一筆啓上一筆啓上
ああ、あなたへ手紙をしたためるのは初めてかもしれない。
沢山話したいことはあるのに。
本当に伝えたい事は常に心の奥に押しとどめ、結局言えずじまいになってしまった事が多くある。
不惑を超え、知命の年を過ぎてもまだ私の心は落ち着かず。私の天命とは、生きる意味とはいかなるものか、どうあるべきなのか……その答えをくれるものはもういない。
尊敬と憧憬と親愛と……そして悔悟の思いが心に影を落とし消え去ることはなく、もう幾年の時が過ぎ去ったのだろうか。
心残りとしてある罪悪感からなのか、贖罪の気持ちなのか。それとも過去を振り返り己の生き様を誰かに聞いて欲しいだけなのかもしれない。一番伝えたい人はもうこの世には居ないというのに。
それでもあなたに伝えたいとずっと思っていた。
そう、ずっと。
思えば人の生き様に振り回された生涯であった。姑蘇藍氏の第二公子として生を受け、父と母……そして兄と共に過ごした日々。厳しい家規に対して疑問を抱いた事もある。ただ、その一つ一つを兄が何故この教えは導き出されたのか、秩序とは、掟とは何のためにあるのかを幼い私に対して言葉を選び噛み砕き説いてくれた。私の世界は兄によって構築されたといっても過言ではない。全ての理を兄は知っていた。
青蘅君……輝く青い光そのもののような人だった。姑蘇藍氏の長子として未来を担う運命を背負いながらも優しくまた雄々しく、微笑みを絶やさない兄。仙門の誉と評されだれもが兄に憧れその背を追った。そして私も。
光を放つ星の光を受けて寄り添うような、月のような存在だと皆が私を評した。勿論光る星は兄だ。嬉しい気持ちと、反面兄の影として生きる道しかないような複雑な気持ちを抱くようになったみぎり、新たな出会いが私を待っていた。
座学だ。
姑蘇藍氏以外の仙門の子弟達と出会い、先代の聶宗主や金宗主などの学友と呼べるものもできた。そして悪縁とも思える蔵色散人との出会いを経て見聞は姑蘇を超えて広がり……夢もまた抱くようになった。
兄の影でなく、自分が何者でどうあるべきなのか、どう生きて生きたいのか様々に考え遊歴に出たいと願いその願いが叶うかと思った矢先、私の世界は一変したのだった。
兄が……閉関したのだ。
一人の女が兄と、そして私の運命を変えた。
夜狩に出た兄はその女を見て一目で恋に落ちたという。妻へ迎えたいと、彼女は自分の天命であると呟くように私に言った兄は今までの兄ではなかった。家規を私に説いて聞かせてくれた兄は、先達達の反対を押し切りその女を妻とした。しかも、師を屠った相手だというのに。
女の罪は命を持って贖うべきものであるほど重く、しかしその命は兄にとっては唯一の天命の命でもあった。そして、とうとう命の等価交換による贖いはされる事はなく。
兄が盾となり女の命は長らえた。
そして自らの価値観を覆した罪悪感と、罪の女を娶った兄は表舞台から姿を消すこととなった。
表向きの仙門を率いる諸々の事柄すべては必然的に私の肩にのしかかった。兄は病であるとされ、私が宗主代理を務めることとなったからだ。兄の婚姻については姑蘇藍氏の一部の者しか知らぬこととして真実は伏せられた。
結果的に遊歴にでて得られるはずだった私の自由への夢はここで潰えた。
しかも自分に心を寄せぬ女に片恋のまま、婚姻した兄。せめて心を通わせ夫婦として愛を育み暖かい家庭を持ったならばまた救いはあったかもしれない。しかし女が兄に心を寄せることはなかった。そしてその事が兄の心に暗い影を落とし兄の心は少しずつ壊れていったのだ。
それは二人の間に子が産まれてからも変わらなかった。
ほどなくして新しく与えられた私の役割、それは時期宗主を育て、時代の姑蘇藍氏を支える存在を守ることで。
聡明で聞き分けが良い第一公子の曦臣と、頑なで口数の少ない第二公子の忘機。
乳母の世話の手を離れた二人の子供は私の元へやってきた。姑蘇藍氏の公子としてふさわしい教育を施すようにと。
それは私の望むことでもあった。
″あの女の子供″という先達達の視線から守ってやりたかった。兄の子であるという無言の期待と重責、それは若き頃の私が感じた感覚と同じであった。あの時は兄が私を導き説いてくれたというのに、この子らには誰もいないのだ。
愛する妻にのみ心を向ける兄は私に子らの教育を全て任すという名の放任を決め込んだ。そして、義姉上は軟禁されており子供を養育できる環境になかった。
親の愛に飢えた子供らに叔父として優しく接するだけで良ければどれほどまでに楽であっただろう。しかしそうはいかない。
雅正を尊ぶ我が仙門にあって、数多多くの弟子達の羨望と敬意を集める者に育てねばならない。非の打ち所のないひとかどの修士として大成できなければ。兄と義姉に顔向けできないと思った。
それこそが私の生きる意味、だったのかもしれない。
そんな日々を過ごすうちに時は流れ。
兄夫婦の関係に変化は生まれず……義姉上が身罷るまで二人の睦まじい姿を見ることは一度とてなかった。二人の息子を残して、兄の心を道連れにこの世を去った彼女の姿を求め咽び泣く兄の慟哭の声は、私に天命の人を得ることへの恐れを与えた。そしてそれは婚姻への憧れを打ち砕くのに充分に足りるほどの悲しみに満ちたものだったのだ。
そして私は誰かと暖かい家庭を抱き、自分の子をもうけるという一人の男として抱いても不思議でない願いを求めなくなったのだった。
甥二人が姑蘇藍氏の双璧と称されるようになり、座学において多くの仙門の子弟達を師事する年月が流れても兄の心はこの世に戻っては来なかった。
妻の姿だけを求め、そしてそんな自分の執着にますます心を閉ざす兄。こんな姿を子供達に見せる訳にもいかず、曦臣と忘機には病が重くお前達には会わせられぬと告げるしか無かった。
そしてその後様々なことがあり……
温氏により雲深不知処が焼かれ、兄が身罷った。雲深不知処の再建のために奔走するその日々の中で、父の訃報を知った子供達の心を慮る余裕は私にもそして姑蘇藍氏の誰にもなかった。
子供らにとっては振り返られることもなかった父親であったかもしれない。それでも自分の父の死は大きな喪失感を伴っていたはずだ。
その心の穴を埋められるのは厳しい修行の達成感でも、周りからの羨望の眼差しでもなかったはずなのに。
母親が身罷った事もはっきりと告げることすらできずただ遠ざけたことだってそうだ。曦臣らは訊ねては来なかった。母に何故会えないのか、と。
聞き分けがいい子供に私の方が甘えていたのかもしれない。妻を失って悲しむ兄の声が耳からこびりついて離れず、この子供達の悲嘆を受け入れ克服出来るだけの何かをしてやれる自信が私にはなかった。
母も、今度は父も喪ったというのに何も言葉には出さずただ静かに戦い続ける彼らに私は何をしてやるべきだったのだろう。
いや、優しい言葉をかけ混沌とした世界から守るようただ抱き寄せ抱擁してやれば良かったのだと今なら思う。
曦臣と忘機はそれぞれに心の闇を抱えていた。そして、その闇を照らす光をどこかで求めていた。求められ、信じることのできる何かを。
微笑みの奥に心の葛藤を隠したまま仙門のあるべき姿を体現し、教本から飛び出たような曦臣が赤鋒尊や斂芳尊と三尊の契りを交わして距離を縮めていったのも、忘機が不夜天で魏無羨を庇い戒鞭を受けてなお奴を信じていると心を曲げようとしなかったことも。
全ては兄と義姉とそして私が生み出した、歪みの生じた愛情の産物の成れの果て。
なぜこうなった。
生ける屍のように死に場所を求め、悲痛な問霊の琴の音が雲深不知処に響き、ぶつりと弦が切れる音が聞こえる度に。
何処からか連れ帰った記憶を失った幼子の声が聞こえてくる度に。
何が良いのか、何が正道で何が邪道なのか……あの時は確かに忘機を叱責した。そのようなことを迷うことすら許せずに。
だがそれで良かったのか。
立派に兄の子を育て上げねばという自分の思いが甥達の心の成長を止めたのではないのか。良かれと思って課した全ての事柄は果たして真実に基づいた判断において正しいことであったのか。
思案が心を支配して。
答えが見つからぬまま時は流れた。
そして。
その時は突然やってきたのだった。
ぎりぎりの均衡を保っていた世界を変えたのは魏無羨の存在だった。
生きる屍のように表情ひとつ変えず、ただ務めを果たす忘機が突然一人の男を雲深不知処に連れて来た。後に分かった事だが、あの莫玄羽という男は魏無羨が献舎を受けた器であったのだ。
見たこともないような表情をし、あの男を見つめる忘機の目には執着の熾火が灯っていた。そう、兄と同じ目だった。あの時気づいていればまた違った結果となっていたかもしれないが、それは今になって思えばせんの無い事でしかない。
だが結果的には魏無羨はこの世に蘇り、そして十三年前の真実も明るみとなり。様々な事柄が複雑に絡まりあっていたこと、そしてそれが全て繋がり……今に繋がる事を知った。
確かに夷陵老祖の罪がすべて無くなった訳では無い。
それでも。
不夜天で私が抱いた『邪は滅ぼされるべきであり夷陵老祖魏無羨は死して当然の報いである』いう考えや、魏無羨の傍から離れず嘆願した甥を一刀両断にしたあの時の自分の判断は誤りであったと思わざるを得ない。
時は戻せはしない。そう……忘機を打ち据え、その背に消えぬ傷跡を残した私の罪も、斂芳尊を信じ過ぎ心を閉ざした挙句、閉関という緩徐な死を選ぼうとする曦臣を止める事も出来ずに寒室の前でただ立ち尽くすしか無かった自分の不甲斐なさも。後悔しても仕方の無いことなのかもしれない。しかしそうであったとしても、なおも自分がするべきことはあったのかもしれぬと思いや悩む事も多くあった。
だが忘機も曦臣ももう子供ではなかった。
私の庇護を必要とする雛鳥などでなく、一人の人間として成熟の時を迎え自らが意思決定できるのだ。私が良かれと思ってすることが彼等の最良であるとは限らない。
忘機は魏無羨を道侶に迎え、そして奴もまたここ雲深不知処で新しい役割を与えられ生きていく事を決めたという。
たった一つの信じる道を貫き通した忘機が選んだ最良の天命の人。それが魏無羨だった。
知己であり、道侶であり、天命の存在。
私には見つけられなかったそれらのものを手にして、忘機は人としての感情の発露や機微といったものを知り、人を愛することを学んだ。
もう、私は何も言うまい。
家族を得て幸せを掴んだ甥に祝福をと心からそう願う。
その事に異存など一欠片も無い。
願わくば、あともう一人。
曦臣にもそのような者が現れ、再び春風のように笑える日が来ればと思う。皆に微笑むことができなくとも良い。そのたった一人にだけ幸せであると言えるならば、それでよいのだ。
私の愛し子達よ。
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「藍先生、お支度は整いましたか?」
戸の向こうから声がする。
この声は……藍景儀か。
「皆が先生をお待ちしてますよ。含光君も魏先輩も」
今日の日の主役達を待たすのは許されざる事だろう。
「今行く」
愛する人を道侶に迎えて並び立つ華燭の典の宴に今から私は赴こうとしている。
さあ、あなたの代わりとなって彼等の幸せの道行を言祝ぐ事にしましょう、兄上。
最後に。
私の生涯は誰かに振り回されその度に揺れ、その度に向く方向を変えたかもしれない。
平らかな道ばかりではなく、自分の望む道ではなかったかもしれないけれど。
でも、私は幸せなのです。
それだけは紛れもない真実なのです。
兄上。