ゆめうつつ 藍宗主の閉関のついては世家だけでなく近隣の民でさえ憂いていた。
それほど藍曦臣という人物は人に愛されている。争いで物事を解決する事を良しとせず、人と人を繋ぎ合わせる事で答えを見出そうとする姿に多くの者が彼に憧れと期待を抱いているのだ。
藍曦臣が閉関していると家僕から聞いた江晚吟の反応はそうか、の一言だった。続けて、藍宗主が閉関しようがどうでもいい、と冷たく言い放ったが彼の本音はそうではなかった。
彼は座学中の頃から藍曦臣に密かに懸想している。だから内心はずっと彼のことが気になり執務も放り出してしまいたい。彼を煩わせるもの全てを取り除き、また陽の光の元に顔を覗かせてくれないか、と江晚吟は望んだ。
決して近付かず想いを遂げられなくてもいい。その想いはこれまでもこれからも打ち明ける事なく墓場まで持っていくつもりなのだ。
彼を思えば度々、溜息が零れたがいつも以上に執務に専念する事にした。彼を救うのは彼自身であり自分の役目ではないと、若くして独り雲夢を建て直した江晚吟は知っている。
ある程度復興したとは言えど、まだまだ人手不足の雲夢であるがために日夜、執務や夜狩には宗主の手が必要だ。江晚吟は目の前のことに専念し、藍曦臣の事を忘れようとした。
多忙な彼が雲深不知処にまで来たのは、夜狩の件でもなく清談会の打ち合わせでもない。座学中の金凌が騒ぎを起こしたと聞きつけ、時間を無理矢理作り飛んだ。魏無羨ほどではないが、甘やかされて育った甥っ子も売られた喧嘩は買ってしまう性分らしい。
苦虫を噛み潰した表情で罰を受けたと言うのに、全く反省していない金凌から散々愚痴を聞かされた。やれお嬢様だと馬鹿にされたとか、大事な家族を馬鹿にされたとかキャンキャン子犬の様に吠えていた。だというのに吐き出してしまえば、江晚吟の事はお構い無しにとっとと眠ってしまった。
甥っ子の我儘に解放された頃には、雲深不知処はとっくに寝静まっていた。用意された客室に向かう為、外を出る。ふと月の浮かぶ空を見れば、遠くに白い人影を見つける。それはまるで亡霊の様にゆらゆらとしていた。
(こんな夜更けに何の騒ぎだ?)
影を追い、石畳の階段を登っていく。たどり着いたのは藍家の長老や宗主達が住まう山の奥深くだった。
昔、自身も座学中の頃に何度か魏無羨と立ち入ったが、極力手の加えられていない場所なのでなんとも異様な空気である。他より涼しい雲深不知処でも更に涼しいのも手伝っているのかもしれない。
「……藍曦臣」
寒室の庭には、閉関していたはずの想い人が立っていた。悲痛そうな面持ちで裂氷を奏でているが、その音色は以前耳にしたものとは違う。以前は一音の狂いもないがどこか温かで優しい音色だった、と疑問に思う。
とは言え、久方ぶりの藍曦臣の姿に江晚吟は心を奪われた。もう少し、もう少しだけ彼を目に焼き付けようと出来るだけ息を殺して近づく。だが彼に夢中になるがあまり、江晚吟は足元の小石に蹴つまづいてしまった。
──ギシリッ
咄嗟に柵に手をかけ、派手に竹が軋む音を立ててしまった。直ぐに藍曦臣を見る。しかし彼は以前、自身の簫に夢中である。おかしい、こんな事をして未だに気づかないなんて、と江晚吟は焦る。
「藍曦臣!」
反応はない。
「おい!聞こえてないのか、藍曦臣!!」
まったく反応はない。
「……」
何度も声を掛けたが、とうとう虚しくなって呼びかけるのをやめた。
まるで自身と彼の距離だ、と笑う。いつも周囲の者に敬われ尊ばれる藍曦臣と、三毒聖手と恐れられる江晚吟は立場は同じであれど決して交わる事はない。この距離が運命なのだと知らしめられている様だ。
「藍曦臣……」
何が原因で聞こえていないのかは分からないが、それならばこの機会を利用してやればいい、と江晚吟は口を開く。
「本当に、き、聞こえていないのだろうな……」
藍曦臣の音色に変化はない。一度、息を吸い大きく吐き出す。
「藍曦臣、貴方が好きだ」
一つ、言葉にしてしまえば、あとは余りにも簡単だった。あんなに普段は思った事、感じた事に封をしていたからだろう。彼の口からはするすると言葉が連なる。
「貴方がどうしようもなく、堪らなく……好きだ! 清らかで穏やかで、どんな者も慈しむ優しさも、全て俺が持ち合わせていない」
生涯、伝えられる筈のない想いを口にすると、この思いもキッパリと諦められると思っていた。だのに声にしてみて分かってしまった。やっぱり江晚吟は藍曦臣を諦められないのだと。
「貴方の心を映した様なその顔馳せも、貴方のその温かな音色も全て俺を惹きつけてやまない。どうして閉関なんてしてる? 貴方は思い悩まずとも全てを失った訳ではないだろ」
鼻の奥がつん、としたが無視した。そしたら今度は瞼が熱くなって目の前の藍曦臣がじんわりとボヤけていく。
「貴方はいつも俺に見向きもしない。こんなにも、こんなにも好いているのに……貴方は自分の事がそんなに可愛いのか!?」
もう告白ではなく、ただ言葉を投げつけている。江晚吟は息を荒げて涙を流した。
すると江晚吟の気配にようやく気付いた藍曦臣が裂氷を吹くのをやめ、こちらに歩み寄ってきた。驚いた江晚吟の涙は引っ込んでしまう。
「き、聞こえていたのか……」
「すみません。こんばんは、江宗主。せっかく来てくださいましたが耳が聞こえず……閉関中の身ですが、音が恋しくて、色々試してみたのですが何も聞き取れないのです」
裂氷を持つ手とは逆の手が耳に添えられる。いつもは昼間の温かな日差しの様な朗らかな微笑みはそこには無かった。
江晚吟は安堵したが、すぐに考えを改める。邪推の影響か、はたまた何か呪いの類か見当はつかないが思い悩む人を利用するなんて自分の浅ましさに嫌気が差す。
「もう少し、近くへお願いできますか。それと口はゆっくり。口の動きで何となく会話は出来ます」
そう言われてもこれ以上、近づいてもいいものかと江晚吟は躊躇う。今夜は新月、お互いの表情を読み取るにはかなり近づかなければならない。想いをひた隠しているのに、顔を近づけてしまうと隠しきれないからだ。
「すみません。では私の方から」
てっきり門の方から回ってくるかと思えば、草の間を掻き割って切り揃えられた低木を跨いできた。
(あっ……こんなに近くに)
藍曦臣のほうが背は高いと言えど、さして背丈に差はない。もう一歩、踏み出して仕舞えば口付けてしまう程の距離に後ずさろうとするが腕をつかまれて離れられない。
「これ以上は駄目だよ。貴方の表現が分からなくなってしまうからね」
「ち、近いッ」
「暫くの間、誰とも話さずいたら、ある日鳥の囀りも虫の鳴き声もしなくてね。人の声なら聞こえるかと下に降りてみても、夜に一人で裂氷を奏でてみても……」
藍曦臣が首を振る。江晚吟は不器用に話す彼の言葉に頷いた。
「とても冷たい世界になってしまったと嘆いていれば、誰も寄り付かない寒室に貴方が来てくださった。こんなにも嬉しくて声を出して喜びたいのに……同時に貴方の声が聞けなくてどうしようもなく寂しい」
「そうか」
「江宗主、貴方の声が恋しい。貴方の凛とした佇まいも澄み切った声も、故郷を慈しむ心も私には貴方が眩しい」
「い、いきなり何を!」
焦る江晚吟に更に繋ぎ止められた腕の力が強くなる。
「どうか……どうか名を呼んでもらえないですか」
「聞こえていないのだろう。そんなの無意味だ!」
拾われない筈の想いを掬い上げないで欲しい、何かを得れば何かを失う。江晚吟にとって、これ以上大切なものが手から零れ落ちる様な想いはもう耐え難いのだ。
「お願いします。私を独りにしないで……」
雲間からそろそろと細い月が顔を覗かせる。
「……藍曦臣」
ぱぁっと表情が明るくなる。聞こえもしないのに名を呼ばれて子どもの様に喜んでいる。
「貴方のいない世界は酷く冷え冷えとしたものでした」
「情人みたいに、甘いことを、 言うな」
「いえ、この想いはもう隠しません。貴方を想って夜を嘆いていたのに、まさか貴方の方から来てくれた。これはもう貴方を諦めるなという導きです」
掴まれていた腕が江晚吟の頬に添えられる。一度撫でられると、指が唇に触れる。悪戯にふにふにと柔らかな感触を味わっている。
「今はどうも貴方の声が聞きたくて堪らないというのに……貴方の声がまた聞ける日を待っていてくれますか、晚吟」
鼻先が触れるほどに見つめ合う。返事の代わりに、両の手で手を掬うと指先にそっと口付けをした。江晚吟の顔は真っ赤に染められ、直に伏せてしまった。
ずっと江晚吟は藍曦臣を苛めるものを取り除いてやれば、と考えていた。
しかし今は違う。彼を悩ませるもの全てを退けるなんて難しいのかもしれない。
ならばせめて彼が夢の中でも幸せでいられる様に、眠れぬ夜にはただ側に居てやろう。そしてよく眠れるまじないを囁いてやる。晩安、と。
逢えない夜にはせめて夢の中で巡り逢えるように、江晚吟は祈る。