Bread and Butter 意識が薄らいでいく。
ーード・レ・ミ……
美しい男が奏でる音階が、耳から流れ込み、脳へと塗りたくられる。
私は罪を犯した。これはきっと、その報いなのだ。
-・-
パンが焼ける香ばしい匂いに抗える人間などいるだろうか。それはさすがに言い過ぎだとしても、美味しそうな香りが漂ってきた方向へ引き寄せられてしまうのは、モクマという男の習性のようなものだ。
港町のはずれに店を構える小さなベーカリー。外壁に書かれた店名以外には目立った看板こそ出ていなかったが、焼き立てパンの幸福な匂いが絶大な広告効果を担っていた。
今朝も、最近の日課であるランニング中にふらりと立ち寄る。客の来店を告げるベルに、焼き上がったばかりのパンを並べていた店主が顔を上げ、眦に皺を寄せた。
「いらっしゃいませ」
「やあ、おはようさん」
クロワッサン、白パン、シナモンロール、りんごのデニッシュ、そしてふわふわの食パン。目に付いた品をひょいひょいとトレイに乗せてレジカウンターまで運ぶと、店主はひとつひとつ丁寧に紙袋に詰めてくれた。
「今日もどれもうまそうで、迷っちまったよ」
「いつもご贔屓にしていただいて、ありがとうございます」
必ず買うのは、この店の看板商品でもあるシンプルな食パンだ。甘さ控えめの菓子パンも、店主の手作りだという惣菜パンも、どれもモクマの気に入りだった。
この港町は国内有数の観光地で、街中に出れば有名チェーンのブラッスリーや、港から発着するクルーズ船に商品を卸している企業も数多く存在している。そんな中、街の片隅で老いた男がひっそりと営んでいる素朴なパン屋を気に入ったのは、味ももちろんだが、店主の人柄によるところも大きかった。
つい先週、魅惑的な匂いに惹かれてふらりと立ち寄ってからというもの、ほとんど毎日通いつめているうちに、物静かな店主とも次第に親しくなってくる。
「そういや、今日はなんだか街がそわそわしてる雰囲気だねえ」
「ああ……今日は、この国の建国記念日なんですよ」
「へえ、そりゃあめでたい。もしかして、何かイベントがあったりする?」
「夜になったら、国中で花火が上がります。この街の花火は首都と同じくらい大規模で、国内外から人が押し寄せて、朝から賑やかなんですよ」
その割に、町外れにあるこのベーカリーはいつも通り……というか、静かすぎるほどだった。
「その花火ってどこで上がるんだい? 港の方かな?」
「ええ、そうです。もしお家の方と見に行かれるようでしたら、穴場をお教えしましょうか」
「えっ、ほんと? 是非ぜひ~!」
「人がいないので、祭りのムードには欠けますが……それでよければ」
「ありがとね。連れを誘ってみるよ」
カウンターに置かれた電話のそばのメモ用紙に、店主が地図と時間を書き付ける。今の根城にしている一軒家からそう遠くない、住宅街を見下ろす丘の上だった。
「……あ、もしかしておやじさんもここに花火見に来るのかい? 俺たちが賑やかにしちゃ悪いかな」
「あ……いいえ。私は」
「もしかして、俺たちに遠慮してくれるつもりだったとか?」
「いえ……昔は毎年、家族で見ていたんですが、家内に先立たれて、娘夫婦も都心に越してしまって……ここ数年は見に行っていないので」
「ありゃ、そっか。そんじゃ、俺たちが同伴して良きゃ、せっかくだし一緒に見ようよ。場所取りはやっとくんでさ」
「……今夜は、用事がありまして」
恐縮するように口籠もる店主の様子に、これ以上追及するわけにもいかず、モクマは「そいじゃ仕方ないね」と引き下がった。
紙袋をひょいと持ち上げ、ドアの方へと踵を返す。
「祭りなんかの賑やかな日は何かと物騒だから、おやじさんも気ぃつけてね。……光あるところに闇あり、ってね」
そして店を後にする。古びた建物のドアは、やたらと大きな音を立てて閉まった。
こんがりと焼き目のついた食パンに載せるのは、たっぷりのバター。あつあつのパンの上でバターがじゅわりと溶けたところで、ひとくち。カリッと小気味よい音を立てながら、チェズレイはパンの耳に齧り付いた。
「……おっ、このデニッシュもうまいなあ。チェズレイも食べる? おじさんの食べかけだけど」
「そうですねェ。少しいただけます?」
「ほいきた。はんぶんこしようね」
「あァ……デニッシュ生地ですから、ボロボロとテーブルや床の上にこぼさないよう気をつけてくださいね。あなたは子どもではないのですから」
「おっ、おう……急にミッションの難易度が上がったな」
チェズレイの指示通り、さくさくのデニッシュを皿の上で慎重に分ける。どう考えてもナイフを使った方が早いのだが、そこがモクマの無精さだ。几帳面な相棒が咎めないので、許容範囲ではあるらしい。
最近の仮面の詐欺師は、この国で進めている世界征服の作戦遂行で忙しく、落ち着いた食事の時間もろくに取れていない。そのため、調理の手間がかからないパンを好んで食べていた。
今朝は、作戦上での保護対象者が落ち着いているお陰で、久々にふたりでゆっくりと食卓を囲んでいた。焼き立てのパンに、濃いコーヒー。ダイニングの窓から差し込む温かな日差し。相棒とふたりで過ごす最高の朝だ。
「あー、ところで、チェズレイさんや」
「なんです?」
「今晩、いかがでしょう?」
明け透けな言葉で誘いをかければ、今まで美味しいパンに緩んでいた頬がひくりと引き攣った。
「あいにく現在の作戦下において、この身はあなただけのものではありませんので……下衆からの下世話な誘いはお断りします」
「あ~っ、待った待った! 違うの、仕切り直しさせてちょ! 今夜、ちょいとおじさんとデートしてくんないかなって話なんだけども」
「だったらいかがわしい言い回しなどせず、最初からそう誘えばよろしい。……行き先は、今宵の花火大会でしょうか?」
「さっすがチェズレイ、よく知ってるねえ」
「お断りします」
結局すげなく断られ、がっくりと肩を落とす。
「私たちはこの大陸を制圧するための重要な作戦中……花火大会などに現を抜かしている暇はありませんので」
「うう……あのね、お前さんは花火とかあんまり興味ないかもしれんけども、パン屋のおやじさんに穴場を教えてもらったんだよね。せっかくだし息抜きにどうかなって。おやじさんの方は、用事があって行けないって話だしさ」
「……おや、そうでしたか。ちなみに、店主殿の用向きは何と?」
「さすがにそこまで聞いちゃないけども、何か神妙な様子だったよ。おやじさん、あんまり表情に出ないタイプなんだけどね」
食パン一枚とクロワッサン一つ、そして半分のデニッシュまでぺろりと平らげたチェズレイが、ブラックコーヒーを一口呷る。カップをソーサーに戻し、優雅な笑みを浮かべた。
「わかりました。デートのお誘い、お受けしましょう」
「えっ、ほんと!? いいの!?」
「ええ。楽しい夜にしましょうね、モクマさん」
-・-
「――光あるところに闇あり、ってね」
退店する常連客の背を見送り、店主は頭を下げた。
彼が去り際に言い残したフレーズを、どこかで聞いた台詞だと思ったが、あいにく思い出せなかった。
観光もビジネスも盛んなこの国でも、不穏な事件は日々起きている。先日は老実業家が毒殺されたニュースが話題になったばかりだ。今は小康状態だが、隣国のマフィアとの小競り合いもたびたび勃発する。今日のような祭りの日は、街中が明るく華やぐ一方で、暗がりでどんな事件が起こるかわからなかった。
最近できた常連客は、不思議な男だった。
彼はいつも様々な種類のパンを、気まぐれに、大量に買っていく。パン職人としても、腕の奮い甲斐があるというものだ。先週、初めて店にふらりと訪れてからは、ほとんど毎日来店してくれている。早朝のランニングが日課らしく、そのついでに立ち寄っているそうだ。
男は「モクマ」と名乗った。気さくな男で、最初に話しかけてきたのもあちらからだった。聞き馴染みのない響きの名前に、小柄な体格。旅行者かと思っていたが、仕事の都合でこの国に移り住んだショーマンだと聞いた。港の近くの劇場で行われているショーに出演中で、白髪の量は初老の自分と負けず劣らずだが、まだ不惑を過ぎたばかりの現役世代だった。
モクマが店に訪れて何度目だっただろうか、彼の同居人の話になった。彼は毎度様々なパンを買っていくが、看板商品の食パンだけは毎日欠かさず買ってくれていた。口に合いましたか、と珍しくこちらから話しかけてみれば、モクマはぱっと表情を変えて言った。
「いやあ、うちのがね、いたく気に入ったみたいで」
その話をする時の、彼のうれしそうなことといったら。初めてハニートーストを食べた時の孫娘のように目尻がとろけていた。
うちの、という呼び方から察するに、相手はきっと奥方なのだろう。普段買っていくパンの量から、おそらく独り身ではないのだろうとは想像していた。いまや職業も知る間柄となったが、彼の飄々とした自由な雰囲気から、『うちの』と呼ぶほど気安い誰かと暮らしているイメージが結びつかなかった。この流れ者めいた男の連れ合いはどんな人なのか。いつか一目会ってみたいものだと思っていたので、正直なところ、先ほどの花火の誘いも魅力的ではあった。
昼食のパンを買う人々で店が賑わう午前の時間帯を過ぎ、午後に売る分のパンを焼くため工房に入る。自分一人でパンを焼き、焼いたパンを売るという一人二役の運営は大変だが、幸か不幸か、猫の手も借りたくなるほど店が混雑するということもない。工房にいる時にも、来客の際には、ドアに取り付けたベルが役立ってくれる。
「……ああ」
窯の中からパンを取り出すと、表面が黒く焦げ付いていた。どうも粉の配合を間違えていたらしい。何十年、何百回、何千個と作ってきた食パンだというのに。
今夜の予定で気もそぞろだからだ、と肩を落とす。
だが店の電話がけたたましく鳴り響き、はっと顔を上げた。
『――もしもし、お父さん?』
「ああ……お前か。久し振り」
『元気? 体調はどう? 独りでやっていけてる?』
「心配ないよ」
『ねえお父さん。今日の花火、やっぱりそっちで見たいの。旦那と子どもたちも連れて……いつも家族で見ていた、あの場所で。お父さんも、』
「……すまないが、店が忙しいんだ。とても花火なんて見に行けない。お客さんが来たから、もう切るよ」
『嘘よ、ドアのベル、鳴ってないじゃない。お店なんて一日くらい休めばいいでしょ。ねえ、お父さ――』
男は静かに受話器を置いた。
夜になると、港町は煌びやかなイルミネーションと月明かりに彩られ、建国を祝う人々は大いに賑わっていた。
街はずれにある小さなベーカリー、その裏路地。とうに店じまいをした店の裏口に、店主が静かに佇んでいた。
腕時計を確認すれば、時刻は二十時。あと三十分ほどで花火の打ち上げが始まる頃合いだ。
待ち人はもうじき現れるはずだ。花火が打ち上がる港の周辺はごった返しているのだろうが、こんな街外れには花火客どころか警備にあたる警官の姿もない。表通りにちらりと視線を投げると、店の前に業者のバンが停まった。
車から降りてきた男二人に「……ご苦労様です」と声を掛ける。男たちは荷台に回り、降ろした小麦粉袋を軽々と担ぎ上げ、店主の前を無言で通り過ぎた。
裏口は店の倉庫へと繋がっている。中には毎日使う小麦粉などの材料を蓄えてあった。店主が施錠していたドアを開けると、男たちは無言で中へと荷物を運び込む。
数分後、男たちが倉庫から出てくる。外で待っていた店主の前を通り過ぎる際にも、また同じ袋を肩に担いでいた。
「……散りゆく哀れな者たちに、」
ふいに、どこからか男の声が聞こえた。
上か? はっと辺りを見回す。その頃には、なぜか荷運びの男が一人、地面に倒れ伏していた。
「なっ……!? 一体どこから……ぐぁっ!」
もう一人の男も、暗がりから飛んできた何かに素早く攻撃され、あっけなく倒れる。呆然としている店主の前に、闇の中から一つの影が躍り出た。
「咲かせてみせよう、彼岸花……な~んちってね。パン屋の倉庫に小麦粉を納品した……にしちゃあ、帰りも荷物担いでるのは、ちょいとおかしいよね。この袋の中身、検めさせてもらってもいいかい?」
怪しげな黒ずくめの男が、地面に投げ出された袋の中身を確認して「ビンゴ」と呟いた。
「粉を隠すなら粉の中、ってのは考えたな」
「けっ……警察か……?」
「まさか。こんな格好のおまわりさんがいたら、世も末だよ」
立ち上がった男は小柄で、闇夜に紛れるように全身黒ずくめの装い。首元に巻いたマフラーが、路地裏に吹く夜風に靡いていた。
……ニンジャ。銀幕のヒーローの姿が脳裏をよぎる。
だが、麻薬の取引に関わった人間を成敗する正義のヒーローにも見えない。
「じ、じゃあ……別の組織の手の者か……?」
この国の裏側には、多くの闇組織が巣くっている。一般市民に危害が及ぶことは稀だが、時折組織同士が争い、小競り合いを繰り返してきた。袋の中身を……麻薬の存在を知り、横取りしようと企む組織が出てきても、おかしくはない。
「ま、そうだねえ。世界征服を企んでる新勢力……ってとこかな」
次第に明るくなっていく男の声のトーンに、どこかで聞いた声だと気づく。
「あ、あんたは……」
男の正体に言及しようとした時、コツ、コツ……とかかとの鳴る音が路地裏に響いた。
こんな場面を、無辜の市民に見られたらまずい。
焦って振り向き、信じがたいものを目の当たりにする。
月明かりが差し込むだけの、街灯のない薄暗い路地。それでもわかる。目の前に立っている男の、目も覚めるような美貌。
「ごきげんよう。ベーカリーの店主殿」
一つに束ねた長い金髪が、おぼろげな月明かりを反射して輝いている。すらりと伸びた長身から、どうやら男だと知れた。
ニンジャと同様に、彼も黒いコートをまとっている。どちらも一目で堅気ではないと知れる風貌。店主は重いため息をついた。
「……目的は、その荷物だろう。好きに持って行ってくれ」
「まァ、そちらの中身の販売ルートにも興味はありますが。あいにく私が興味があるのは、店主殿。あなたなのですよ」
「えっ……?」
店主が戸惑っているうちに、仲間同士らしい黒ずくめの男たちは、何やら雑談を始めていた。
「あーあ、妬けるねえ」
「フフ、突然何を言い出すやら」
「デートだと思ってウキウキしてたのに、まさか別の男のとこに寄り道したいだなんてさ」
「何をおっしゃる。情報をくださったのはあなたではありませんか。今夜、ここが麻薬取引の現場になるのだと」
「うーん? 俺、そんなこと言ったっけ? デートに誘った覚えしかないんだけども。まあ、おやじさんが何か用事あるみたいって世間話はしたけども」
つい先ほどまで、この場は糸をピンと張り巡らせたような緊張感に包まれていたはずだ。にもかかわらず、ふたりは寄り添い合うように痴話喧嘩を繰り広げている。……まるでデートスポットでも人目を気にしない恋人たちのように。
呆気に取られたまましばらく見守っていたが、男の口調がくだけていくうちに、その正体に確信を得る。モクマだ。口元をマスクで覆っていて顔は見えないが、無造作な白髪には見覚えがある。先週から常連になった中年の男。
……じゃあ、彼と仲睦まじげに話している相手は。こんなに若くて美しい男が、彼が一緒にパンを食べてくれている、大切な家族だというのか?
長身の男と、小柄な中年。対照的な見た目に反して、会話を交わすふたりはどこか楽しげだった。
だが突然、ふたりがぱっと体を離す。
店主の目には、何が起こったのかわからなかった。
「ブレッド・アンド・バター」
長身の男が呪文めいた言葉を唱えた瞬間、ふたりのすぐそばに荷運びの男が一人、倒れていた。さっき一度ニンジャに倒されたはずの男だった。
まるで魔法のような出来事だった。どうやらニンジャが目にも留まらぬ速さで、また襲いかかってきた男を撃退したらしい。彼の手には、いつの間にか物騒な鎖鎌が握られていた。
「無粋な輩もいたものですねェ。あなた、ちゃんと仕留めていなかったのですか?」
「いやあ、ちょいと手加減しすぎちまったみたい。最近はあんまり荒事っぽい仕事もなかったしね」
言いながら、ニンジャは荷運びの男たちをしかと縄で縛り上げた。
「では、さっさと用事を済ませて、お待ちかねのデートとまいりましょう」
美しい顔がくるりとこちらを振り向く。月が美貌を照らす。その左目には花が咲いたような紋様が浮かんでいた。
「店主殿。売人も無事に取り押さえましたので、この先は我らの領分」
こちらへ歩いてくる美形から逃れるように後ずさるが、背後は建物の壁だ。すぐに倉庫のドアに行き当たる。
「なっ、何を……」
「少々体の自由を奪わせていただくだけですよ。さァ、私の声に耳を傾けて……」
ド・レ・ミ……
美しい男が奏でる音階が、耳から脳へと流れ込み、意識を塗り潰していく。
私は罪を犯した。麻薬の存在に目を瞑り、悪事の片棒を担いだ。これはきっと、その報いなのだ。
ぐったりと弛緩した体を、ニンジャの背に負ぶわれたのだということまではわかった。自分も男にしては小柄な方ではあるが、成人男性一人を担いでいるはずのニンジャは、重力を物ともせず夜の帳と祭りの喧騒の中を駆け抜けていく。どこへ連れて行かれるというのか。手足はぴくりとも動かなかったが、まだ両の目はしっかりと見えていた。自分はいったい何をされたのだろうか。……このまま意識を手放して、息絶えるのだろうか。
朦朧とした意識が絶望を見出した瞬間、突然ニンジャの足が止まった。「ほいっ。ニンジャ便、到着~」などというのんきな声が耳に届いたが、かろうじて留めていた意識も、もうほとんど虚ろだった。周囲は真っ暗闇のようだが、果たしてこれは自分の目が映しているのか、それとも。
自分はただのパン屋だったはずだ。悪事に巻き込まれてしまった、不運なパン屋。ここで終わりなのか。家族にも会えないまま。……薄れゆく意識とともに、男は静かに涙を零した。
ドン!
大きな音が耳を劈いた。
唐突に意識が清明になる。胸に轟く音とともに、夜空に大輪が咲く。
――花火だ。
はっと体を起こし、立ち上がる。ほんの少しだけ、自分と夜空との距離が近づいた。そもそもこの場所は、どうやら普段暮らしている街中よりも、わずかに空に近い。
……ああ、そうだ、ここは。
今、自分がいる場所に気づいた瞬間。
「お父さん!」
知った声に振り向くと、娘夫婦がいた。
昔、毎年一緒に家族で花火を見ていた、思い出の丘の上に。
「ほんとに来てくれたのね。あの後また電話もらってから、私たち急いでここまで来たのよ。久し振りに会えてうれしいわ!」
「え? あ、ああ……」
電話とは何のことだろうか。
……そもそも何故、自分は娘を実家から遠ざけようとしていたのだっただろうか。
質問する相手を見つけられないまま、また花火が盛大に打ち上がる。どうしてここにいるのか、いつここまで歩いて来たのか、何も思い出せない。
――いいや、そんなことよりも今は、家族との時間を楽しもう。そうするべきだと、誰かが囁いてくれた気がした。
大輪の花々が咲き乱れ、散っていく。散りゆく花々を見ているうちに、嫌なことがひとつずつ消え去っていくようだった。
花火鑑賞を終えた帰り道。せっかくだからと、屋台が出ている港の周辺を散策することになった。両親たちと夜遊びができるとあって、小さな孫娘は大喜びだ。
街中に入り人通りが増え、はぐれないようにと手を繋いでいた父親と子どもが、ぱっと手を離した。ちょうど目の前から通行人が歩いて来たところだった。
「ブレッド・アンド・バター!」
はっ、と目を瞠る。どこかで聞き覚えのある言葉だった。
呪文を口にした孫娘が楽しげに笑っている。あれは……と口にすると、隣を歩く娘が苦笑しながら教えてくれた。
「おまじないよ。本当はカップルがするんだけど……ふふっ。手を繋いでて、ちょっとだけ離さなきゃいけない時にね、すぐにまた繋がれますようにって唱えるの」
ほっそりとした手が、皺だらけの手を取る。そしてぎゅっと繋いだ。また手を繋いで目の前を歩いている娘婿と孫娘のように。
誰かと手を繋ぐのは久し振りだった。もちろん、娘とも。娘がまだ小さかった頃以来ではないだろうか。
「お父さんの手、大きくて温かくて、子どもの頃から大好きだった」
今はちょっと皺が増えたね、と言う娘の笑顔は、まるでバターのように柔らかく、優しくとろけていた。
-・-
――10月×日夜20時半頃、男二人が麻薬取引の容疑で逮捕された。二人は麻薬密輸組織の構成員で、警察署の前で意識を失っているところを、同署の警察官が発見した。警察は、二人から組織について詳しく取り調べを行っており、……
「チェ~ズレイ、パン買ってきたよ。朝飯にせんか」
「あァ、これは失礼。ありがとうございます、モクマさん」
紙袋片手にダイニングに入ってきたモクマに目を留めると、チェズレイは読みかけの新聞を丁寧に折り畳み、近くのマガジンラックへと立てかけた。
ふたりで手早く食卓を整える。手袋を外した細身の手が、トーストしたばかりのパンへと伸びた。
「にしても、昨夜は大盤振る舞いだったねえ」
「何がです?」
「あのパン屋のおやじさんだよ。わざわざ例の穴場まで送り届けてやってくれ、なんてさ」
「おや。てっきり昨夜のデートの話かと思いましたが」
「はは。まあ昨日の花火もド派手で綺麗だったけども」
勧められた穴場を店主とその家族に譲ったふたりは、結局自家用クルーザーで海上に出て花火鑑賞を楽しんだ。港は観光客でごった返していたが、海に出てしまえば船の上はふたりきりの空間だ。祝賀の花火は、作戦成功後にふさわしい華やかさだった。
「娘さん夫婦のことあそこに呼んだのも、お前さんがやったんでしょ。おまけに、おやじさんの記憶まで消しちまった。昨夜だけじゃなく、麻薬密輸組織に関わってた記憶をまるっと」
声帯模写は仮面の詐欺師の特技だ。チェズレイはパン屋の店主に成りすまし、娘夫婦をこの街へと呼び出した。
モクマの訳知り顔をスルーして、チェズレイは優雅にパンを頬張る。
「そうですねェ。日々の鬱憤も消し去ってしまうような、素晴らしい花火でしたから。……今朝の店主殿の様子はいかがでしたか?」
「元気そうだったよ」
チェズレイはあくまでも人助けを認めないようだ。悪党としての矜持なのか、それとも単に照れ隠しなのか、こうした善行と言える行為をわざわざひけらかさないところがある。
「しかし勝手に人んちの倉庫を借りるなんて、ろくでもない輩もいたもんだ。無事にお縄についたて何よりだよ」
「そこはニンジャさんの活躍あってこそですがね」
あのパン屋の倉庫は、麻薬密輸組織の構成員によって麻薬の保管庫にされていた。本人の知らぬ間に工房に侵入され、数年前に偶然不審な男と鉢合わせてから、脅されて見張り番として利用されていたそうだ。善良な一般市民の店主は、自分以外にも危害が及ぶことを恐れ、娘夫婦の帰省も断り続けていた。
警察に通報することもできず、誰にも救いの手を求められなかった店主を初めて目に留めたのは、仮面の詐欺師という世界的な大悪党だった。
この国の裏社会を牛耳ろうとしているチェズレイは、潜伏中の街を拠点として活動していた小さな麻薬密輸組織の動きにも目を配っていた。売人たちがなぜかパン屋で不審な動きをしていることに気づき、モクマに毎日パンを買いに行かせることで、監視を続けていたのだった。まあ、それだけならわざわざパンを毎日買う必要などないのだが。
「それにしても、昨夜は家族水入らずの花火鑑賞で宵っ張りだったでしょうに、今朝も変わらず店を開けるとは勤勉な方ですねェ」
「今日は娘さんも手伝っとったからね。楽しそうだったよ。とはいえ、あの娘さんもじきに都心の自宅に帰っちまうんだろうから、ちと店の今後のセキュリティには不安があるが」
「そうですねェ。まあ老人一人で店を切り盛りするのは心許ないでしょうから、アルバイトなどを雇うべきかと思いますね。いずれどこかの青年が、店を訪ねるのではないでしょうか」
「ははあ……つくづく大盤振る舞いだねえ」
つまり、既に組織の人間を手配済みだということだ。
チェズレイが二枚目のパンに手を伸ばす。「トーストしようか?」と訊ねれば、「お願いします」と機嫌良くパンを渡された。
「最近どうも、たっぷりバターを塗るのをやめられないのですよねェ」
「あはは、仕方ないね。このパン、とってもバターが合うんだもの。にしても、お前がそんなに気に入っちまうなんてね」
こんがりキツネ色になった食パンに、チェズレイは構えていたナイフでたっぷりとバターを塗りつけると、とろけたバターがじゅわりと染み込む。
少し塗りすぎかも、と思わせる量だったが、一度バターを塗ったパンはもう元には戻せない。相棒との絆も、親子の縁も。
パリッ、と音を立てて満足げにバタートーストにかぶりつくチェズレイを眺めながら、モクマは「やっぱり妬けちまうね」と満足げに笑うのだった。
【END】