羅星の下キラキラと春の夜空に星が瞬く。
「う~、さぶっ!」
藍景儀は垂れてきた鼻水をすすりながら、外套を着込むと焚き火の前に座った。
春になったとはいえ、まだ夜は冷える。
特に野外は校服の上に厚手の外套を1枚羽織らなければ、野宿などできない。
「この時期に野外訓練しようなんて提案したのは誰だ?」
「魏先輩だね」
藍景儀の責めるような声に藍思追は返した。
言い出した本人は、ほかの焚き火に分かれて座る弟子たちの所を1つ1つ訪ねては、会話をしていた。
『野宿しよう!んんっ?これだと藍先生から許可が下りないか。ん~……野外訓練だな!』
思い立ったように魏無羨が言い出した話。
『天幕を張ってその中に泊まる。食事は現地調達。焚き火の前で語ろうぜ~』
キラキラと今夜の星空に負けない輝いた瞳は、もうその話が魏無羨の中に決定事項としてあることを物語る。
どうせ魏無羨の思い付きに許可は下りないと弟子たちは高を括っていた。
予想を裏切り、あっさり藍曦臣から許可が下り、驚く弟子たちを急かしてばたばたと準備を終えると一行は雲深不知処を出てきた。
「そもそも野外訓練ってなに?思いつきの野宿だろ?夜狩り以外で夜に動き回ることなんてないし、街に行けば宿だってある。わざわざ天幕まで張って外で寝る意味はなんだ?焚き火の前で語る?何を?わけわかんない」
膝を抱えてブツブツ文句を言う藍景儀に、暖かい汁物が入った椀を渡しながら藍思追は微笑む。
焚き火の上には、具沢山の汁の入った鉄鍋とみんなで取った鹿の肉が脂を落としながら焼けていて、美味しそうな香ばしい匂いを漂わせていた。
あちらこちらの焚き火から、旨い!という声が上がっている。鹿の肉は弟子たちに好評のようだ。
「意味はない、と思うな」
「意味はない?」
藍景儀の不満に藍思追が答え、それを聞いた欧陽子真が尋ねた。藍景儀が割り込んできた欧陽子真をじろりと睨んだ。
「そもそもなんで、お前も来たんだよ、子真。参加しなくてもいいのに……」
ズズッと暖かい汁を啜りながら、藍景儀が文句の矛先を欧陽子真へと向けた。
野外訓練をしようと荷物を抱えた藍氏一向に夜狩りの帰りに雲深不知処へ立ち寄った欧陽子真たちが自分達も参加する!と合流してきたのだ。
欧陽子真の魏無羨へ信頼は絶大で、もはや崇拝していると言えた。
「いいだろ?こんな機会は滅多にないんだし。それに魏先輩のやられることに意味がないことはない!」
「出たよ……魏先輩信者め……」
藍氏の座学に参加したいだの、夜狩りを合同でしたいだの、父親である欧陽宗主に頼み込むだけでは足らず、藍思追や藍景儀までにどうにかしてくれと書簡を送ってくる欧陽子真にとれば、魏無羨と一緒の野宿は願ったり叶ったりの機会だ。
「おい、子真。お前、本当に夜狩りの帰りだった?」
藍景儀が焼けた鹿肉を差し出し尋ねると、受け取ろうとした欧陽子真の手が止まり顔が引きつる。素直な欧陽子真らしく隠し事ができないようだ。
「な、何のことかな~?」
「……わかりやすすぎ」
月に何度も訪ねてくる友の目的は、間違いなく魏無羨だ。
最初はほぼ週一の間隔でやってくるものだから、父である欧陽宗主から雲深不知処への立入を禁止されたこともある。
それでも懲りない欧陽子真は、遂に魏無羨から叱られた。
『来るなとは言わないけど、ちゃんと修行してから来い』
その一言で、雲深不知処に来る時は夜狩りの帰りに寄るようになった欧陽子真である。
「また、父上に叱られるぞ?」
脅すように藍景儀がにやりと笑うとふふんと欧陽子真は胸を張る。
「私もちゃんと修行をしているから、大丈夫!魏先輩に褒めていただきたいしね!」
「お前が藍氏じゃなくて良かったわ…」
がぶっと鹿肉に噛みつきながら藍景儀が呆れれば、欧陽子真は鹿肉を持ったままうっとりとした表情を浮かべた。
「魏先輩、かっこいいだろう?あんな風になりたい」
「どれだけお前の中で魏先輩は美化されてんの?」
「美化とか失礼な!魏先輩は存在そのものが素敵だ!」
「うわぁ……」
欧陽子真の魏無羨崇拝に、藍景儀が引く。
「子真が魏先輩を尊敬する気持ちはわかるよ」
苦笑いしながら藍思追が取りなすと、だろ~?と欧陽子真が調子にのる。胸に手を当てて、目を閉じた。
「ただでさえかっこいいのに、なんでも精通してて、含光君にも負けない完璧さ。ああ、尊い!」
「お前……あの激辛粥を食べたよな?魏先輩が雲深不知処でどんな生活してるか知らないくせに、妄想甚だしいな」
「ああ、どうして私は藍氏に弟子入りしなかったんだろう!」
「君は欧陽氏の息子だよ?無理だから」
欧陽子真の暴走に、藍景儀だけでなく遂には藍思追も突っ込んでしまった。
なんだか今、止めておかないといけない気がしたからだ。
「なあ、子真……お前の魏先輩への気持ちは憧れ、だよな……?」
ごくり。
緊張が走り藍景儀と藍思追の喉がなる。
実はずーっと気になっていたことだ。
「え……」
頬を真っ赤にしてもじもじとはじめた欧陽子真に藍思追と藍景儀は真っ青になる。
よもやと思っていたことが当たってしまった。
これはいろんな意味でマズイ。
「やめろ!駄目だ!あの人だけはいけない!」
「子真には相応しい人がきっと現れるよ!」
「えっ?えっ?」
急に迫ってきた友の勢いに押されて欧陽子真も後ずさる。
その背が何かにぶつかり、欧陽子真は顔を上げた。
「なんだ、なんだ。盛り上がってんな、楽しそうな話?」
にんまりと笑みを浮かべた魏無羨がそこに立ち、覗き込むように腰を屈めている。
欧陽子真がぶつかったのは魏無羨の足だ。
「魏先輩!」
嬉々とした欧陽子真に対して、藍思追と藍景儀はタイミングの悪さに頭を抱える。
「子真、久しぶり。元気にしてたか?」
欧陽子真の隣に座った魏無羨が話しかけると欧陽子真は、はい!と元気に答えた。
「最近は真面目に頑張ってるって聞いたぞ。偉いな」
「ありがとうございます!!」
そんな2人のやり取りをじっとりと見ている藍景儀に魏無羨が気づく。
「……なんだよ、景儀。機嫌が悪そうだな?」
「そりゃあ、急に野宿なんて言われたら誰でも機嫌が悪くなりますよ」
「違う。野外訓練だってば」
「名前はどうでもいいですよ。要は野宿でしょ?」
「違うって。こうやってみんなでゆっくり話したかったんだよ」
何か思惑がありそうな魏無羨の様子に、疑わしい気持ちを押さえきれない藍景儀は、ガブッと鹿肉を齧る。
「どう?上手い?」
「そりゃ、まあ……」
「とっても美味しいです、魏先輩!」
不承不承頷く藍景儀に対して、欧陽子真ははきはきと答えた。
さっきまで鹿に追いかけられ、ヒーヒー言って逃げ惑っていたとは思えない欧陽子真の態度の変化に呆れる。
「うんうん。外で食べるのが一番上手いよな!」
焼けた鹿肉に手を伸ばした魏無羨も齧りつく。
「で?さっきは何の話で盛り上がってたんだ?」
ぐふっ!と魏無羨を除いた3人が声にならない声を漏らした。
「い、いえ、魏先輩のお耳に入れるような話じゃ……」
「そうそう!魏先輩には関係のない話ですよ!」
「なんだよぉ~仲間外れにするなよ~!そんなに俺には内緒なわけ?」
慌てる藍思追と藍景儀に対して1人黙りこくり俯く欧陽子真に、魏無羨がにやりと笑う。
「おや~?もしかして子真の恋愛話か?」
ぐあああ!と藍景儀と藍思追が心の中で悶える。
自分の事は疎いくせに、こんな時だけ発揮される魏無羨の勘の良さが憎らしい。
「わ、私には憧れてる人がいまして……」
ぽつりと話し出した欧陽子真に藍景儀と藍思追はひえっと飛び上がる。
話すのか!?本人を前にして!?
「へえ。年上?年下?」
「年上の方です」
「あ~、子真は年上が好みかぁ。でもわかる気がする!お前って甘えたい性格だよな」
ふふっと笑う優しい魏無羨の笑顔に欧陽子真が照れた。
もうそれ以上は止めてあげて……
「気持ちは伝えたのか?」
2人の願い虚しく、魏無羨は続ける。
口の中にある鹿肉の味がわからない。
「ご、ご迷惑になるのではないかと思いまして……」
欧陽子真、わかってるなら口を閉じろ!
必死になって藍景儀がこちらから念を送るが、欧陽子真に届いている気配はない。
「迷惑?え、何?好きになっちゃいけない人?相手は人妻なの?」
驚いた魏無羨に欧陽子真は慌てて手を振る。
「いえいえ、違います!!」
「あ、そうなの?驚かすなよ~」
……人妻……ある意味、人妻だよ……
姑蘇藍氏しかしらない関係に、藍景儀も藍思追も咀嚼する鹿肉が固く感じた。
そもそも、欧陽子真が男である魏無羨に恋慕していること事態、普通ではないのだが、常日頃から藍忘機と魏無羨の関係を見ていると弟子2人の感覚がすこし麻痺しているのは致し方がない。
「告白しないのか?」
「あの、その……だから、憧れなので……」
「そこまでじゃないってことか~」
告白されたら困るのは貴方です、魏先輩。
こちらの焦りも知らず呑気な魏無羨に藍景儀は腹の中でありとあらゆる文句を言う。
「本当に好きなんです。だけど憧れてもいるから、告白して嫌われたくもないんです……」
「子真……」
これには藍景儀も藍思追も黙るしかなかった。
最初から叶いそうにない想いならせめて相手には嫌われたくない。
いじらしい恋心が欧陽子真らしくて、改めて友の不器用さをからかって悪かったなあと藍景儀は反省する。
「子真……がんばれよ」
ぎゅうっと魏無羨が欧陽子真を抱き締めた。
ああああああ〰️!!今、それをやっちゃう!?
カチンと固まり抱き締められている欧陽子真の顔は真っ赤で見ていて可哀想だ。
「う、魏先輩!温かい汁はいかがですか!?」
藍思追が椀から溢れそうな勢いで汁物を魏無羨の前に差し出した。
「あ?ああ、ありがと~」
受け取ろうとした魏無羨の手を欧陽子真が掴む。
「お?」
「う、魏先輩……」
ぎゅと目を閉じて顔を真っ赤にしていた欧陽子真が魏無羨に迫った。
「あの、あの!私っ‥‥」
「含光君!!」
背後からざわざわと声が響き、4人はそちらを振り返る。
淡い焚き火のひかりの中を、存在感を放ちながら優雅な足取りで藍忘機がこちらへと歩いてきていた。
「藍湛!?」
欧陽子真の手を外し立ち上がった魏無羨は藍忘機の方へと駆けていく。
「何でお前、ここに来たの!?」
「静室に戻れば君の姿が無かったから……兄上に聞いたら今夜は野外訓練だと……」
「ちょっと待って。悪い、藍湛にも食べる物を用意してくれ」
近くの焚き火の一団に指示をした魏無羨は弟子が用意している間に、みんなから少し離れた場所に火を起こした。藍忘機もおとなしくその側に腰を下ろす。
「俺は今夜はここでみんなと過ごすからさ、食べたら帰れよ?」
「私もここにいる」
「え、でもそれじゃあ、藍湛が……」
「君に何かあるのではと気になる」
「ははっ、夜狩りじゃないから何もないよ」
おどけた魏無羨に藍忘機が首を振る。
「私が、寂しい」
「藍湛……」
聞こえてくる会話を藍思追も藍景儀も聞こえない振りをする。雲深不知処では藍忘機と魏無羨の会話は聞こえないものとして扱うように暗黙の了解があった。
「でも……俺が居なければ藍湛もゆっくりできるだろ?」
「君が側に居る方がゆっくりできる」
「しょうがないなぁ……おかえり、藍湛」
「ただいま、魏嬰」
折れた魏無羨が微笑むと藍忘機も微笑んだ。
2人の世界を作り出した魏無羨と藍忘機に、やらやれと藍景儀も藍思追も苦笑した。
あ、いかん、いかん。
何も聞こえない、聞こえない。
「……待って……え、と、どうゆうこと?」
藍忘機と魏無羨を見つめて1人状況を飲み込めていない呆然とした欧陽子真に、しまったとその視界を塞ぐように藍景儀が立ち上がる。
「あ~、含光君がいらしたな~」
「うん、いらしたね」
あはは、ふふふと2人は笑うが欧陽子真の目がどんどん据わっていく。
誤魔化せない状況に、焚き火に当たっているのに体が冷えた。
「……そうか……だから2人は止めたんだ……」
「子真……」
「含光君と魏先輩の仲の良さはわかってたよ……だけど、何だろう、どうして……うっ、くっ……」
据わっていた目から涙が溢れ、声を押し殺して嗚咽する欧陽子真に藍景儀も藍思追もオロオロする。
「ごめん、ごめんね、早く教えるべきだった」
「悪かったよ、子真……」
泣く欧陽子真の背を撫でながら、藍思追は養い親の方を見た。こちらの騒動に気づかずに、穏やかに笑みながら寄り添う2人。
「含光君と魏先輩ってやはり……」
嗚咽が落ち着くと欧陽子真が尋ねてきた。
「うん、そう。相思相愛のお2人だ」
藍景儀が、鹿肉を噛みながら答える。
嘘を言えば友が更に傷つく。ここは正直に言う。
「今日の野外訓練、含光君にもゆっくり休んでいただきたかったんだろうね」
毎日目まぐるしく忙しい仙督の公務。
帰れば静室で魏無羨の世話を甲斐甲斐しくする藍忘機の1日はあっと言う間に過ぎていく。
1日ぐらい自分が居なければ、ゆっくりできるんじゃないか。
魏無羨が考えそうだ。
「そうか……この訓練は含光君の為なんだ……」
呟いた欧陽子真の頬を藍景儀がむにっと摘まんだ。
「いひゃい!にゃにするんは!?」
「子真、思追の話、聞いてた?含光君にも、って言っただろ?魏先輩は含光君と俺たちの息抜きを考えてたんだよ」
ぱっと摘まんでいた指を放して藍景儀はぽりぼりと頭を掻いた。
藍忘機を休ませるだけなら魏無羨がどこか宿に泊まれば済む話だ。
それに鹿を狩って焼いたり、温かい汁をお腹いっぱい食べることは雲深不知処にいる限りは出来ない。
「なら、この訓練はみんなの為でもあったわけか……」
「で、お前もそのみんなの中に入ってるわけだ」
「え……」
「子真、君も仲間だよ」
慰めてくれる藍思追と藍景儀に、欧陽子真は笑った。
淡い欧陽子真の恋心は散ってしまったが、魏無羨が大事に思う者には入ってる。
それだけで十分だ。
「……さすが、魏先輩。私の憧れだ」
いつもの元気を取り戻した欧陽子真の肩に藍景儀が腕を回した。
「さっ、お腹いっぱい食べようぜ~。そしていろいろ話そう!」
焚火の周りでの交流は夜遅くまで続き、笑い声が絶えなかった。
誰もが天幕に入り寝静まった事を確認した魏無羨は獣よけの火を絶やさないように焚き火に木をくべる。
魏無羨の天幕には藍忘機がすでに寝ている。
こちらは弟子と違って外にいても規則正しい生活を送っていた。
明け方、藍忘機が起きるまではまだ数刻ある。
それまで火の当番をしようと厚手の外套をしっかり着込むと膝を抱えた。
雲深不知処に住み始めて穏やかな生活を送らせてもらっている。
寝るところにも食べる物にも困らず、慕ってくれる者たちと過ごす日々は温かい。
だが、心のどこかでこの生活が壊れてしまった時を考えてしまう。
「あ~、もう」
頭を抱えて、乱暴に焚き火に木を放り投げた。
ぶわっと火の粉が上がる。
起こるかもしれない未来を心配してもしょうがない。だが、いざ起こった時に何も準備をしていないと守れる人たちが守れない。
最悪の状況を予想する癖は心に取り憑いた後悔から来ている。
魏無羨が溢した吐息は夜の空気に溶けて、変わりに冷たい空気を吸い込んだ。
ほのかに香っていた白檀の匂いが強くなり、魏無羨は顔を上げる。
背後から大きな暖かさに包まれた。
「心配性の魏無羨。君のそんな姿を私以外、誰も知らない」
「目が覚めたのか、含光君。明け方までまだ時間があるぞ?」
落ちてきた眠そうな声に魏無羨はくすりと笑う。ぽんぽんと回された腕を軽く叩くと更に力強く抱き締められた。
「君は1人にすると余計な事を考える。目が離せない」
「俺の気持ちがわかるのか?だから起きて?」
頷く気配が伝わる。
「私がついてる。大丈夫」
「なんで、そう普段は無口な癖にこんな時は欲しい言葉をくれるかなぁ。お前から離れられなくなりそうだ……」
「うん、そうなって」
「ははっ、我が儘な藍忘機を知ってるのも俺だけだな」
パチパチと炎が揺らめき、焚き火が重なる影を地面に落とした。