幸いスイートが空いていた。
     ビジネスクラスでもファーストクラスでもなく、スイートだ。
     シートの広さについては語るまでもなく、一席ずつが完全に独立した個室のようになっている。公共交通機関を敬遠するチェズレイからも、どうにか合格点をもらえるプライベート感だ。俺とチェズレイは同行者ということで、シートの間を仕切るパーテーションを下げてもらい、二人用の個室となっていた。
     飛行機が水平飛行を始めた直後、CAが俺たちの席までやってきた。
    「お食事はいかがいたしますか?」
    「私は結構です」
    「えっ、ダメダメ! ちゃんと食わんと」
     食事を断ろうとするチェズレイを阻み、二人分の食事を頼んだ。
    「怪我治すんなら栄養摂らんと。全部は食べられんようだったら残せばいい。頼むから少しでも食べてくれ」
     言葉で説得すれば、賢い相棒は「仕方ありませんね」と不承不承ながら頷いた。
     スイートの機内食はフルコースだ。怪我人に食わせるもんでもないが、何も食わないよりはマシだろう。選べるメニューの中から内臓への負担が軽そうなものを、チェズレイに確認を取りながらチョイスした。
     前菜、アペタイザー、スープ、サラダと、一流レストランのように盛り付けられた料理が、代わる代わる狭いテーブルに並べられていく。エコノミークラスのようにプレートごとミールカートで運ばれてくるのではなく、CAたちが一皿ずつ丁寧に提供してくれる。さすがはスイートのサービスだ。
     もちろん食事に合う酒も、この飛行機の中には何種類も用意されている。
    「お食事に合うワインはいかがですか?」
     勧められたワインは、気軽な店では絶対に出てこない年代物だった。その名前に、つい酒飲みの本能が疼く。
    「あなた、ウェルカムドリンクも断られていたでしょう。せっかくのコン・ガリニヨンだったというのに。お食事の時くらい好きなだけお飲みになればよろしいかと」
    「あ~……いいよ。今日は休肝日ちゅうことで」
    「おやおや。こんな絶好の日を休肝日に充てるとは、あなたもすっかり贅沢に慣れてきたようだ」
     無理やりヘビーな食事を摂らせたせいか、チェズレイの口は遠慮なく皮肉をぶつけてくる。
    「お前さんは? 飲まんの?」
    「ひとりで酒を嗜む趣味はありませんので」
     あの時は「アルコールで激痛を紛らせたい」などと言っていたのに。
     お互いミネラルウォーターで喉を潤し、運ばれてきたメインディッシュに舌鼓を打つ。焼き加減が絶妙な魚のポワレだ。白ワインがよく合っただろう。
     確かに昔の俺なら、間違いなくタダ酒に飛びついていたシーンだった。放浪中には絶対に口にする機会などなかった高級なお酒ちゃんたちだ。
     今日飲めなくても、またどこかで機会がある。そう思えるのは確かに相棒と同道しているお陰で、その相棒と共にいることで贅沢に慣れてきたことは間違いはない。けれどたとえ「今日を逃せば一生酒が飲めなくなる」と言われても、今日の俺は酒を断っていたことだろう。
     最後にデザートが運ばれてくる頃には、すっかり満腹になっていた。チェズレイも、あんなに不本意そうな顔をしておきながら、優雅かつ上品に全てを平らげていた。
    「おっ、残さず全部食べたね。えらいえらい」
    「子ども扱いですか」
    「そんないい子は薬もちゃんと飲めるだろ?」
     移動の車の中では渡せなかった痛み止めを差し出す。チェズレイは受け取るだけ受け取って、そのまま席に備え付けの小物入れの中にポイと仕舞ってしまった。
    「ちゃんと飲みなって」
    「あいにく生まれつきいい子ではないもので」
     すっかりへそを曲げてしまった相棒は、歯ブラシを持って席を立つ。入れ替わりにCAが来て、食事の後片付けを済ませると、就寝準備をととのえ始めた。
     彼女が素早い作業を終えると、個室の中には大人ふたりが横になれるダブルベッドが出来上がっていた。
     飛行機といえばシートを後ろに倒して寝るもので、ビジネスクラスやファーストクラスのフルフラットシートですら、初めて体験した時にはその寝心地に感動したものだった。
     けれどスイートのベッドは、もはやホテルそのものだ。真っ白なシーツ、真っ白な掛け布団、真っ白な枕は二つも備え付けられている。
     一度寝心地を味わってみたいところだったが、俺はラバトリーから戻ってきたチェズレイに「ベッド使いなよ」と寝床を譲った。
    「あなたの寝る場所がないでしょう。こんな狭いベッドでの同衾は御免ですよ」
     俺たちはツインの部屋で寝ることはあっても、今までひとつのベッドで眠ったことはなかった。この個室を選んだということは、必然的に同じベッドを使うことになる。狭いとは言っても大人ふたりが寝る余裕はあるのだが、並んで眠れば体の接触は避けられないだろう。
    「俺だって、病人の隣に寝る趣味はないよ。俺はこんだけでっかい椅子があれば十分」
     ベッドのすぐそばには、それまで俺たちが座っていたシートが設えられたままだった。このプライベートルームがどれほど広く作られているのかがよくわかる。
     広いシートに腰掛け、チェズレイがひとりでベッドに横たわるのを見守る。このシートもある程度はリクライニングが可能で、エコノミーのシートですらぐっすり眠れる自分にとっては十分すぎるほどだった。
     エコノミーの倍以上はある大きさのモニターで、適当に映画を流し始める。イヤホンはせず、ただ画面だけを見ていた。
     チェズレイもベッドの中から静かに画面を目で追っている。けれどそのまぶたは、うとうととまばたきを繰り返していた。
    「腹いっぱいのまんま寝転んだら眠くなっただろ。寝ていいよ」
     大怪我を負った体は、休息を求めているはずだった。
    「ますます子ども扱いですねェ……」
    「怪我人の相棒を労ってるんだよ。ほら。俺が起きてるから、安心して眠りな」
    「…………」
    「俺が嘘ついたことあったかい?」
    「……歌は不要ですよ」
    「了~解」
     腕を伸ばし、手のひらで両目を覆う。
     チェズレイのまばたきを、長い睫毛が手のひらにふれる感触で知る。けれどその感触は次第になくなり、チェズレイが目を閉じたことを知った。
    「おやすみ、チェズレイ」
     手のひらを退け、枕元のブラインドを全て閉める。シートのそばにあるスイッチで、室内の照明を落とした。
     暗がりで気配を殺し、両肩を回して伸びをする。もう一度シートに腰掛けると、疲労からとも安堵からともつかない深い息が漏れた。
     単身母国に乗り込んだチェズレイほどではないだろうが、俺自身、ここまで緊張しっぱなしだった。
     飛行機という大きな密室で、他の客や乗務員の気配があるとはいえ、ようやくヴィンウェイを離れて相棒とふたりだけのパーソナルスペースに腰を落ち着けた。チェズレイが「敵だらけ」と言ったあの国から、ようやく相棒を連れ出すことができた。
     眠るチェズレイの眉間には、うっすらと皺が刻まれている。決して穏やかな寝顔とは言えなかったが、その顔を見てようやく両肩が軽くなった気がした。
     かつて飛行船のハイジャック事件にも居合わせたことがある身としては、ここでも完全に気を抜くわけにはいかないことは承知している。(あれはそもそも、ここですやすや寝ている相棒自身が首謀者だったわけだが。)
     重傷を負った相棒を守り抜き、設備の行き届いた病院まで送り届ける。それが今の自分自身に課したミッションだった。
     自分はかつて、こんなにも誰かの世話を焼いたことがあっただろうか。
     俺の人生にとって、チェズレイは特別な存在なのだということを身にしみて感じる。
     チェズレイの「濁り」を、好みの風味だと思ったのはいつだっただろうか。
     気づかぬうちに、俺はチェズレイの持つ無二の風味に愛着を覚えていた。どうしようもない悪党ではなく、血の通った情を持つ男を、守らなければならないと思うようになった。こんな男に、碌でもない自分を殺させたくないと思った。
     DISCARDとの決着がつき、「これからどうするのか」とチェズレイに問うた時。心の中では「どうしたらこいつと共にいられるか」と思考を巡らせていた。
     十年間拗らせた濁りの元凶を失った相棒は、この先どうやって生きていくつもりなのか。死ぬつもりはないと言っていたが、その行く先を見守っていたかった。
     なにせ体を張ってまで自分の生き方を示してくれた恩人だ。その恩人が人生の転機を迎えるにあたり、どんな道を選ぶのか、自棄になってしまわないか、チェズレイなりの幸福を掴み取れるのか。お節介だとは思いつつも気掛かりだった。
     この先どこに行くのか迷っているなら一緒に放浪してみないか、と誘うもよし。
     行き先が決まっているのならば、同行を願い出るもよし。
     それを拒否されれば勝手について行くだけだと、そう思っていた。
     ……なるほど、これが濁りっちゅうやつか。
     自分の中にいつの間にか芽生えていた気持ちの正体に、そこで気づいた。
     俺は今まで、この感情のことを「恋」だと思っていた。けれど相棒に合わせて言うのならば、これは「濁り」なのだろう。
     その後は、奇しくも相棒の方から同道を申し出られ、指切りをすることになった。
     相棒は夕陽の海で、笑いながら涙を流していた。
     橙に染まる頬を眺めながら予感した。この濁りは、深く、果てしない。芽吹いたばかりの小さな濁りは、この先どんどん育っていく。
     約束を交わした時に言った「ラクできそう」などという言葉は、結局大嘘もいいところだった。
     相棒の野望を叶えるために日夜闇の世界を駆けずり回っているし、相棒を勝手に守るために本人の同意も得ず暗躍したこともあった。
     こんな苦労をわざわざ買って出るのも、全ては濁りのせいだ。
     ――心が報われるたびに濁りも重みも増していく、そういう毎日を送ったらいい。
     その言葉が、そっくりそのまま自分に返ってくる。
     今回の別離で、この濁りはより一層重たさを増した。自分ひとりで抱えるのがしんどいほどだ。体力には自信がある方なのに。
     チェズレイと夜行列車の中で再会し、避難した山小屋で相棒のボロボロの体を直視した時、涙が込み上げた。
     約束を破り、黙って出て行ってしまった相棒への憤り。
     守れなかったことへの悔しさ。
     傷ついた相棒への悲しみ。
     そして俺の濁りに全く気づいていなかった相棒への怒り。
     全部が綯い交ぜになった雫は、血の気が引いて真っ白な相棒の体を濡らして消えた。
     どうやらこの男は、本気で俺が自分を追ってこないと思っていたようだった。四六時中そばで過ごした一年半、俺がチェズレイに向けていた気持ちは、本人に少しも伝わっていなかった。あの約束があるから共にいるのだと、そう思われていた。
     軽くみられたもんだと怒りが込み上げる。こちらはとっくに濁りきっているというのに。
     お互い交わす言葉は多いのに言葉遊びだらけで、直接的な言葉を言ってこなかったことが一因ではある。
     けれどこの男には、言葉で何を伝えても伝わらないのではないだろうか。そんな疑問も過ぎった。
     チェズレイの母親が息子に与えた愛情は、間違いなく本人に伝わっていたのに、チェズレイはその情を心から受け止めきれていなかった。自分を彼女の仇だと言い、彼女の枷だったと言った。彼女にとってチェズレイは、仇でも枷でもなく、愛する一人息子だったというのに。
     もしもチェズレイが、他人からの愛情を信じられないだとしたら。
     どんな言葉をかけても、どんな態度で示しても伝わらないのだとしたら。
     眠るチェズレイの右手を握る。その手は睡眠時だというのに、真っ白な手袋に守られていた。
     濁った俺が取るべき道はひとつしかない。この先も相棒に同道し、生涯守り切る。
     この手を、もう二度と離すつもりはない。
     長い放浪の末にようやく得た幸福を。
     まあ、長いと言ってもこれから死ぬまでの時間よりは短いはずだ。それまでには、この鈍い相棒も気づくだろう。自分の相棒が、体の中までどろどろに濁りきっているということを。


    「……ニコルズ様、エンドウ様。お休み中のところ申し訳ございません」
    「へっ?」
     慌てて体を起こすと、個室の扉越しにCAから声を掛けられていた。
    「ご朝食の準備をさせていただいてよろしいでしょうか?」
    「あっ、ああ、はい」
     いつの間にか眠ってしまっていたようだ。シートに腰掛けたままベッドに突っ伏していたせいで、体が怠い。日課のストレッチをするにも、この空間はさすがに狭すぎた。
     そこでハッと気づく。
     紫の瞳が、ジッとこちらを見ていた。寝床から体を起こし、それはそれは恨みがましい目つきで。
    「モクマさァん……」
    「おっ、おはよ、ダーリン。よく眠れた?」
    「ええ。ハニーがしかと手を握ってくれていたお陰で、ぐっすりと」
     慌てて手をパッと離す。どうやら寝ている間中、ずっと手を握りっぱなしだったようだ。
    「あなた、嘘はつかないとおっしゃいましたよねェ……」
    「す、すみませんでした……」
     こんな調子では、俺の濁りなんて一生信じてもらえないかもしれない。先が思い遣られる、とがっくり肩を落とした。
     ……まあ、気長にやっていけばいい。人生はまだまだ長いのだから。
     チェズレイが公共の場所でもこれほど熟睡できるのなら、CAにはギリギリまで寝かせてもらうよう頼んでおくべきだったかもしれない。そう思ったところでもはや後の祭りで、チェズレイは洗顔のため席を立ち、CAはてきぱきと寝床を片付け、朝食のサーブを始めた。
     最初にカットフルーツ、その後スクランブルエッグやベーコンのプレートが出てきた。ラグジュアリーホテルの朝食のようだった。ちなみに昨夜の夕食で選ばなかったメニューの提供も可能だと言われたが、その夕食すら消化しきれていない気のする胃に従って遠慮しておいた。
     チェズレイも、夕食に続いて朝食も黙々と平らげている。最後にデザートのヨーグルトが運ばれてきた。
    「おっ?」
     俺のテーブルに置かれた皿を、チェズレイが長い腕でひょいと取り上げる。
    「嘘をついた罰として、これは没収です」
     そう言って、チェズレイは二人分のヨーグルトをぺろりと平らげてしまった。めずらしい姿につい呆気に取られる。そして我慢しきれない笑みが零れた。
     食べることは、生きることだ。死ぬ気などさらさらないと言った相棒が、その口で食物に食らいついている。嬉しく思わないはずがない。
    「……そのように嬉しそうにされては、取り上げた甲斐がありませんねェ。執着のないものを奪ったところで、罰にはならない」
     チェズレイはやれやれ、と肩を竦めた。そんなことは、最初からわかっていただろうに。
    「そもそも俺が執着してるもんなんて、そんなにないよ。生きることと……」
     あの鍾乳洞でチェズレイが目覚めさせたのは、生への執着。そして、もうひとつ。
    「生涯の相棒くらいだ」
     俺が茶化すとでも思っていたのだろうか。チェズレイは目をまん丸く見開いていた。
     伝わらないのなら、伝えなければならない。矛盾している。
     けれどもう言葉を出し惜しむつもりはなかった。
    「もう二度と、俺からお前を取り上げんでくれ」
     はっきりとそう告げた時。チェズレイは、あの時と同じ表情をしていた。
     山小屋で俺の濁りについて語った時と同じ、真顔。それがどういう感情なのか聞いても、結局はぐらかされてしまった。
    「……それは、私への罰のつもりでした」
     相棒である俺の元を離れ、ひとりでタチアナの元へ行き、ヴィンウェイ国内を掌握すること。推定一年九ヶ月の別離が、約束を破ったチェズレイにとっての罰であり、けじめだった。
    「でもさ、お前は自分の体の痛みも罰だと思ってるんだろ。お前は希死念慮がなくとも、ちと自罰的すぎる。そろそろ痛み止めを飲んじゃくれんか」
     これまでチェズレイは、痛み止めを飲むよう勧めたところで一向に飲もうとはしなかった。今また薬を差し出したが、やはり受け取る気配はない。
    「罰が重すぎるって言ってるんだ」
    「私は約束を破ったのに、結局あなたに救われてここにいる。命と人生にまつわる約束を破ったことへの罰にしては、軽すぎます」
    「俺はそんなこと望んじゃいない。言ったろ。約束だの美学だのじゃ、はかれない情もあるって。約束を軽視するつもりはない。でも俺との約束のために、お前が自分自身を苦しめる必要はないんだ」
     母国では変装しないという美学については、母親の姿を借りた時に破っていた。約束だって同じだと、約束に固執せずとも俺は消えたりしないということを理解したチェズレイならば、わかるはずだった。
     それでも頑なに俺の言葉を受け入れようとしないのは、心が理解することを拒んでいるせいだ。それでも俺は、この馬鹿で律儀な男がどうしようもなく愛おしいのだ。
    「やっぱりずっと真顔なんだな。どうしても納得できないなら……そうだな、確かにお前さんが俺との約束を破ったのは事実だ。それが腹落ちせんっちゅうなら、俺からひとつ罰を与えてもいいかい?」
    「ええ、どうぞ。何なりと」
    「目ぇ瞑って」
     チェズレイは素直に目を閉じる。
     頬に落ちる、濃いまつげの影。
     まぶたと一緒に閉じた唇に、そっと唇を寄せた。
     柔らかさを感じたのは、ほんの一瞬だった。すぐに体を戻すと、ばっちり開いた紫の瞳と目が合う。
    「……食後の歯みがきをしていません」
    「あ~、まあ口ん中までどうこうしてないから」
    「下衆が」
     チェズレイは盛大に顔を顰めた。
     こっちは「そんな感想?」といささか拍子抜けではある。もっと腹を立てるか、口も聞いてくれなくなるかと思っていた。
    「……まァ、下衆にしては手心を加えてくださったわけだ」
    「そう? リハビリの済んじゃいないお前にとっちゃ、これでも結構キツいんじゃないかと思ったんだが」
    「引っ倒すとおっしゃったでしょう」
    「あ~……まあ、これはおじさんのお駄賃的なもんでもあったんでね」
     シンジケートの情報を掴み、単身見知らぬ国へ乗り込んで、囚われの相棒の元へ駆けつけたのだ。このくらいの褒美は許してもらいたい。
     シートに姿勢よく腰掛けていたチェズレイが、次第にずるずるとシートからずり落ちていく。何事かと思って覗き込めば、口元を両手で押さえたチェズレイの頬は真っ赤に染まっていた。
    「あァ、何故でしょう。あなたからの罰が、遅効性の毒のようにじわじわ心を蝕んで……今にも心臓が爆発してしまいそうだ」
    「っ……はは。ああ、そうかい。実は俺も」
     たかがふれるだけのキスだ。しかも相手は恋愛感情なんて理解しちゃいない。それなのに今なら空も飛べそうなほど、俺の心は舞い上がっていた。
     だというのに、チェズレイは怪訝そうな目で俺をじっと見つめている。
    「言ったろ。俺だって濁ってるんだ。お前の濁りとは、ちょっとばかし違ってるのかもしれんが。……それとも、濁ってる俺は相手に出来んかい?」
     初めてチェズレイの濁りにふれた時の言葉を、そのまま返す。
     過去の己の言葉に気づいたチェズレイの表情が、はっと和らいだ。
    「……いいえ。濁りもまた、風味なのでしょう。今の私は、濁りも悪くないものだと思っています」
    「そう。そりゃ奇遇だねえ。俺も濁り派なんだ」
     笑ってみせると、チェズレイも眉を下げて笑った。
     酒の濁りも泥の濁りも、一言で言えば全て濁りで、けれどその性質は全て違っている。俺の執着と、チェズレイの執着。その本質は違うのかもしれないが、結局、進むべき道は同じだ。
    「さて、これでお前はもう自分を責めなくていい」
     もう一度痛み止めを差し出すと、チェズレイは真顔を崩さぬままようやく薬を受け取る。そしてグラスのミネラルウォーターで一気に飲み込んだ。
    『この飛行機は、ただいまからおよそ二十分で××国際空港に着陸する予定でございます。ただいまの時刻は午前6時、天候は晴れ。気温は摂氏24℃でございます』
     機内アナウンスが聞こえ、CAからシートベルトの着用を促される。
    「へえ、24℃! いいねえ、暖かそうだ」
    「到着すれば、いよいよあなたのご家族と感動のご対面ですねェ」
    「何言ってんの、病院行くのが先だよ。家族に会うのはその後でいい」
     きっぱりと言えば、チェズレイは不満げな表情を隠さなかった。
    「怪我治して、ちょっとゆっくりして、俺の家族の家まで行くのは、それからにしよう。俺はピカピカでキラキラの自慢の相棒を、胸張って親に紹介したいんだ」
    「それはそれは。ますますあなたがかすんでしまいますねェ」
     体をボロボロにするほどの無謀な逃亡生活は、国宝級のキューティクルの輝きも鈍らせてしまっていた。南の国のいい感じのヴィラなんかでのんびり療養して、髪もケアして、真っ直ぐな美しい立ち姿のチェズレイ・ニコルズが戻ってきた時。それが両親へ挨拶に行く最良のタイミングだろう。親不孝な息子があと数日の不義理をするくらい、草葉の陰の親父も許してくれるはずだ。
     眩しいほどにひたむきに大きな夢を追いかける相棒。あの決戦の後、道に迷ってしまわないかという俺の心配なぞ杞憂だった。
     シートベルトを締め、窓のブラインドを上げる。外には夕焼けと見紛うような、紫とオレンジのグラデーションが広がっていた。
     罰の時間はもう終わりだ。全てを暖かく包み込む南国の空気が、俺たちを待っている。

    〜〜〜〜〜

    (読まなくていいあとがき)

    忍恋2開催おめでとうございます〜!👏👏👏

    ヴ愛でモクマさんが、自分が濁ってる自覚がある(のに相棒が気づいてない)ことがめちゃくちゃ刺さったんです…………
    ちょっと消化不良なのでどこかでまたじっくり書きたいんですけど、一旦南国行きの飛行機に乗せてお届けしました。
    (全くそんな話出てこないけどマレーシアとかシンガポールあたりで想定してました)

    あとチェズレイに痛み止めをちゃんと飲んでほしかったので……😂

    元々普通にビジネスクラスでプロット作ってたのに、もくりで「スイートがいいです!」って言ってもらったお陰で人目を忍んでキスができました。
    モクマさんに代わって感謝申し上げます🙏

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    recommended works

    💤💤💤

    INFO『シュガーコート・パラディーゾ』(文庫/152P/1,000円前後)
    9/19発行予定のモクチェズ小説新刊のサンプルです。
    同道後すぐに恋愛という意味で好きと意思表示してきたチェズレイに対して、返事を躊躇うモクマの話。サンプルはちょっと不穏なところで終わってますが、最後はハッピーエンドです。
    【本文サンプル】『シュガーコート・パラディーゾ』 昼夜を問わず渋滞になりやすい空港のロータリーを慣れたように颯爽と走り去っていく一台の車——小さくなっていくそれを見送る。
    (…………らしいなぁ)
    ごくシンプルだった別れの言葉を思い出してると、後ろから声がかかった。
    「良いのですか?」
    「うん? 何が」
    「いえ、随分とあっさりとした別れでしたので」
    チェズレイは言う。俺は肩を竦めて笑った。
    「酒も飲めたし言うことないよ。それに別にこれが最後ってわけじゃなし」
    御膳立てありがとね、と付け足すと、チェズレイは少し微笑んだ。自動扉をくぐって正面にある時計を見上げると、もうチェックインを済まさなきゃならん頃合いになっている。
     ナデシコちゃんとの別れも済ませた今、ここからは本格的にこいつと二人きりの行き道だ。あの事件を通してお互いにお互いの人生を縛りつける選択をしたものの、こっちとしてはこいつを離さないでいるために賭けに出ざるを得なかった部分もあったわけで、言ってみれば完全な見切り発車だ。これからの生活を想像し切れてるわけじゃなく、寧ろ何もかもが未知数——まぁそれでも、今までの生活に比べりゃ格段に前向きな話ではある。
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