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    fujimura_k

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    fujimura_k

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    2022年10月発行 根性無しですみません 全文掲載
    現パロ月鯉 鯉登に迫られても逃げ続けてた根性無しヘタレ月島が年貢を納める話。(なんだその説明…)カッコいい月島はいません。

    #やぶこい
    #月鯉
    Tsukishima/Koito

    根性無しですみません毎度、馬鹿馬鹿しいお話を一席―

     #1

    帰ったら、大変な事になるのだろうな。とは、思っておりました。えぇ、えぇ、勿論承知しておりました。全て自分の不徳の致すところでありますからには、その覚悟は出来ておりました。いいえこれは語弊が御座います。出来ているのは覚悟が出来ていなかったが故の掛かる事態の顛末についての覚悟で御座います。確かにその覚悟は致しておりました。致しておりましたが然しここまでの事になるとは露程も思っておりませんでした。覚悟が足らなかったということで御座いましょうが、然しこれ程の事態になろうだなどと、一体如何して想像が及ぶでしょうか。其れも此れも全て自分の不徳の致すところに相違ないのですが。如何せん。この事態を如何収めるか。
     「やっぱい男のオイんこた好きじゃなんて嘘じゃったんじゃろぅ」
     大層物騒な言葉を結構な音量で安アパートの廊下に響かせてくれている音之進さんは悲痛を顔に浮かべていても美しい。本当にどんな時も美しい人だ。惚れ惚れする。等と言っている場合では無い。
     「そんな事はございませんっ」
     「またそうやって嘘を吐くっ」
     力一杯否定してみれば倍の勢いで更なる否定が返って参りました。語尾が強い。強すぎる。貴方のその強さのなんと眩しく美しい事か。
     「嘘ではありませんっ本当ですっ」
     「無理して嘘まで吐かんでよかっ無理なら無理って言っ」
     大変強いお言葉ですが、涙目になっておられるような気がするのですが気のせいでしょうか。心なしかお声も滲んでおられるような。
     「無理などしていませんっ嘘じゃないっ」
     精一杯の誠意を込めて叫んでは見たモノの、すぐさま睨み返されました。真直ぐに見詰めてくる眼が美しい。本当に美しい。俺みたいな疲れ切ったおっさんが映っているのが申し訳なくなる程に美しい。見惚れてしまう。いいや、見惚れている場合では無い。
     「そしたら何で昨夜逃げたんじゃっっ」
     矢のようなお言葉を有難うございます。キレイに刺さりました。見事に刺さりました。大層重たく鋭い矢を有難うございます。心臓が止まるかと思いました。一矢で息の根を止めて下さるなんてお優しい。お蔭で安らかに眠りに付けそうです。じゃない。
    悠長なことを言っている場合では無い。勿論安らかに死んでいる場合でもない。今こそ、今こそ適切な答えを早急に返さねば事態は一層悪い方向に転ぶことは明白ではないか。如何にか、何としても、是が非でも。鯉登さんに誠意をお伝えしなければ。
     「なん…っ……それはっ……その……っつまり、…」
     等と焦れば焦るほど、言葉は一切声にならず、情けないにも程がある。と、前を見れば最悪の事態が迫って参りました。
     「やっぱい、嘘じゃらせんかぁ……っぅ…ぐ、…うぅー…っっ」
     恋人を。成人男性を。安アパートの廊下などという情緒もへったくれも無い場所で泣かせてしまいました。最悪だ。あらゆる点に置いて最悪だ。
    「っちょ!?泣い…っ…音さんっ!ちょっと、落ち着いてくださいっお願いですからっね!?」
     お前も落ち着け月島基。と頭の片隅から妙に冷静な己の声が聞こえてきても焦るモノは焦るのです。これが焦らずに居られましょうか。
     「オイんこた、好き、なんて…全部、嘘じゃったんじゃぁぁぁぁ…あー…」
     成人男性でも棒立ちで5歳児みたいな泣き方するんだなぁ。なんて感心している場合じゃない。馬鹿か俺は。馬鹿通り越して阿保か。阿保だな。死んでも直らないかも知れない。いっそ死んでしまいたい。いいや、死んでいる場合じゃない。音さんを泣きやますのが先決だ。死ぬのはそれからだ。死ぬより先に平之丞に殺されるかも知れないが。とか言っている場合でもない。

     事態の顛末を語る前に、掛かる事態のことの発端を説明しておこう。
     音さん。鯉登音之進さんは、俺の恋人である。
    恋人と呼べる仲になったのは3か月ほど前だ。其れまでは、友人の弟という認識だった。高校の同級生だった平之丞には、出逢った当時三歳になったばかりの弟が居た。
    其れが音さんだ。俺が家に遊びに行くようになると、音さんは直ぐに俺に懐き五歳を迎えた頃には『おっきなったらおいが月島ん嫁んなろごたっ』とニコニコと笑ってそう言っていた。
    そう、五歳だった。五歳の男の子だった。誰が其れを本気で受け止めるだろうか。音さんは確かに可愛かった。女の子と間違われてもおかしくない可愛さだった。長じて体格がしっかりしてきても美しい事には変わりなかった。
    可愛らしい少年は美しい青年になり、ずっと変わらず『オイが月島ん嫁んなっ』と言い続けていた。冗談だと思っていた。当然だ。相手は男の子だ。十三年下の友人の弟だ。冗談だと思っていたが、然し悪い気はしなかった。それは音さんが美しかったからで、懐いてくる美しい子を憎からず思うのは人間の性だ。と思いたい。
    冗談だと思ってにこにこと受け流し、憎からず思うから、花嫁姿も似合うだろうな。等と余計な事を口にしたこともあった。余計な事だが本当に似合うだろうとは思っていた。思っている。今も。真剣に。その言葉を口にした瞬間、音さんは大層照れてみせたが平之丞には物凄い眼で睨まれた。それも全部冗談だと思っていた。ほんの三か月前まで。
    音さんが二十歳になる直前までだから、実に足掛け十五年である。出逢いから言えば、十七年。ずっと冗談だと思っていた。嘘だろう?と思われそうだが本当なのだから致し方ない。己の鈍さを呪いたい程だ。然し鈍かったが故に幼気な青少年に無体を働くような事態を招かなかったことは褒めて頂きたい。
     無体を働けなかったから今この事態に陥っているのだけれども、其れは其れ。此れは此れ。だと割り切って頂きたい。割り切って下さい。お願いします。後生ですから。
     音さんの『嫁』発言が本気の其れだと知らされたのが三か月前で、冗談だと思い続けていた癖に、いざ本気だと知らされてしまったら其れが当然の事の様に受け容れてしまいました。流石に自分でも勝手が過ぎやしないかと思ったが、二十歳の誕生日を間も無くにして『二十歳んなったら、本気で付き合うてくるっとか?』などと。潤んだ眼をして縋って来られたら何を如何して断ることが出来たでしょうか。無理だろう。どう考えても無理だろう。無理過ぎるだろう。
    ずっと懐かれていて、憎からず思っていた美しい子が。ずっと本気で俺の嫁になる気で居たんだと知って、如何して拒絶できるものか。いいや、出来はしない。出来るものか。出来なかった。
    友人の弟だとか、そもそも男だとか、そんな事は全部どうでもよくなったというか、端から気にしていなかったのかも知れない。なにせ音さんが可愛かったから。
    音さんの言葉が切欠になっただけで、心の底では自分もずっと音さんを嫁に貰う気でいたのかも知れない。其れこそ狂気の沙汰と思われそうな事態ではあるが。狂気で結構。
     そうであったにも拘らず、いざお付き合い致しましょう。となると、何をどうするのが正解かさっぱり解らなかったのも事実である。経験値の問題だ。
    そもそも、男と付き合った事などなかった。同性を恋愛対象として見た事など無いのだ。当然に、その知識も無い。が、そうなったからには調べられることは調べるのが筋だろう。当然、調べた。調べに調べて調べ尽して、音さんが嫁というからには、俺が男役で音さんが女役ということで良いのだろうと、そうなる手筈もあれやこれやと考えた。
    考えに考え抜いて用意出来るモノは用意して、脳内シミュレーションを実施した回数はさすがの音さんもひくんじゃないかというくらい入念に行った。行い過ぎたかもしれない。
    当然、男同士の性行などお互い(音さんには当然なんの経験も無い。その筈だ。万が一何かあったら憤死する自信がある。)初めてなのだからと話し合いを何度も重ね、本当に良いのかとくどいくらいに確認を取って、そうして漸く迎えたその日が昨日の晩だった。
     うちの安アパートでは防音に支障があるからとわざわざホテルをとって、ちゃんとムードも作って、いろんなものも用意した。
     『嬉しい』とやっと触って貰える。と、笑った音さんのなんと健気で美しかったことか。
    此の世にあれ程尊いモノが存在するだろうか。穢れ無き純情な音さんに勝るモノなど在る筈がない。
     尤も、その美しい人を、直後にホテルに置き去りにしてひとり逃げたのは俺なのだが。
     えぇ、えぇ、逃げました。逃げましたとも。お叱りはご尤も。呆れもなさいましょう。情けない。あり得ない。その通りで御座います。何でそんなことをしてしまったかと己でも恥じ入るばかりでは御座いますが、誠に、誠に遺憾ながら、その段に及んで私は急に怖くなったのです。
     お前が犯す方だのに何が怖いものかと仰るのも尤もです。えぇその通り。其れは音さんの台詞の筈です。そうなのですがそうなのだから致し方御座いません。あまりの情けなさに穴があったら入りたい所存です。入るのではなくて挿れなくてはいけなかったのですけれども。いや、失礼。冗談では無くて。
    其れが怖くなってしまったのだから馬鹿じゃないのかと自分でも思う次第です。馬鹿を通り越して阿保であり人でなしと言われても返す言葉も無いのですが。何が怖いのかといえば、掛かる事態の全てでした。何せ相手が音さんなモノで。あの美しい人なモノで。老若男女問わず、その美しさを認めざるを得ないほどに美しい音さんが、俺のような、背も高くない、筋肉だるまの十三も年上のおっさんを子供の頃から一途に思い続けて、真っ新な身体を丸ごと投げ出して俺なんぞに捧げようというのが、急に恐ろしくなったのです。俺なんぞが、こんな美しい人を貰ってしまって構わないのだろうか。穢してしまって構わないのだろうか。構わないわけがないだろう。許されるものか。そう思ったら、怖気づきました。情けない。本当に情けない。平之丞に知られたら今度こそ日本刀を持ちだされるに違いない。
     ちなみに平之丞には三か月前に一度胸座を掴まれました。殴る寸前で音さんが止めて下さったので殴られはしませんでしたが、いっそ殴られた方がましだったような気がします。その方が胎が据わったかも知れません。逃げずに済んだかも知れません。
    その時確か平之丞は『音を泣かせたらお前でも許さん』と言いました。今この光景を平之丞が見ていたら唯では済まぬことは明白でしょう。見ていなくても、音さんひとりで充分唯では済まない事になってしまっているわけですが。
     ホテルから逃げ出した俺は別のホテルに飛び込んで、携帯の電源を切ったまま朝を迎え、そのまま出社して一日を終え、ての、今。で御座います。きっとそうなるだろうと思った通り、音さんは玄関前で待ち構えておりました。解っていたなら携帯の電源を入れて連絡をつけて、何処なり落ち着いた場所で話し合いをするべきだったのかも知れませんがその頭が働かないくらいには俺も切羽詰まっていたのです。本当に情けない話ですが。いっそ死んでしまいたい。いいや死んでいる場合では無い。釈明をせねば。死んでも死に切れん。

     「…本当に、申し訳ございませんでしたっっ」
     どうにか音さんを部屋に押し込んで全力で土下座をしてみたものの、頭の上に振って来るのはすすり泣きばかりで音さんは全く泣き止む気配が御座いません。如何したものか。
     「……やっぱい、無理なんじゃろう…」
     やっと聞こえた声があまりに弱々しくて本当に申し訳ない気持ちで押し潰されそうになる。
     「無理じゃありません。…そうじゃないんです」
     「嘘ぉ吐かんでんよか…」
     「嘘ではないといっているでしょう」
     「じゃっでん、逃げたじゃらせんか」
     はい。その通りです。確かに俺は逃げました。申し訳ないと思っています。情けないと思っています。恥ずかしいとも思っています。けれども俺は、俺自身が、あなたに相応しいのか解らなくなったんです。
    自信が無いんです。俺なんかが触れていいのかと。貴方の好意に付けこむような真似をして良いのかと。そんな風に─
     「…………惨めじゃった……」
     今、なんと、仰いました?
     「……風呂から戻ったら、月島が居らんで…ひとりきりで…」
     そう、だったでしょうね……
     「…さっきまで、幸せじゃったんに……世界一幸せじゃち思うとったんに…っ……っ…逃げる、くらい、なら…っ……っ」
     「申し訳ございませんでしたっっ」
     「謝らんでんよかっ」
     「っ音さん、俺は…」
     「余計、惨めんなる…っ」
     「音さん、聞いてください。俺は…」
     「結局、オイが独りで舞い上がっちょっただけなんじゃろう?オイが浮かれとって、そいで、断り切れんで、今まで…っ…ずっと…」
     「ずっと抱きたいと思ってましたよっ」
     あぁ、もう、最悪だ。音さんのこんな顔初めて見た。俺も酷い顔をしているんだろうけどもうどうでもいい。なる様になれ。
     「アンタが本気で俺の事想ってくれてるって解って、舞い上がったのは俺の方ですよ。アンタ程のキレイな人が、俺を選んでくれたんだって浮かれてましたよ。嫁になってくれるって、だったらアンタを抱いてもいいのかって、アンタを抱けるんだって、毎晩妄想してましたよ。どんなふうに抱こうかって。どんな顔をするだろう、どんな声を聞かせてくれるだろうって。散々妄想して、どうしたら気持ちよくしてやれるだろうって調べ倒しましたよ!調べて、考えて、考えて、考えすぎて、いざとなったら怖気づいたんですっ情けないけど、アンタ程キレイな人なんて抱いた事ありませんから。俺なんかが…本当に俺なんかがアンタの相手でいいのかって…考えたら、いいわけないだろって…でもきっと、風呂から出て来た音さんを見てしまったら歯止めが効かなくなるから…だから……だから俺は…」
     みっともないにも程がある。
     此れでは百年の恋も醒めるだろう。あぁ、終わった。何もかも。終わりだ終わり。お疲れさまでした。いっそこれで良かったじゃないか。音さんを傷物にせずに済んだ。これで音さんは俺なんかより、よっぽど音さんに相応しい誰かと一緒になれるはずだ。相応しい誰かが何処のどいつだか知らないけれど。知りたくも無いけれど。きっと俺よりはマシに違いない。なんて。思ったのに。
     「……抱きたい、て、思うてくるっとか?」
     如何して、そうなるんでしょうか。
     「…月島は、ずっと、オイんこた抱きたいて、思うちょった?」
     「…思って、ました。」
     「…そんた過去形か?」
     如何して、そんなことを聞くんでしょうか。 
     「……月島……」
     「…それは……」
     如何して、アンタって人は───
     「…答えてくいやい」
     「………過去形、じゃ、ない、です…」
     一拍間を置いて胸に飛び込んで来た人を、抱き締めなかったら男じゃない。寧ろ、人じゃない。と思って思う様抱き締めてしまったことを如何か、如何か許して欲しい。許して下さい。お願いします。
     「…っ…嬉しか…」
     凡そ二十四時間ぶりに聞いた同じ言葉は、二十四時間前に聞いた其れより遥かに重く、深く、胸に染み入りました。反省しかありません。あまりにもあまりに己が無様でしようが御座いませんが、其れも如何か許して頂けませんでしょうか。俺の腕の中の美しい人に免じて。この美しい人の愛に免じて。如何か、如何か、その愛に応えることをお許し願いたい。如何か。
     所で、この流れでここで音さんを抱いてしまうのはアリなのでしょうか?弊アパートは築四十年超。壁の薄さとプライバシーの無さには定評のある安アパートなのですが。然しここで、今この流れで、音さんに触れずに居るのは其れは最早不自然が過ぎるというもので、今こそ音さんの期待に応えてみせるのが男というものではないかと想うわけで。駄目と言われても止まれそうも御座いませんで。
     この先は、何卒ご容赦願います。では。










    #2


    バスルームから出たら、月島が居なかった。
    「…つきしま?」
    呼び掛けてみても返事はない。当然だ。居ないのだから。待ち構えているだろうと思った人の姿が其処には無くて、私はちょっとだけ哀しくなって、ちょっとだけ安堵もしていた。
    月島基。兄の友人で、幼馴染で、私の恋人。
    そう。やっと恋人になれたのだ。つい、三か月前に。やっと。子供の頃から想い続けて、やっとだ。
    子供の頃からずっと、ずっと、一途に月島を想い続けていた。想い続けて、やっと想いを受け止めてくれたその男と、漸くそういう事になるのだと思ったら、嬉しさより緊張の方が勝っていた。
    散々自分からけし掛けておいて何を今更と思われるだろうけれど、ずっと月島を、月島だけを想い続けてきたのだから、此方は何もかもが初めてなのだ。緊張するなという方が無理だろう。事前に色々調べて勉強(という表現が正しいか知れないが)もした。けれども、誰にも触れさせたことの無い己の身体に何処かおかしなところが無いだろうかという不安も無くはない。とはいえ、誰かに確かめてもらうわけにもいかず、今日という日を迎えてしまった。
    風呂場で入念に身体を洗って準備はしてみたけれど、其れで充分かは解らない。月島に全部を見せたいのに、見せたくない。複雑だ。
    それでもいつまでも風呂に居る訳にもいかないから、思い切って部屋に戻ってみたのに当の月島が居ないのだから拍子抜けしてしまう。
    ぐるりと室内を見渡してみても、テーブルの上に書置きすら無い辺り、月島は何処かに出掛けたのだろうか?煙草なら部屋で吸っても良かったのに。この部屋は禁煙だったろうか?ホテルに入る前にドラッグストアに寄っていたけれど、何か買い忘れでもあったのだろうか。彼是考えてみるが答えは解らない。
    ぼんやりとそんな事を考えながら未だ濡れたままだった髪を乾かしている間も、月島は帰ってこなかった。
    何処まで行ったのだろう?何をしているのだろう。仕事で急な呼出でもあっただろうか。佐渡に居るというご家族に何かあったりしただろうか。
    色んな可能性を考えながら、ベッドの端に座ってどれくらい待っていただろうか。
    その内帰って来るだろうと思って大人しく待っていたが、いつまで待っても月島は帰って来なかった。
    気付いたら、窓の外が白み始めていて、もう朝なのだと知らされた。ホテルの部屋には私一人で、月島は終に戻って来ることは無かった。
    どうやら、私は置いていかれたらしい。
    月島は、きっともうここへは戻って来ないのだろう。
    一睡もしないまま朝を迎えて、もう一度シャワーを浴びてから部屋を出た。チェックアウトをしにフロントに行くと、会計は昨夜の内に済ませてあった。
    ホテルを出た所でふと思い出してスマホを見てみたけれど、着信も、メッセージも、何も届いていなかった。
    意味が解らない。
    これから、何をどうすればいいのか少しも解らなくて、真直ぐ家に帰ればいいものを、どうにも帰りたくなくて、ホテルを出た私は宛もなくぼんやりと歩いた。
    凡そ正常に思考が働いて無い事は解っていたけれど、家に帰ってベッドに入ったところで、眠れたりはしないだろう。眠れたからと言ってまともに判断が出来るとも思えなくて、ただ、ただ、歩いた。
    歩きながら、此れまでと昨日の事を振り返った。
    月島と初めて会った日の事は、今でも覚えている。そんな馬鹿なと人は言うが、覚えているのだからしようがない。自分でも不思議に思うくらいだ。勿論、鮮明な記憶などでは無いのだが。ただ、ぼんやりと、兄が月島を連れて来た事を覚えているのだ。
    私はまだ三つで、月島は十六だった筈だ。兄に抱きかかえられた私を、月島は恐る恐る覗き込んで『よろしくな』と不器用に笑ってみせた。私は、初めて見る家族以外の男の笑顔を、とても好ましく思った。
    初めて私に会ったその日から、月島は度々我が家に顔を出すようになった。月島の両親が留守がちだからと言って、我が家で夕飯を共にすることも、休日を共に過ごすことも少なくなかった。従兄の勇作さんや百之助より月島と過ごした時間の方が多いくらいだ。
    月島は兄が居ない時にもうちに顔を出していたし、兄の代わりになって私によくしてくれた。
    大事にしてくれるだけでは無くて、月島は私に甘い兄と違って、時々叱ってくれたりもした。私は其れが何より嬉しかった。月島が、ちゃんと私を見てくれているような気がして。嬉しかったのだ。
    ずっと月島が好きだった。
    月島が家族だったら良かったのにと思っていた。
    だから子供の頃は半分冗談で月島の嫁になると言っていた。そうしたら、月島と家族になれる。ずっと一緒に居られると思ったからだ。月島と、ずっと一緒に居たかった。うちに遊びに来た月島が、帰ってしまうのが哀しくて堪らなかった。だからずっと一緒に居られるように、家族になりたいと思っていた。私は月島が好きで、その感情に疑問を持ったことが無かったのだけれど、其れが容易い事で無い事は解っていた。解るようになっていた。けれども、その頃には冗談のように言っていた『月島の嫁になる』という考えが自分の中では全く冗談ではなくなっていた。そうなってしまったのがいつからだったかは自分でも解らない。
    気付いたら、それ以外考えられなくなっていた。
    「どうしたら月島の嫁になれると思う?」
    純粋な疑問としてその問いを投げたら、幼馴染の杉元は酷い顔をして(本当に酷い顔だった)絶句した。
    「気は確かか?」
    絶句した挙句に漸く出て来た一言がそれだったのだから本当に酷い話だが、今では応援してくれている。
    昨日のデートの事も、杉元には話していた。杉元以外には話せるような話でもないのだけれど。
    杉元は笑って『良かったな。』と、そう言ってくれた。
    『惚気話聞いてやるから、飯ぐらい驕れよ』とも言ってくれていたけれど、この場合、如何話したらいいだろうか。
    呆れられるだろうか。憐れまれるだろうか。
    いっそ、笑ってくれた方がマシかも知れない。

    やっと。と、思っていた。
    二十歳を迎えたし、恋人だと認めてくれたのだし、やっと、月島に触れられる、触れて貰えると思っていた。先週、月島からホテルを取ったと聞いた時は嬉しくて堪らなかった。嬉しくて、嬉しくて、堪らず抱きついたら月島は『未だですよ』と私を窘めて、それから優しいキスをくれた。
    『続きは、今度にしましょうね?』
    そう言って、笑ってくれた。幸せだった。
    その日から、昨日まで、私はずっと幸せだった。浮かれていたのだと思う。
    昨日の昼間、月島は動物園に連れて行ってくれたけれど、私は殆ど上の空だった。
    月島が予約してくれていた店での食事も美味しかった筈だけれど、正直よく覚えていない。緊張で、味なんてろくに解らなかった。
    月島に手を引かれて一緒にホテルに入ったのは夜の未だ浅い時間だった。チェックインの手続きをしている月島の背中をぼんやりと見詰めながら待っている間、心臓が酷く煩かったのを覚えている。
    無言でエレベーターに乗って、そのまま部屋に入ると、月島はドアが閉まるのを待って私を抱き寄せてキスをしてくれた。ゆっくりと何かを確かめるようなキスだった。
    『風呂、先に、使って下さい』
    そう言われるままにバスルームに入って、其処から出るまで、ずっと幸せだった。不安も、緊張もあったけれど、ずっと幸せだと思っていた。
    昨日の月島は、いつも通りに…いいや、いつも以上に優しかった。
    それなのに、どうして、居なくなってしまったのだろう。
    月島は、ずっと無理をしていたのだろうか。
    無理をしていたというなら、一体いつから?もしかして、最初から?それなら、如何して、あんなに優しいキスをくれたりしたのだろう。
    解らない。少しも解らない。如何したら解るようになるのだろう。月島に聞けば、答えてくれるだろうか。

    どの位歩いていたか、気付いたら見覚えのあるコンビニの前に立っていた。ぼうっと眺めていると、店の中からやはり見覚えのある男が大きなゴミ袋を抱えて出て来た。
    バイト終わりにゴミの始末を押し付けられたのだろう。人のイイ、あの男らしい。
    ゴミ袋を集積所に投げたところで男は私の視線に気付いたようで、此方に顔を向けると驚いた顔をしてみせた。
    「!?…鯉登!?」
    そう声を上げたのは杉元だ。
    「お前…なんでこんな所に?…月島さんは?」
    さぁ。なんでだろうな。月島が何処にいるか、聞きたいのは私の方だ。
    そう答えるつもりで開いた口からは声が漏れる事は無く、代わりに両目から涙が零れた。
    「鯉登…っ!?」
    杉元が狼狽えるくらい、後から後から溢れて来る涙は、少しも止まりそうに無かった。

    馬鹿みたいに溢れて来る涙が漸く止まったのは、杉元に一通り話をしてしまってからだった。

    ろくに話も出来ないくらいに泣き続ける私に杉元は何も言わなかった。何も言わず、私の背中を押して直ぐ近くの公園まで連れて行くと、自販機で買って来た温かいココアを持たせてくれた。
    何も言わずに杉元が唯隣に座っているモノだから「何も聞かないのか」と聞いたら、杉元は「無理に話さなくていい」と言ってくれた。
    だからだろうか。漸く、少しずつ、何があって、如何して此処に来たのか、ゆっくり話すことが出来た。
    昨日がどれだけ楽しかったか。どれだけ緊張したか。どれだけ、待ち続けて居たか。
    話している内に、少しずつ、少しずつ、冷静になれたような気がした。気のせいだったかもしれないが。
    「…おいは、月島に逃げられたんじゃろうな…」
    言葉は自嘲交じりになった。
    「逃げられたって…お前なぁ…」
    「じゃっでん、そうじゃろう?」
    言葉を重ねたら杉元は難しい顔をしてみせた。似合いもしないのに、何か考えているらしい。
    「っでも、未だ、フラれたってきまったわけじゃねぇだろ」
    「だったら何か連絡してくるだろう」
    慰めの言葉にそう返したら、杉元はぐっと声を詰まらせてそれきり黙った。
    現にそうなのだ。今だって。握ったままのスマホには着信一つ入ってこない。つまりは、そういうことなのだろう。
    月島は私から逃げた。私は、フラれたのだ。
    さっきまで溢れて止まらなかった涙は、枯れてしまったのか少しも零れて来なくなった。
    「…っなぁ、鯉登。未だ早いって。何か事情があるのかもしれないし…」
    「お前は事情があったら恋人をホテルに置去りにして連絡ひとつ寄越さないでいるのか?」
    「………そんな、ことは…」
    自分で聞いておいて自分でショックを受けている杉元は本当にイイやつだ。言い返した自分の言葉に自分で傷ついている私はただの馬鹿なんだろうが。
    「っ…でも、月島さん、そんな人じゃないだろ?」
    そうだな。私もそう思っていた。
    「やっぱり、なんかあったのかも知れないし…」
    そうかもしれない。…そうなら、いいのだけど。いいや、やっぱり、よくはないだろう。
    「…鯉登…」
    呼ばれた声に顔を上げると、杉元が心配そうに此方を見ていた。そんな泣きそうな顔をしないでほしい。
    「…っ…なんなら、俺が、月島さんに…」
    言葉尻を濁した杉元に、黙って首を横に振ると、杉元は小さく息を呑んだ。
    「いい。ちゃんと、自分で話す。」
    「一緒に行こうか?」
    「ひとりで大丈夫だ。」
    何が大丈夫なのか、解らないけれど。
    「…フラれるなら、ちゃんとフラれたい。」
    笑ってみせたつもりだけど、上手く笑えていただろうか。杉元は苦虫を噛み潰したような顔をして「そう」と小さく呟くと、ふ、と息を吐いて「鯉登」ともう一度私の名を呼んだ。
    「お前が月島さんにフラれるなんて、そんなこと無いと思うけど…もし…もし、そうなったら、やけ酒には付き合ってやるからな。」
    滅多に見ないような真剣な顔をして杉元がそんな事を言うものだから、思わず笑ってしまった。失礼な話だというのに、作り物では無い笑いに、杉元も一緒に笑ってくれた。
    ほんの少し、気持ちが軽くなったような気がした。
    何の話が解決したわけでも無いのだけれど。

    杉元と別れてから、一度マンションに帰ろうかとも思ったけれど、足は自然と月島のアパートに向かっていた。
    築四十年。木造二階建ての安アパート。錆びの浮いた鉄製の階段を上がった突き当りが月島の部屋だ。
    カンカンと鉄の冷たい音をさせて階段を上がっていくと、飾り気のないドアが見える。そっとドアノブを廻してみると鍵が掛かっていた。ポストには新聞が突っ込んであるままだ。昨夜は、此処には帰ってこなかったのかも知れない。
    だったら、月島は、一体何一夜を過ごしたのだろう。アパートには戻らず、そのまま仕事に行ったのだろうか。
    それとも、杉元が言うように、本当に何かあったのだろうか。そんな風に、思えないのだけれど。
    開かないドアに凭れてずるずるとその場にしゃがみ込んでみる。夜になったら今日は帰って来るだろうか。其れまでに、一度くらい、連絡が来たりするだろうか。来るとしたら、それはどんな連絡だろう。
    月島の事ばかり考えながら、唯々月島の帰りを待つ間、スマホを何度か覗いてみたけれど、連絡が入る様子は無かった。LINEを送ろうかと思ったけれど、何の反応も無かったらと思うと怖くてそれも出来なかった。
    昼間からアパートの廊下に座りっぱなしで居ると流石に目立つのか、夜までに何度か声を掛けられた。
    「その人、いつも帰りは遅いよ?」と声を掛けてきたのは月島の隣の部屋に住む男で「取り立てじゃぁないだろうね?」と聞きに来たのは大家らしいお婆さんだった。男には曖昧に「そうですか」と返事をして、お婆さんの問いには「違います」ときっぱり答えておいた。流石にその誤解はあんまりだ。私が取り立て屋にでも見えただろうか。そんなに酷い顔をしているかだろうか。手鏡を覗いてみると、鏡には確かに酷い顔が映っていた。寝不足で隈が出来ているうえに、泣いて腫れぼったくなっている目許が見苦しい。
    こんな顔で月島に会いたくない。そう、思ったけれど、今ここを離れたら、もう一度ここに来ることは出来ない気がして、どうしても動けなかった。
    何で。如何して。昨夜月島は居なくなってしまったのか。其れを聞くまでは、帰れない。帰りたくない。
    あんなに優しかったのに。あんなに楽しかったのに。
    あんなに、幸せだったのに。
    如何して、何も言わずに居なくなってしまったのか。
    どれだけ考えても解らない。
    私に何か落ち度があったのだろうか。だとしたらちゃんと其れを言ってほしかった。無理をしていたのだとしたら、初めからそうだと言ってほしかった。
    如何して。
    如何して何も言わずに居なくなったりしたんだろう。
    解らなくて、哀しくて、段々、腹も立ってきた。
    私がこんなに思い悩んでいるというのに、月島は、一体何処で何をしているんだろう。連絡ひとつ寄越さないで。一体、どういうつもりで…と、何度思い直した頃だったか。ふと、階段を上がって来る重い足音が聞こえてきた。
    ゆっくりと立ち上がって階段を見遣ると、階下から上がって来る男の姿が見えて来る。
    上がってきたのは、月島だった。
    バツの悪そうな、青白い顔をして。階段を上がりきったところでちらと此方を見た月島のその顔に、その眼に、希望を持てと言う方が無理な話だ。
    あぁ。やっぱり。と、思う。私はどうやらフラれたらしい。月島は、逃げたのだ。そうに違いない。
    「やっぱい男のオイんこた好きじゃなんて嘘じゃったんじゃろぅ」
     月島の顔を見た途端、言葉は勝手に口をついた。
     「そんな事はございませんっ」
     「またそうやって嘘を吐くっ」
     そんな悲壮な顔をして、何がそんな事は無いなんて。欲もそんな事が言えたものだ。
     「嘘ではありませんっ本当ですっ」
     「無理して嘘まで吐かんでよかっ無理なら無理って言っ」
     この期に及んで、未だ嘘をつこうとする月島が哀しくて、悔しくて、腹立たしい。
     「無理などしていませんっ嘘じゃないっ」
     嘘なら嘘と、せめて素直に認めてしまえばイイではないか。
     「そしたら何で昨夜逃げたんじゃっっ」
     そうすれば…諦めもつくというものを。
     「なん…っ……それはっ……その……っつまり、…」
     それさえさせてくれないなんてあんまりだ。
     「やっぱい、嘘じゃらせんかぁ……っぅ…ぐ、…うぅー…っっ」
     最悪だ。これじゃまるで子供じゃあないか。恥ずかしい。そう思うのに涙は少しも止まりそうにない。
    「っちょ!?泣い…っ…音さんっ!ちょっと、落ち着いてくださいっお願いですからっね!?」
     これが落ち着いていられるものか。
    「オイんこた、好き、なんて…全部、嘘じゃったんじゃぁぁぁぁ…あー…」
    みっともないにも程がある。
    これでは例え月島が本心で嘘ではないと言っていても、呆れてうんざりするだろう。こんな子供のお守りなんてしていられないと、捨てられるのは確定だ。これで何もかもお終いだ。自棄になって子供みたいに泣きじゃくっていたら、いつの間に、アパートの彼方此方の窓から此方を伺う視線が向けられていて、気付いたら月島の部屋の中に連込まれていた。
    余りに唐突で、抵抗する気にもならなかった。
    部屋に連込まれても未だ泣き止まない私の足元に、不意に重たい声が落ちた。
     「…本当に、申し訳ございませんでしたっっ」
     声のした方に目を遣ると、足元で月島が蹲っているのが見えた。一瞬、月島が何をしているのか解らなかった。土下座をしているのだと理解するのに時間が必要だったのは人が土下座をする所を初めて見たからだ。其れが土下座だと気付いたら、勝手に涙が溢れて来た。
    月島が、そんな事をするのがショックだった。そんな事をしてまで詫びるだなんて、昨日までの事は全部嘘だったと言っているようなものじゃないか。
     「……やっぱい、無理なんじゃろう…」
     零れた声は震えてしまった。
     「無理じゃありません。…そうじゃないんです」
     「嘘ぉ吐かんでんよか…」
     「嘘ではないといっているでしょう」
     「じゃっでん、逃げたじゃらせんか」
     言った途端に、月島は黙った。
    あぁ、やっぱりそうだった。月島は逃げたのだ。しつこく押し掛ける私に根負けしてホテルまでは連れて来たものの、男を抱くなんてやっぱり無理だと逃げたのだ。
    それなら…逃げるくらいなら…初めから、無理だと突き放して欲しかった…。
     「…………惨めじゃった……」
     無意識に漏れた言葉に、自分で驚いた。
     「…風呂から戻ったら、月島が居らんで…ひとりきりで…」
     驚きながら、そうだと、噛みしめていた。
     「…さっきまで、幸せじゃったんに……世界一幸せじゃち思うとったんに…っ……っ…逃げる、くらい、なら…っ…っ」
     「申し訳ございませんでしたっっ」
     「謝らんでんよかっ」
     「っ音さん、俺は…」
     「余計、惨めんなる…っ」
     「音さん、聞いてください。俺は…」
     「結局、オイが独りで舞い上がっちょっただけなんじゃろう?オイが浮かれとって、そいで、断り切れんで、今まで…っ…ずっと…」
     「ずっと抱きたいと思ってましたよっ」
    耳を劈くような、というのはこういう時に使うのだ。と、そう思わせるような声が響いたのは突然だった。其れまで、声を抑えて、苦しそうな顔をしていた月島は途端に目を血走らせて怒涛の勢いで喋り始めた。
    「アンタが本気で俺の事想ってくれてるって解って、舞い上がったのは俺の方ですよ。アンタ程のキレイな人が、俺を選んでくれたんだって浮かれてましたよ。」
    そんな風に、思ってくているだなんて知らなかった。
    「嫁になってくれるって、だったらアンタを抱いてもいいのかって、アンタを抱けるんだって、毎晩妄想してましたよ。どんなふうに抱こうかって。どんな顔をするだろう、どんな声を聞かせてくれるだろうって。散々妄想して、どうしたら気持ちよくしてやれるだろうって調べ倒しましたよ!調べて、考えて、考えて、考えすぎて、いざとなったら怖気づいたんですっ」
    月島が、怖気づくだなんて、思いもしなかった。
    私は、少しも解っていなかったのだ。
    自分の事ばかりで、月島の事を、何も。
    「情けないけど、アンタ程キレイな人なんて抱いた事ありませんから。俺なんかが…本当に俺なんかがアンタの相手でいいのかって…考えたら、いいわけないだろって…でもきっと、風呂から出て来た音さんを見てしまったら歯止めが効かなくなるから…だから……だから俺は…」
    月島が、どれだけ葛藤していたか。
    どれだけ、私を想ってくれていたか。
    少しも、解っていなかった。
    情けないのは、私の方だ。
     「……抱きたい、て、思うてくるっとか?」
     問い掛けたら、月島は随分戸惑った顔をみせた。
     「…月島は、ずっと、オイんこた抱きたいて、思うちょった?」
     「…思って、ました。」
     「…そんた過去形か?」
     困ったような、怒ったような。 
     「……月島……」
     「…それは……」
     泣き出しそうな。感情の全部が綯交ぜになった顔をしている月島に、真直ぐに問い掛ける。
     「…答えてくいやい」
     答えは、どんなものでもいい。望んだ答えでも、そうでなくても、今なら、素直に受け入れられる。
     そう、思っていたけれど…
     「………過去形、じゃ、ない、です…」
     たっぷり間を置いて、漸く聞こえたその答えは、それは、つまり、前向きに受け取っていいだろうか。
     昨日までの優しさも、つい今聞いたばかりの告白も、全部嘘ではないのだと。
    確信して月島の胸に飛び込むと、月島は待ち構えていたように確りと私を抱き留めて、両腕で私を抱き締めてくれた。
     「…っ…嬉しか…」
    思わず漏れたその声に、月島が耳元で小さく「俺もです」と答えてくれて、また涙が零れそうになった。
    さっきまでの不安も、絶望も、全部嘘みたいだ。今日一日、燻っていたのが馬鹿馬鹿しくなる。
    抱き締めてくれる月島の腕が温かくて、ただ、ただ、幸せだ。そう思った。


    #3


    さて。ここで問題です。
    この先俺は一体如何するのが正解でしょうか。
    何方か最適解を御提示頂けませんでしょうか。
    などと。俺が脳内で考えて稼働停止してしまっているのだと知れたら今度こそ愛想が尽きたと出て行かれて其れきりになってしまうでしょうか。しまうでしょうね。そうに違いない。寧ろ今こうなっている事が奇跡な訳で、こうなってしまったことが予想外も予想外に違いないのですが、起きた奇跡を無駄にするわけにはいかないのだからして、如何しても、是が非でも、この場に於ける最適解を見出したいのです。けれども果してそれは何であるか一向見当もつきそうも御座いません。故に、無策のままで固まっていると、案の定、腕の中で大人しく目を閉じてくれていた音さんが薄らと目を開けてしまいました。お待たせしてしまって大変申し訳ございません。
    胸に飛び込んできてくれた音さんを抱き留めて、勢いそのままに押し倒してキスをしたまでは良かったのです。いい流れでした。我ながら完璧だったかと存じます。
    今にして思えばそのまま押し切ってしまえば良かったのかも知れないのですが、音さんの服に手を掛けたところではたと気付きました。気付いてしまいました。此処がホテルで無いという事に。此処が自宅であるという事に。此処が築四十年のぼろアパートだという事に。如何して、如何して気付いてしまったのか。いいや、気付いて良かった。良かったのだ。気付かなければ大惨事を招きかねなかった。いや、気付いたというだけなのだからその惨事が避けられるか否かはここから先の己の判断に掛かっている。なんとしても惨事を避けなければ。避けるべきだ。其れは解っている。解ってはいるが、然し口惜しくもある。何故、如何して、此処まで来て、この先の全てを諦めることが出来るでしょうか。愛する人を目の前にして、しかも、自ら抱かれることを望んでくれている可愛い恋人を目の前にして、これ程の据え膳を目の前にして諦めねばならぬこの口惜しさ。如何して昨夜の内にどうにかしておかなかったのか。もしも時間を巻き戻せるならば、もしくは、過去に戻って過去の自分に一言物申せるのならば、今すぐ過去に戻って説得したい。四の五の言わずに腹を括れ。つまらん考えで逃げるんじゃない…と言えたらどれだけ良かったか。出来る筈も無い現実に、腕の中の音さんはさっきから怪訝な顔をして此方を見上げ続けてお出でです。
    気まずい。気まずすぎる。音さんの視線が痛い。
    何故。どうして。今の今まですっかりそう言う雰囲気だった筈なのに急にどうした?やっぱり嫌なのか?無理をしているのか?
    と、黙ったまま口より雄弁な潤んだ瞳で見つめ続けるのはお止め下さい。精神が抉られます。良心が咎めます。十三も下の友人の弟を抱こうとしているのだからそれが本当なのかもしれませんがそういう事では無いのです。期待に応えたいのに応えられないこの状況に、この状況を招いてしまった己の不甲斐無さに凹むのです。嗚呼、本当に情けない。

    「…やっぱり、今日は、止しませんか?」
    呻くようにそう零したら、途端に音さんが硬直したのが解りました。ですよね。絶句しますよね。そりゃそうです。自分が逆の立場なら絶望します。
    「っ…やっぱり…」
    「違いますっ!違いますからっ!ヤりたくないんじゃないです!そうじゃなくて!ヤりたいんですけどっ」
    言葉のチョイスが最悪です。身も蓋も無い。
    「だったらなんでっ」
    「聞かれている気配がするからですっ」
    最悪な上に思い切り大声で叫んでしまいましたけれども。その叫びもご近所に筒抜けでしょうけれども。半ば自棄になって音さんの肩を掴むと、音さんはビクリと身体を震わせました。驚かせてごめんなさい。怯えないで下さい。悪気はないんです。本当にないんです。どうせびくつかせるならこういうのではなくてもっと別の…という話では無くて。
    「イイですか?音さん。よく聞いて下さい。」
    「っ…なんだ?一体…」
    無駄に緊張させてしまいましたが話の要点は至って単純な話です。築四十年というこのアパートの壁の薄さ、プライバシーの無さ。お伝えするべきは其の二点。
    先程の廊下での一幕でアパート住人の興味関心は本日ただ今この部屋に集中しているのは火を見るよりも明らかで御座います。よく言えば『見守っている』悪く言えば『聞き耳を立てている』と言ったところでしょうか。
    このままここで事に及んでは音さんの声は愚か何を如何されて何が営まれているか、その仔細まで、このアパートの全ての住人に知られてしまうばかりか裏の大家にまで事態を把握されかねないのです。いいや把握される。把握されるに違いない。何ならあの大家の事だから下の空き部屋辺りで様子を覗っているかもしれない。そうに違いない。
    そんな中で、如何して音さんを抱くことが出来るでしょうか。そんな事をして許されますか。俺はともかく、音さんの痴態を衆人に知られるだなんて耐えられません。例え音さんがイイと言ったところで俺は絶対に耐えられない。音さんの全てを知っていいのは俺だけです。俺だけの筈です。絶対に誰にも知らせたくない。
    「っだから、今、ここでは、無理なんです…っ」
    力一杯そう伝えれば、これで充分お分かり頂けただろうと思ったのも束の間、呆然と話を聞いていた鯉登さんは暫しぽかんと開けていた口を弓型に変えると、くすくすと肩を揺らして笑い始めました。何故。
    「!?…音さん?」
    困惑しながら問いかけると音さんは悪戯っぽく笑って視線を僅かに下げて呟きました。
    「…じゃっで、そいは如何するつもりじゃ?」
    音さんが見ているのは、俺の股間であります。そこが今現在どういった状態になっているのかは説明するまでも御座いません。説明などしたくもありません。聞きたくも無いでしょう。聞きたいと言われてもご勘弁願いたい。慈悲の心を持ってどうかお察し頂きたい所存です。其れを如何すると問われましても。どうするもこうするも、誠に遺憾ながら後ほど己で一人虚しく処理致しますとしか答えようが無く。然して其れを音さんに告げるのも憚られて黙ったままでいると、不意に音さんに手を取られました。
    「音さ…っっ」
    あろうことか、取られた手は、止める間も無く音さんの股間に宛がわれてしまいました。なんてことだ。いや、男同士なのだからそれくらいどうしたと言われればそれまでの話ですが、相手が音さんなら話は別です。全く別です。次元の違う話です。違うんです。俺にとっては。
    風呂にも一緒に入ったことは御座います。当然裸も見たことも或るのです。但しそれは音さんが子供の頃の話であって、今の音さんの裸なんて未だ拝んでおりません。想像はしましたけれども。呆れられるくらいに想像はしましたけれども。未だお眼に掛かったことはないのです。それだのに、今、俺の手は布越しとは言え音さん自身に触れている。これで動揺するなという方が無理というものです。おまけに、其処がどうなっているかなど容易に解ってしまったものですから、ドッと汗が噴き出しました。挙句…
    「…此れも、どうしたらいい?」
    などと、行動にそぐわぬ恥じらいの滲んだ声で聞かれてしまっては、どうしようもないではないですか。
    「…声、我慢できますか?」
    神様、仏様、平之丞。すいません。俺を許してください。
    「…わからん」
    ですよね。俺も解りません。解りませんけれども、なけなしの理性は総動員したく、せねばならぬと思う次第です。貴方と俺の尊厳の為に。
    「…最後、までは、しません…から…」
    しないからなんだというんだ。と、己に問い質したい所で御座いますが聞こえた声は予想外でした。
    「ないごて?」
    その一言は余りに惨い。何たる非道。小首を傾げないで下さい。潤んだ瞳で見詰めないで下さい。後生ですから。
    「っだから…」
    「わかっちょ…」
    必死の思いで絞り出した声に、そんな風に可愛らしく笑わないで下さい。そろそろ限界です。生殺しです。
    「…っすいません…っ」
    余裕の無さが情けない。格好悪いにも程がある。自分で自分にうんざりしていたら「月島」と名を呼ばれました。不意打ちでした。顔を上げたら頬を捉えられて、音さんからのキスを頂きました。ほんの僅か、唇が触れるだけのキスを。
    「ぉ…っ」
    「…月島」
    唇を離した音さんは、するりと俺の首筋に腕を伸ばしてぎゅう、と、抱き着いてきてくれました。
    「…わっぜすいちょ…」
    耳元で小さく囁かれると、何かがぶつりと切れる音をしました。えぇ、それは理性の糸とやらでしょう。
    もうどうにでもなってしまえ。
    「前言、撤回します。」
    「え?…っぅわ!?ちょっ…」
    「そのままつかまっていて下さい。」
    答えを聞く前に音さんを抱え上げて、畳んだままの布団の上まで運んだのは辛うじて残っていた理性が『玄関先よりまし』と判断したからでしょう。
    「つきしま?」
    布団の上に下ろされた音さんは、不安と期待の綯交ぜになった顔をして此方を見上げてくれました。あぁ、なんて可愛らしい。なんて愛おしい。こんなに愛らしくて愛おしいモノがこの世に他に或るものか。
    「音さん。」
    と、名前を呼んだら其れまででした。
    せめて畳んだままの布団を敷こうだとか、ちゃんと愛の告白をして丁寧に触れようだとか、そんな考えはキレイに消え去りました。
    咬みつく様にキスをして、そのまま音さんの唇を貪りました。キレイに整った歯列を、上顎を、舌先で丁寧に舐めて、柔らかな舌を味わいながら、音さんの服を剥ぎ取った手付きは少しどころではなく乱暴だったと思います。一分でも一秒でも早く触れたくて、素肌の音さんを見たくてしょうがなかったんです。
    「っふ、…っん…」
    唇が離れるその度に音さんが漏らす吐息が切なくて、甘くて、背中が泡立つのが解りました。
    「っは…っん、…っぁ…っ」
    シャツを脱がして、パンツに手を掛けると、一瞬だけ抵抗されたような気がしましたが、其れを無視してひと息に脱がしてしまいました。申し訳ございません。人でなしと言われても仕方ないかもしれません。獣と罵られても当然です。
    それでもどうしても一刻も早く自分のこの手で音さんをどうにかしたかったので。
    「っ…つき、しま…っ」
    顕わになった音さんの肌が、若さの所為だけではなく余りに美しくて。暫し釘付けになって凝視していると恥ずかしそうに顔を隠されてしまいました。
    「…っそんな、見んで…」
    申し訳ございません。けれどもそれは無理な話で嫌だと言われても全部見たいのです。お許し下さい。今だけは。それでも一応「善処します。」と答えたのは、音さんのご機嫌を損ねたく無かったがためです。浅ましい。気を取り直してキスをして愛撫を再開しようとしたら、ぐい、と肩を押されました。此処へ来てまさかの拒否。かと思いきや、そうではありませんでした。
    「っ…音さん?」
    「…脱いで…」
    「はい?」
    「おいも…月島の、身体、見たい…」
    ただのおっさんの裸ですけれども。其れなりに鍛えてはいますけれども。貴方の隣で見苦しい姿で居たくないので一応は気を付けているつもりですけれども。
    衆人の眼に耐えるものかは存じませんが、音さんに見たいと言われては断りようもありません。
    少しだけ身体を離して上着を脱ぎ捨てると、音さんの視線が刺さるようでした。下も脱げという事ですね。そうですね。俺も貴方を脱がしましたしね。俺だけ脱がないわけにはいきませんよね。事務にでも通ってもっと身体絞っときゃよかった。今更過ぎるけれども。
    「…ご満足で?」
    問い掛けたら音さんは目を細めてうっそりと笑ってみせてくれました。誘っていらっしゃるんですかね?それは。早く来いという事で?
    「…つきしま…」
    名前を呼んで腕を拡げて下さるという事は、そういう事ですよね?それでいいんですよね?それこそ、今更も過ぎますし、違うと言われても最早止まることなんて出来そうにもありませんが。
    誘われるように音さんの腕の中に飛び込んで、その首筋に顔を埋めると「つきしま」ともう一度名前を呼ばれました。
    「…早ぅ、おいを月島のもんにしてくいやい…」
    耳を疑う言葉でしたが、此れほど幸せな言葉があるかとも思いました。なんと答えたかは覚えておりません。何も答えられなかったのかも知れません。何せ記憶がないもので。
    ただ、ただ、音さんが可愛くて、愛おしくて、堪らなくて。無我夢中で音さんを抱きしました。
    何処を如何触って、音さんが、何処に如何触れられたらどんな反応をしていたか。どんな声を漏らしたか。
    何もかも全て克明に記憶しておきたいくらいでしたが、何せ夢中だったもので。
    唯一つ、明確にお伝えできるのは、音さんは俺の話をよくよく聞いて下さったものか、最中も終始声を抑えようと懸命に耐えてくださいました。
    涙目だったのがボロボロと雫を零しながら、上がる息の合間に切なく吐息を漏らすばかりで、必死に声を漏らすまいと耐えてくださいました。なんていじらしい。なんと口惜しい。ここがぼろアパートなんかでなければ、何を我慢させずともその可愛らしい声を余すことなく聞くことが出来たのに。音さんに辛い思いをさせずに済んだのに。最中だと言うのに何度己の不甲斐無さにうんざりしたことか。
    「…音さん…俺に、咬みついてもいいですから…」
    自分の手を噛んで子を堪える音さんの手を取って、そう声を掛けると、音さんは涙に濡れた眼を瞬かせてそれから恐る恐る俺の首元に縋ってくれました。直後に肩口に咬みつかれましたが、噛みつかれる原因を作ったのは私ですし。音さんの縋る腕の強さも、肩口に走る痛みも、抱き締めた身体も、その内側の熱さも、何もかもすべてが愛おしくて堪りませんでした。
    音さんを揺さぶって、掻き抱いて、互いに欲を吐き出した刹那、耳元で声が聞こえました。
    「つきしま」と、呼ばれた声に顔を上げると、熱に浮かされたような顔をして「うれしい」と音さんは確かそう言いました。
    「…俺もです…」
    答えて、音さんの顔を覗き込んだら、音さんは嬉しそうに、本当に嬉しそうに笑ってくれました。初めて見る笑顔でした。キレイな人だ、美しい人だ、可愛い人だとずっと思っていましたが、俺はこの人の本当に美しいところは未だ知らなかったのだと、その時初めて知らされました。此れからそれを知っていけるのだとも、其れを知れるのは俺だけなのだとも、その時初めて知ったのです。恥ずかしながら。
    「…幸せです…すごく…幸せです。」
    思わず零れた言葉に音さんは笑ってくれました。音さんがあまりに綺麗に笑うものだから、泣きたいような気になって、音さんを強く抱き締めました。
    「つきしま…おいも…幸せじゃ…」
    はい。幸せです。本当に。幸せ過ぎて、どうにかなりそうです。


    気が付いたら朝でした。
    ぼろアパートの窓辺に吊るされた薄っぺらいカーテンから漏れて来る朝日に起こされ、天井を見詰める事暫し。
    目を擦りながら身体を起こして、すぐ隣で眠る音さんを認めて漸く昨夜が夢では無かったと理解しました。理解もクソもないのですけれども。夢だと思ってもしようが無いでは無ですか。音さんと終にこの手で抱いてしまったのですから。
    音さんの身体の至る所に触れた己の手をぼんやりと見詰めて隣の音さん見遣ればその寝顔のあまりの美しさに見惚れてしまいました。美しい人は本当に何処までも美しい。昨夜もずっと美しかった。などと夢のような一夜を反芻して幸せに浸ってしまいましたが、一頻り幸せに浸った後に襲ってきたのは後悔と反省でした。
    音さんを抱いたことに後悔は御座いません。但し、場所とやり方は他にもあっただろうと反省はしなければならないでしょう。例え今更だろうとも。
    俺が怖気づいて逃げたりしなければ、こんなぼろアパートで声を殺して隣近所の気配に気を遣う必要も無かったのです。色々ちゃんと準備して、音さんをもっと気持ちよく、落ち着いて抱いてあげられた筈だったのにと思う次第です。
    音さんは当然初めてだったわけですし。きっとこの先も初めての事なんて忘れないでしょうし。俺だって忘れません。そうして思い出すのがこのぼろアパートで色んな我慢をさせての行為になってしまったのは申し訳なく。
    ホテルではないにしても、せめて自宅がこんなぼろアパートでなければそこまで気にしなくてもよかった訳で。どうせ寝るだけだからと住み続けて居たぼろアパートでしたが、これから音さんがこうして泊って行くこともあるのだとしたら、その度にここでは無理だ、いやしかしと問答を繰り返すことになりかねません。挙句の果てに昨夜のように我慢に我慢を重ねさせて事に及んでみたりするのだとしたらいい加減引っ越しを考えるべきか。
    音さんが泊まりに来るのだとしたら、それなりに綺麗な部屋を探すべきでしょう。あまり狭い所も避けたい所です。音さんのことだから、これからしょっちゅううちに来るのかも知れませんし、俺の帰りを待っていてくれたりするかもしれません。だとしたら。いや、それは思い上がりが過ぎるかもしれないのですけれども。若干調子に乗っているのかもしれないのですけれども。音さんの性分を考えたらそうなるであろうことは想像に難くないのであって。であれば、やはりここは思い切って引越を考えるべきではないか。
    それならいっそ先々を見越して同棲を持ちかけてみるのは如何だろう。いや、まだ流石に気が早いか。そもそも先々とはなんだ。なんだも何もこうなったからには男・月島基、責任を持って一生涯、音さんを大事にするつもりなのですけれども、だとしたら改めてちゃんとした告白といいますか、プロポーズなりなんなりすべきなのかと考えてみるのですけれども。其れこそ気が早過ぎるでしょうか。一度抱いたくらいで厚かましいにも程がある。と言われそうな所ですが。いやしかし。相手は音さんなのだし。
    音さんは子供の頃から十数年、俺を想い続けてくれていたのだし…等と延々考え込んでいる内に音さんが目を覚ましてしまいました。
    「っ…ん…っ…」
    安カーテンから漏れる陽が眩しかったんですね。すいません。今度遮光カーテン買ってきます。眼を瞬かせて眩しそうに此方を見上げて来る寝起きのその顔も美しい。寝起きが美しいなんて反則だと思うのですが。
    「っおはよう、ございます。」
    「…おはよう。」
    声が掠れていらっしゃいますね。一杯我慢して耐えていらっしゃいましたものね。俺の所為で。俺の所為なのに。
    「っその…大、丈夫、ですか?
    恐る恐る問い掛けると、音さんは薄ら笑って「うん」と答えてくださいました。嘘ですよね。全然大丈夫な訳ないですよね。解っています。ちゃんと解っています。解っているのに下らないことを聞いてしまってすいません。嘘でも嬉しいですその笑顔。
    「水を持ってきます。」と、布団を離れようとしたら、「月島」と掠れた声に呼び止められました。
    「はい」と答えて振返ったその先に待っていた音さんの笑顔を、どう表現したらいいでしょう。
    「眼が覚めて、直ぐ傍に月島が居るんは幸せじゃな。」
    寝乱れた髪もそのままに、涙の痕の残るその顔で、薄らと微笑んで告げられたその言葉に、心臓を鷲掴みにされたような気がしました。
    「…俺も、音さんがいて幸せです。」
    言葉は勝手に口から零れていました。零れた言葉に、恥ずかしくなって誤魔化すように笑ったら、音さんも一緒に笑ってくれました。
    なんて幸せな朝だろう。
    こんな幸せな朝を、これからずっと、迎えられたら。

    などと浸りきっていたらタイミングを見計らったように音さんのスマホが鳴りました。唯のアラームかと思ったら、其れは平之丞からの着信でした。お前どこかで見ていた訳ではないだろうな?と幼馴染を疑ってしまったのですが。そんな事は或る筈は無く。けれども、さて、如何したものかと思っていたら、あろうことか、音さんは平之丞の着信を無視してスマホの電源を切りました。平之丞は大層なブラコンですが、音さんもそれなりの筈ですが此れは如何に。
    「いいんですか?」
    「よか。」
    思いの外きっぱりとしたお返事で。
    「然し…」
    「月島と居るんを邪魔されたくなか。」
    なんて。そんな可愛らしい事を言われたら、堪らなくなってしまうじゃないですか。
    水を取りに行くのを一旦保留して、音さんを抱き締めにいったら、音さんはくすくすと笑って俺を抱き返してくれました。
    あぁ、本当に、幸せ過ぎてどうにかなりそうです。


    余談だが、五分と経たず俺のスマホに平之丞から鬼のような着信が入り、それに業を煮やした音さんが出てしまったものだから俺は電話口で聞いたことの無い平之丞の怒鳴り声を聞くことになりました。
    平之丞はどうやら早口の薩摩弁で「おいん音に何をした」と言ったらしいのですが(電話口から漏れ聞こえた声を音さんに訳して頂きました)音さんは平之丞のモノではありませんし。俺のモノですし。いや、音さんは音さん自身のモノですけれども俺のモノといいますか。
    そもそも、何をしたと問われてその仔細を答えたりなどしたら其れこそ命に関わる話になるに違いなく。

    え?覚えていないんじゃないのかって?さて。そんな事を言いましたか?どうでしょう。そうだとして、何方にも、仔細などお伝えする気は御座いませんが。

    其処の所はどうかひとつ。
    何卒ご容赦下さい。


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    fujimura_k

    PAST2023年12月発行『喫茶ツキシマ・総集編』(番外編部分)
    月鯉転生現パロ。喫茶店マスターの月島と作家の鯉登の物語。総集編より番外編部分のみ。
    喫茶ツキシマ 総集編(番外編)例えば
    こんな穏やかな日々が
    この先ずっと

    ずっと
    続いていくなんて

    そんな事があるのでしょうか。

    それを
    願っても、いいのでしょうか。


    ***


    図らずも『公衆の面前で』という派手なプロポーズをして以来、鯉登さんは殆ど俺の家で過ごすようになった。
    前々から昼間は大抵店で過ごしてくれていたし、週の半分近くはうちに泊っては居たのだけれど、其れが週四日になり、五日になり、気付けば毎日毎晩鯉登さんがうちに居るのが当たり前のようになっている。
    資料を取りに行くと言ってマンションに戻ることはあっても、鯉登さんは大抵夜にはうちに帰って来て、当然のように俺の隣で眠るようになった。
    ごく稀に、鯉登さんのマンションで過ごすこともあるが、そういう時は店を閉めた後に俺が鯉登さんのマンションを訪ねて、そのまま泊っていくのが決まりごとのようになってしまった。一度、店を閉めるのが遅くなった時には、俺が訪ねて来なくて不安になったらしい鯉登さんから『未だ店を開けているのか』と連絡が来た事もある。
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    fujimura_k

    MOURNING2022年5月発行 明治月鯉R18 『鬼灯』
    身体だけの関係を続けている月鯉。ある日、職務の最中に月が行方を晦ませる。月らしき男を見付けた鯉は男の後を追い、古い社に足を踏み入れ、暗闇の中で鬼に襲われる。然し鬼の姿をしたそれは月に違いなく…
    ゴ本編開始前設定。師団面子ほぼほぼ出てきます。
    鬼灯鬼灯:花言葉
    偽り・誤魔化し・浮気
    私を誘って

    私を殺して


     明け方、物音に目を覚ました鯉登が未だ朧な視界に映したのは、薄暗がりの中ひとり佇む己の補佐である男―月島の姿であった。
    起き出したばかりであったものか、浴衣姿の乱れた襟元を正すことも無く、布団の上に胡坐をかいていた月島はぼんやりと空を見ているようであったが、暫くすると徐に立ち上がり気怠げに浴衣の帯に手を掛けた。
    帯を解く衣擦れの音に続いてばさりと浴衣の落ちる音が響くと、忽ち月島の背中が顕わになった。障子の向こうから射してくる幽かな灯りに筋肉の浮き立つ男の背中が白く浮かぶ。上背こそないが、筋骨隆々の逞しい身体には無数の傷跡が残されている。その何れもが向こう傷で、戦地を生き抜いてきた男の生き様そのものを映しているようだと、鯉登は月島に触れる度思う。向こう傷だらけの身体で傷の無いのが自慢である筈のその背には、紅く走る爪痕が幾筋も見て取れた。それらは全て、鯉登の手に因るものだ。無残なその有様に鯉登は眉を顰めたが、眼前の月島はと言えば何に気付いた風も無い。ごく淡々と畳の上に脱ぎ放していた軍袴を拾い上げて足を通すと、続けてシャツを拾い、皺を気にすることもせずに袖を通した。
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