寸話「あ、ありがとうございました……」
ちらりちらりと自分たちの後ろに向けられる視線に藍氏の弟子たちはさもありなんと皆、苦笑した。
この場に漂う異臭。
その異臭を放つ存在が自分たちの後ろにある。というか、いる。
「いえ、これで怪異もおさまるでしょう」
藍思追が丁寧に言うと明らかにほっとした屋敷の当主は藍氏の仙師ににっこりと笑った。
「些少ではございますが、皆様、お食事を用意してございます。よろしければ……」
主の言葉が詰まったのはしょうがないだろう。
異臭を放つ存在が家の中に入ってしまったらと考えるのは当然だ。
「あ、いえ、お気づかいなく」
藍思追は辞退しようとそう答えた。
当主の3人の娘たちは、姑蘇藍氏の若い見目麗しい仙師たちに声をかけたくて、柱の陰からこちらに熱い視線を向けている。
ただし、皆、鼻を指で摘まんでいた。
「ご当主、申し訳ないが近くに川はあるだろうか」
姑蘇藍氏の仙師たちの後ろから異臭を放つ真っ黒の服の男が声をかけてきた。
「あ……門を出て、少し先に小川がございます」
「ありがとう!」
礼を言った人物は門を飛び出して行った。
実は姑蘇藍氏の中で黒の衣服をつけていたその人物をこの家の当主をはじめ家人は胡散臭いと思っていた。
怪異の原因を突き止めるべく、家の中を調べる仙師たちに対し、その人物は何をするでもなく、屋根の上で寝そべっている。
姑蘇藍氏を率いてきた藍思追という若い仙師が話しかければ手をひらひらさせるだけで、その場から動こうともしない。
案の定、怪異が起こり仙師たちが陣を張っていたときに、屋根の上から転げ、肥溜めの中に落ちた。
一体この男が姑蘇藍氏とはどんな関係なのかわからないが、その人物がこの場から居なくなり当主は、ほっと胸を撫で下ろす。
ただ、姑蘇藍氏の面々は消えたその人物が気になるのか、落ち着かない様子だが。
「お連れ様が小川から戻るまで、どうぞ中でお待ちください。お連れ様は家の者に見にいかせますゆえ……」
「……ではお言葉に甘えて……」
藍思追がそう答えると当主の視界に喜ぶ娘たちの様子が映り、当主はやれやれと肩を竦めた。
小川にいる人物を見てこいという当主の指示に末娘は口を尖らせた。
姉2人に押しきられ見に行く役目になったからだ。
胡散臭いだけでなく本当に臭いその人物に近寄るだけでも嫌なのに……
今ごろ、広間でかっこいい仙師と談笑しているだろう姉たちを恨みながら、門を出ようと足を踏み出した。
その目の前に白い壁が現れ、ドンと顔からぶつかった。
「失礼」
低いが耳によく通る美声に末娘は顔を上げた。
そして、目を見開き口がポカンと開く。
どこかのお伽噺に出てきそうな端正な容貌に優雅で上品な空気を纏う背の高いその人物は家の中にいる姑蘇藍氏の仙師たちと同じ服装をしている。額には抹額があり、末娘は藍氏に間違いないと確信した。
「こちらに藍氏の一団が伺っては?」
「あ、はい、いらっしゃってます!」
緊張して思わず声が上擦り、末娘は顔を真っ赤にした。心の中でやった!と喜ぶ。
広間にいる藍氏の仙師もかっこいいが、この目の前の人物には及ばない。
これまでこんな極上の男を見たことがない末娘はこの幸運に興奮する。
「その中に黒い服を来た者がいたと思うが……」
形の良い唇からもれた言葉に、末娘は現実に引き戻された。
その男を小川まで見に行く羽目になりげんなりしていたことを思いだし、気が重くなる。
「ああ、その方ならば小川に……」
「小川?」
切れ長の目が細められ怪訝そうな表情になった。
「あの……屋根から落ちられて肥溜めに……」
「小川はどちらか?」
「あ、案内いたします!」
末娘の返事に美しい男は踵を返し、案内される道を足早に小川へと向かった。
「魏嬰!!」
下履き1枚になり上半身裸で身体を洗っていた男に向かって、末娘の後ろをついてきた男が名を呼んだ。
末娘は初めてあの臭い男が魏嬰という名だと知る。
小川で身体を洗っていた魏無羨は驚いてこちらを見た。
「へ!?藍湛!?なんでここに?」
続けて末娘はこの美しい男の名が藍湛ということも知る。
「雲深不知処に戻る途中だ。それよりも屋根から落ちたと聞いた。怪我はないのか?」
末娘を追い越し、今すぐにでも魏無羨の元に行こうとした藍忘機を、魏無羨は手を上げて止める。
「来るな!正直言って、今は駄目だ」
この水が冷たくなりつつある季節に小川で身体を洗っている物珍しい男を通りすがりの誰もがちらちら見ている。
「何故?」
苛立ちと焦りが含まれた藍忘機の声音に魏無羨は腰に手を当てた。
「お前、その娘さんに聞いたんだろ?俺が肥溜めに落ちたこと」
「聞いた」
「なら、近寄るな。天下の含光君から肥溜めの匂いがするなんて噂がたつとまずい」
思わず声が出そうになった末娘は慌てて手で口を塞いだ。
噂では知っていた、姑蘇藍氏の含光君・藍忘機。
比類なき美貌と気品に溢れた物腰、仙師としての能力も並ぶものなしと言われた生きた宝玉。
姉達と何度も噂をし、そんな男がいるはずはないと1度は結論付けたが、本当にいた。
噂は本当だったと今すぐ家に駆け戻り姉たちに叫びたいが、年頃の娘なのではしたないとは思われたくない。
末娘が葛藤している間にも、藍忘機はずんずんと魏無羨の元へと向かう。
「だから、来るなって!!匂いが酷いんだから!」
小川の中をざばざばと水を掻き分けて魏無羨は藍忘機から距離を取る。
「匂いなど、関係ない。待つのだ、魏嬰!」
「やだよ!」
「止まれ!」
藍忘機は避塵を鞘から抜くと、水面を切り上げた。剣圧で水飛沫が舞い上がり、魏無羨を襲う。襲い来る水飛沫を顔の前に手を上げて防いだ魏無羨は、同時にその腕を捕まれた。チンという剣を鞘にもどす音が響く。
「君のそんな姿をこんなところで曝して欲しくない」
小川の中で、すっぽりと腕の中に閉じ込めるように藍忘機は魏無羨を周りから隠した。
「そんな姿って……こうしないと洗えないだろう?」
呆れた感じで見上げて言う魏無羨に藍忘機は嘆息する。
「もう少し、自覚して」
汚いとか匂いとかそんなものは、魏無羨の裸を見た瞬間にどこかへ飛んでいった藍忘機だった。
「俺は男だけど……」
「君によからぬ気持ちになる者もいる。私のように」
藍忘機はそっと魏無羨の唇を奪おうとした。
だが、直前で魏無羨の手が藍忘機の唇を止める。
「いまは駄目だって言っただろ……」
「…………ひどい匂いだ、魏嬰」
「はあ!?だから、近づくなって!んっ!」
怒りで魏無羨が手を唇から離した隙に、藍忘機は魏無羨の唇を素早く奪った。
「藍湛!」
「このままでは2人とも風邪をひく。お嬢さん」
自分をここまで案内してくれた末娘に藍忘機は向き直った。
「屋敷にいる藍氏の者たちに、魏無羨は先に私と戻ったと伝えてほしい」
「あ、はい」
末娘の返事にかすかに頷くと、藍忘機は避塵を再び抜き空に浮かべた。そして魏無羨をだき抱えてその刀身に飛び乗り、その場から凄い早さで飛び立つ。
「藍湛、寒いっ〰️〰️!!」
上空からそんな抗議の声が落ちてきたが、末娘が顔を上げた時には2人の姿はかき消え、2人が騒いだ水飛沫の濡れた跡だけが地面に残されていた。
末娘が屋敷に戻るとなかなか戻ってこない末娘を心配して、姉達と当主、藍氏の面々が門の前に集まっていた。
「あ、帰ってきたわ!」
姉が末娘を向かえ入れた。1人で戻ってきた末娘に当主は困惑する。
「お連れの方はどうしたのだ?」
父親の問いに末娘ははっとした。
「あ、あの、含光君がいらっしゃいまして、魏無羨様を連れ帰られました」
「魏無羨様?」
「あ……あの肥溜めに落ちられた方です」
「お嬢さん、本当に含光君がいらっしゃったと?」
隣で話を聞いていた藍思追が声をかけてきた。
末娘は真っ赤になって頷く。
「は、はい。とてもお綺麗な方で、魏無羨様を、その、あの…腕にお抱きになりとんでいかれました」
あの匂いのついた人を!?、やはり含光君だ、と藍氏の仙師たちから声が上がる。
「わかりました。では、我々もそろそろお暇を」
藍思追と藍氏の面々は、当主と娘たちに対して損礼をした。
「あ、あの!」
門を出ようとした藍思追を当主は呼び止める。
「なんでしょうか?」
振り返った藍思追に当主は聞きたくてたまらなかったことを問う。
「あの、黒い方……魏無羨様とは一体……」
「あの方は我々の師匠です」
「えっ、お師匠様ですか?」
「はい」
藍思追は優しく微笑んだ。
「皆様にはお話ししませんでしたが、邪崇が1つ逃げようとしたところを魏先輩がご自分を囮にして食い止められました。反動で肥溜めに落ちてしまわれましたが、そんなことを気にしていたら、邪崇に逃げられるところでした」
我々の未熟さ故です、と藍思追は恥ずかしそうに睫毛を伏せた。
「そんなご立派な方とは露知らず……」
当主がとても失礼な扱いをしてしまったと恐縮していることに、藍思追は首を振る。
「あの方はそんな細かいことには囚われませんから。では、失礼いたします」
「近いうちに雲深不知処へお礼に伺います。その時には是非とも魏無羨様にもお礼を」
「わかりました。お伝えしておきます」
白い装束の一団は隊列を乱すことなく屋敷を出ていった。
「姉様」
末娘は姉に声をかけた。
「あなたも残念だったわね、藍氏の皆様はとても素敵だったわ〰️」
姉たちはきゃっ、きゃっとはしゃいでいる。
だが、不思議と末娘はそれが羨ましいとは思わなかった。
それよりも、もっとすごい場面に遭遇したから。
「そういえば、含光君にお会いしたって言ってなかった?」
わいのわいのと末娘から話を聞こうとする姉たちを末娘はふふんと勝ち誇ったように見た。
「本物はとても言葉では言い表せない方だわ!」
そして、いい男の嫉妬は本当に怖いのだから…………とは言わなかった。
近いうちに父親が雲深不知処に行くという。
その時は父親についていき、今度は仲の良い含光君と魏無羨を近くで見るのだと心に深く決めた末娘だった。