叶わぬ夢「んー?」
「どうされたのですか?魏先輩」
夜狩りの際に使う招陰旗と呪符の作成を皆で集まり作っている最中に、本来なら指導してくれる魏無羨が筆を片手に唸っている。
呪符が書けないのか?と思いながら姑蘇藍氏の弟子たちがその手元を覗くと、白い紙に人の顔や姿が描かれては、墨で消されていた。
「どんなのを描けばいいのかわからん」
「なにを描かれるんです?」
魏無羨が絵を描いている所などいままで見たことがなく、誰もが驚いた。
「美人画を、ね」
「美人画!?」
絵を描くことでさえ驚いたのに、それも美人画!?
「魏先輩、どうしてそんなことを?」
「清河聶氏の聶宗主から、頼まれた」
「聶宗主から?」
「ほら、あいつ、美術品に目がないだろ?何でも聶家お抱えの絵師で美人画集をつくることになったらしく、俺にも描かないかって」
扇をパタパタさせながら、頼りなげにほんわかと笑う清河聶氏の宗主を思い浮かべた。
勇猛果敢な一族として名を馳せる聶家の歴代宗主の中で芸術と風雅を愛する異例の存在、聶懐桑。
お抱えの絵師も多く、彼が支援している芸術家も多いと聞く。
特に春画本の収集家としても有名で、彼曰く、
「春画は只の性本に非ず。これも1つの芸術品です」
と、世の男性の心強い味方で、違う意味で敬愛と尊敬を受けていた。
そんな聶懐桑が作る美人画集。
ごくりと姑蘇藍氏の弟子たちは唾を飲み込んだ。
見たい!見てみたい!!
「魏先輩って絵がお好きなんですか?」
興味深々の藍景儀が、目を輝かせて身を乗り出してくる。
他の弟子たちも手は僅かに動いているが、耳はこちらに向いていた。
「まあ、ね。これでも上手いほうなんだぜ?昔、含光君を描いて、怒られた」
「怒られた!?」
己たちの師匠の絵を描くだけでも勇気がいるのに、これまたどうして怒られる事になったのだろう。
というか、この人、含光君を怒らせることにかけては天才だな、とある意味尊敬の念を抱かずにいられない。
「髪に花を描いたから」
「!?」
知っていたけどなんて無謀な人だろう。
「あ、違う違う!絵はとてもくだらん、って言われたんだ。読んでた本を春画本とすり替えたから怒られた」
「!?、!?、!?」
「お前たちと同じ位の年だったなー。藍湛が目を吊り上げてさ、表に出ろ!とか言うんだもん。笑ったら、ビリビリに春画を破られた。そこからもー、失せろ!って怒る怒る。まあ、俺も負けずに言い返して、失せたけどね」
いい思い出、とゲラゲラと笑う魏無羨に、弟子たちは出る言葉もない。
この人、寿命が短いハズだとボソボソとどこかで囁かれた。
「でもさ~、美人っていろいろあるだろ?どれを描くべきか……あ!」
にんまりと意地の悪い笑みを浮かべた魏無羨は弟子たちに流し目を送る。
「なあなあ、お前たちの理想の美人ってどんなの?」
「魏先輩、女性に免疫のない我々に聞きますか?」
真っ赤になった藍思追がもごもごと皆を見ながら答える。
誰も彼もが真っ赤になって俯いている。
それを眺めた魏無羨は頬杖をつき、筆をブンブンと振る。
「男として生まれたなら、理想ぐらいあるだろ?胸が大きいとか、柳腰だとか」
「止めてください、魏先輩!!」
「ちょっとしたことでもいいんだよ~、俺がそれを絵にしてみるからさ~」
口を尖らせて、ブーブーと魏無羨は文句を言う。
しかし、どんなに文句を言われても仲間の前で、理想の女性のイメージを話すには抵抗がある。
思春期の男の子はかなりナイーブなのだ。
「そんなに簡単に描けますか?」
話を逸らそうと藍思追が試みる。
だが、魏無羨はそんなことはお見通しとばかりにニヤニヤしていた。
「藍湛の絵も四半刻で描いたぜ?景儀、お前の理想は?」
「えーっと、やはり胸はそこそこあって、目は二重、鼻筋はスッとしてて、小さな唇、目の下に泣き黒子があるといいですね~」
あああ、と誰もが頭を抱えた。
藍景儀、悪気がないんだけど、皆を瞬時に固めてしまう男。同時に、姑蘇藍氏の中で一番世俗的でもある。
「やけに具体的だな、おい」
「それ、この前の夜狩りの時に出会った女の子じゃない?」
「あ~、あの可愛い子ね!」
みんなが一瞬にして思い出すぐらい可愛い子だったのだろう、魏無羨は満足気に頷いた。
「ふんふん、景儀はっと、可愛い女の子が好みね~、女の子は面長?丸顔?」
「やや、丸顔です!」
二言、三言、軽い質問を藍景儀にしながら、サラサラと魏無羨は紙の上に筆を走らせる。
「わっ、魏先輩!早くて上手い!!」
「そうそう、こんな感じですよ!!」
「できた!!」
「ほわ~!!!」
紙の上の墨を乾かすように、魏無羨がフーフーと息を吹きかける。
それを争うように覗きこんだ弟子たちは、あまりの腕前に息を飲んだ。
「俺も!俺も描いて下さい!!」
「私も!!」
雲深不知処という特殊な場所は春画本なんてもってのほかだ。
となると理想の女性の姿絵など所持するどころか手に入れることさえ難しい。
魏無羨という才能の塊に、弟子たちは神に感謝した。
もし見つかったとしても、含光君だったら、魏先輩が描いたものなら無下にはしないだろう。
藍啓仁の怒る姿も浮かんだが、そこは若い彼らの煩悩が勝った。
要は開き直ったのだ。
「ちょっとみんな!!招陰旗は!?」
夜狩りのことなどそっちのけで、自分の理想の女性を熱く語り、姿絵を描いてもらう友たちに、藍思追は呆れていた。
「まあまあ、思追。ちょっと俺に協力して?」
てへ、と筆を走らせながら笑う魏無羨に、藍思追は大きなため息をついたのだった。
1刻半後。
卓の上にズラズラーと並べた紙には雰囲気のそれぞれ異なる美人画が描かれていた。
「ううっ、嬉しい!」
「いやー、これはこれで本ができそう」
「魏先輩、凄いです!!」
称賛の声も感謝の声も、魏無羨は聞こえてないらしく、まだ筆を持ったまま頭を傾げている。
「んー、何か違うんだよなあ」
上を見上げたり、下に俯いたり。
せわしなく動く魏無羨の様子に、一同も首を傾げた。
「魏先輩、納得できないみたいだな」
「ご自分が描きたい美人ではないということか」
「あ、でもそれはそうかも!」
藍景儀がにこにこと笑う。
「だって、お隣にいらっしゃるのが含光君だぜ?どんな美人もかすれるだろ?」
シーンとなった部屋が、瞬時にどよめいた。
「言えてる!!」
「そうだ、そうだ」
「……と、いうことは、誰か魏先輩に含光君を描けばと言えば済むのか?」
途端に、誰もが青ざめて首を振る。
言えない、そんなこと言えない。
美人画に含光君をモデルになんて言おうものなら、魏無羨は楽しむだろうが、師匠の耳に入れば冷泉で凍え死ぬこと間違いなしだ。
「魏先輩。いつまでにその美人画は聶宗主にお渡しされるのですか?」
「んー、1ヶ月後ぐらいかな?」
藍思追が穏やかに声をかけると魏無羨が軽やかに答えた。
「まだ1ヶ月あるのでしたら、先達や市井の皆様にもご意見を聞かれるのもいいのでは?我々ではまだ経験も浅く、魏先輩のご期待には答えられないかと」
藍思追、ナイス!!!
「それと早く夜狩りの準備をしないと沢蕪君から怒られてしまいます」
「えっ、わっ、もうこんな時間!?ほらっ、さっさと終わらせるぞ!!」
やっと魏無羨の意識が美人画から夜狩りへと向き、どこからともなくほっと安堵の吐息が漏れた。
卓の上の美人画を藍思追はまとめる。
みんなの理想の人を眺めながら、自分の中にはそんな人が居ないことを知っていた。
紙の中にしか存在してないものと違って、眩しく憧れ、ちゃんと息をして存在している人。
もし魏無羨が描いてくれるというのなら、いつか夷陵老祖と含光君の絵を、と頼んでみるのも悪くないと思う藍思追だった。
後日談。
清河聶氏の聶宗主監修の美人画集は例年にない大ヒット作となった。
水墨画の巨匠、春画の巨匠、草子の挿し絵画家等、有名からマイナーな画家が一同に思い思いの美人画を描くというこの企画は、瞬く間に世の男性のみならず女性にまで高評価を得た。
一歩間違えば、卑猥な部類にも入りかねないその本が聶懐桑の拘りと質の良い紙等で高級感を出す事により、1つの芸術品として認められたのだ。
コソコソと懐を押さえて、弟子の寮に戻ってきた藍景儀に視線が集まる。
持ち込む物をチェックされる当番には、話をつけてあったのですんなり通れた。
「魏先輩がどんな絵を描かれたのかも気になるけど、これ凄い!」
パラパラとめくる紙の手触りの良いこと。
描かれてる絵の素晴らしいこと。
今にも目の前にその美人がいてもおかしくない程の緻密さに、ただため息をしか出てこない。
もちろん、子供には目の毒な絵もあったが、聶宗主の芸術という言葉に背を押されて、これも知識として大事!といい聞かせながら食い入るように見る。
ページも終わりになろうというのに、まだ魏無羨の絵が出てこない。
「んん?魏先輩の絵はどこだ???」
監修した聶宗主のあとがき解説と参加協力してくれた画家たちへの感謝の言葉が綴られたページが最後になっている。
後は白いページが1枚だけ。
「えー、魏先輩、美人画を描かれなかったのかー??」
どんな絵を描いたのか、魏無羨に問い詰めるも濁されるばかり。
「あの様子だとやはり描かれなかったのかも」
途端にしょぼんとなった弟子たちである。
尊敬する魏無羨の絵がとても楽しみだっただけに落胆も大きい。
興味を失われた皆に見向きもされなくなった本を藍思追は持ち上げた。
そしてフッとある違和感を感じる。
表紙の裏には白いページがないのに、どうして最後には1枚白いページがあるんだろう?
それも心なしか、白いページは空洞があるような。
小刀を取り出した藍思追は、白いページの下の方に小刀で傷をつけ、そこに小刀を差し込み薄い紙を破らないように丁寧に切る。
やがて、その薄い紙がめくれるようなると下から1枚の絵が出てきた。
「これは……」
白いページは薄い割には透過性はないため、下に絵があってもわからない。
そこに描かれていた絵は水浴びをしている人の背中の絵姿だった。
上半身は裸で、腰から下は水に浸かっており、長い艶やかな髪はそのうなじを見せるよう片方にまとめられて前方に流されていた。
顔は背後のこちらを見るように向けられ、切れ長の目は憂いを帯びるように細められ、うっすら浮かぶ微笑ははにかんでいるように見える。
妖艶さと清純さの危うい均衡を保つようなその美女に、藍思追はあっと声を上げる。
これは、まさか…………
「ん?どうした、思追」
手に本を持ち茫然としている藍思追に藍景儀が声をかけ、その手元を覗いて、うっと呻いた。
2人の固まった姿をみんなが訝しく思い、ワラワラと集まって、本を覗きこんだ。
「描いてるーーー!!!!」
わーわーと騒ぐ弟子の声が雲深不知処に木霊した。
「魏嬰」
「あ、おかえり、藍湛」
魏無羨は大量の洗濯物を両手に抱えていた。
かなりの量なので、前は見えない。
他の家事はできないけれど、洗濯物を畳む仕事は魏無羨の担当だった。
洗濯物を取り込み、藍忘機が帰るまでに畳んでおこうとはりきっていた魏無羨は、側に寄ってきた藍忘機の足が視界の端に入り、慌てる。
「前、見えてないから近寄るな~」
「君に聞きたいことがある」
「ん~?」
よいしょと、まずは自分の寝台の上に洗濯物を下ろして、振り向こうとしたその背後から覆い被さられ、そのまま寝台に倒れ込む。
「ちょっ、藍湛!ふざけるな!洗濯物がシワに・・」
背中に体重をかけてのし掛かっている恋人は、魏無羨の左手をそのまま寝台の上に押さえ込んで起き上がれないようにする。
「おい、藍湛!」
藍忘機に抗議しようと顔を向けたその鼻先に、トンと本が置かれた。
本は倒れることなく藍忘機が支えている為立っており、魏無羨が目を背けられないほど近い。
「これは、何だろう?」
地低い声が耳のすぐ側から聞こえる。
藍忘機の端正な顔が魏無羨の右真横に現れた。
普段ならぞくりと身を震わせる甘い睦言を囁く声が、どうしてかこの時は違うぞくりに震える。
「弟子たちが持っていた本だ」
ちょうど先ほど聶家から届けられたまだ見ていない本に似ているような気がして、魏無羨は背中に嫌な汗をかく。
「えー……なんだろー、この本」
視線をさ迷わせて、どうにか藍忘機の下から這い出そうとするが、びくとも動かない。
「聶懐桑が作った本だそうだ」
ドキッ!
「へ、へー…そうなんだ」
とぼけようとした、魏無羨の前で藍忘機は器用に片手でページを捲る。
「私はこのような本に疎いので知らなかったのだが、見る者が見ればかなりの価値のあるものらしい」
知ってる、というか聶懐桑から依頼を受けたからわかっている。
風の噂で、聶懐桑の拘りが凄くて何度も描きなおしをさせられた絵師もいたという。
逃亡しようものなら、聶家の者が追っかけてきて、描き上げるまで倉に閉じ込められたとも。
魏無羨が描いたものは、拍子抜けする程、すんなりと受け取ってもらえた。
実際、使われたのか使われなかったのかはまだ見てないのでわからないが、もしかしたらお眼鏡に叶わずそのまま使われなくなったのかもと思った魏無羨だ。
「ああ、あった」
カサと紙の音が響き、白いページがヒラヒラとしている。
他のページよりも薄いそのページに眉を微かにひそめた魏無羨は藍忘機の意図がわからない。
このページに何がある??
藍忘機の細長く節がしっかりして避塵を握る指が、破れたページをゆっくり捲る。
現れた絵に、あっ、と思わず魏無羨は声が出た。
な、なんでこんな所に!?
まるで、人目から隠すようにあった絵は間違いなく自分が描いた絵だ。
聶懐桑!!
こんな仕掛けを作るなんて!!
心の中で、扇で口元を隠しながらクククっと笑う友に毒づく。
「魏嬰、これは?」
はっと我に返り、もう1つの厄介な恋人を思い出した。
「えっ、これはって?」
「この絵は、君の描いた絵だ」
「えーっと……」
「これは、誰?」
「誰って、その………」
ああ、もう!
こんな仕掛をした聶懐桑も聶懐桑だが、わざわざ施された仕掛けを見付けた奴も見付けた奴だ!目敏いにも程がある!
「それより、なんでこれを藍湛が持ってるんだ?」
「思追たちが持っていた。……魏嬰、答えよ」
ぎゅうと目を閉じ、魏無羨は体から力を抜いた。
藍忘機のしつこさを知ってるし、誤魔化しが効かない事もわかっている。
「そうだよ、俺が描いた。理想の美人」
「理想の……美人」
魏無羨の答えを聞いた藍忘機が身体を一瞬引き、ぱたりと本が寝台に倒れる。
藍忘機ののし掛かる力が弱まった隙を見て、魏無羨は俯せから、仰向けへと体を入れ替えた。
いたずらを思い付いたような瞳が自分を見上げ、藍忘機はごくりと喉を鳴らす。
その首に、するりと2本の腕が甘えるように絡まった。
「とても絵なんかじゃ表せなかったなあ。俺の綺麗な綺麗な恋人」
引き寄せられるのは重力に負けたからではない。
腕の中の強烈な引力に抗える筈もない。
吐息がかかるほど唇が近づき、魏無羨は愛しい人の唇を嘗めた。
「お前だよ」
しびれるような呟きに、藍忘機は愛する魏無羨の身体を強く抱きしめ、深く深く口づけた。
美人画集は姑蘇藍氏の禁室の奥深くに収納されることとなり、禁書扱いに近いものとなった。
持ち出すことならず、見ることならず。
すこしづつ、家訓が追加されていく。
ただ、世に出回った美人画集には魏無羨の絵は載せられておらず、限定品として世の中に3冊のみ存在する幻の本となった。
1冊は聶懐桑が、1冊は魏無羨が、そしてもう1冊は姑蘇藍氏の禁室に。
この幻の本の噂はマニアたちの収集欲を掻き立て、市場に偽物が溢れた。
聶家が、その駆逐に労力を注いだのは言うまでもない。
「聶懐桑が冗談で市場に出した1冊を引き当てるなんて、景儀って凄いな」
禁室に本を収納し、あっけらかんと話す魏無羨に、藍忘機はそうだろうかと思う。
弟子の手を通して聶懐桑は自分に見せたかったのではないだろうか、と疑っている。
聶懐桑のちょっとしたイタズラ。
違う美人画を魏無羨が描いていたのなら、藍忘機に嫉妬させるように。
ただ、もし藍忘機を元に描いたのならば、羨望を込めて。
「あーあー、有名な画家になり損ねた」
両腕を頭の後ろで組み、魏無羨がぼやく。
多種多芸な恋人は本当に自分を飽きさせない。
その体から眩く漏れ出す光にやや目を細めながら、藍忘機は禁室の階段を昇るその背を追った。