【出し抜く者を出し抜く男とそれに昂ぶる男】
モクマはひとつ深呼吸をしてから、紺色の扉をノックした。返事も構わず、ドアを開く。
「チェズレイ、お茶にしよ。いい茶葉入ったよー」
書斎の奥で長身の男がパソコンに相対していた。
細身の眼鏡フレームの奥にある菫色の瞳がゆっくりと持ち上がる。青白い光に照らされた頬は肌の白さをより際立て、血の気が薄い。
モクマはチェズレイの目の下に沈着している蒼を見て、ひそかに眉を顰めた。
チェズレイが苛立たしげに細い息を吐く。
その呼吸だけで、進捗がよろしくないことをモクマは悟る。収穫を焦っているのは分かる。だが、五日間も暗い部屋に籠もりきりで最低限の食事を摂ることしかしておらず、根を詰めている様子を見てはモクマも譲れない。
「えー、せっかくルークから日頃の御礼にって贈られてきた上等な紅茶なのに」
ぴくり。チェズレイのこめかみが動いた。ついでにチェズレイの頭上で萎れていたぱや毛も元気になる。
「…………いただきましょう」
ルークの名前を出されたら無碍になんざ、できないよねえ。
モクマは思惑が嵌ったことに独りほくそ笑んだ。
ルークが贈ってくれたのは、はちみつ紅茶だった。
ガラスのティーポットの中で茶葉が広がったのを確かめてから、二人分を注ぎ入れる。華やかで甘い香りがリビング一帯に広がる。
口に含むと、キレの良いセイロン茶葉の渋味の中に蜂蜜の甘いコクを感じる。
頭の中で小さなルークが「あまーい」と叫んできて、モクマはほっこりとした気持ちになった。
チェズレイの口には合うだろうかと視線を持ち上げる。眼鏡をかけたままのチェズレイの眦が柔らかく解けているのを見て、モクマはホッと息をつく。
しばらくすると、チェズレイの頭が静かにソファの背もたれへ落ち始めた。休息を求める身体を押さえつけていた冷徹な理性が温かな紅茶に溶かされて寝かしつけられたのだろう。すぐにチェズレイの口から穏やかな寝息が聴こえてきた。
「……………」
モクマはチェズレイの邪気のない寝顔を見つめながらカップに口を付けた。
脳裏でチェズレイの書斎に散っていた書類を並べる。
「…………」
「ん………」
チェズレイは近づく人の気配に目を覚ました。水を吸ったスポンジのように重い瞼を持ち上げると、モクマがテーブルにティーポットを置くところだった。
「おはよ、チェズレイ」
微笑むモクマの手元ではティーポットが湯気をくゆらせている。甘ったるい匂いは、先程味わったはちみつ紅茶のものか。
新鮮な茶葉がお湯の中で花開く様を眺める。新しく淹れてきたのだろうか。
「おかわりですか」
「ん? んー……、うん。気に入っちゃって」
お前さんもどうだい?と問われて、チェズレイは首を縦に振った。
モクマが淹れてくれた紅茶で唇を湿らせる。喉を通る水分がじわりと内蔵に染み渡るのを感じた。乾きひび割れた砂漠の土地に雨が染み込むかのようであった。
そう、チェズレイは、ひどく喉が乾いていた。
ハッとしてチェズレイは窓の外へ目を向けた。太陽はすっかり地平線へ落ちて、月がぼやけた光を放っている。その月も位置が高い。
次に壁掛け時計を確かめて、チェズレイは目を見開いた。
「随分と気持ちよく寝てたからさ、起こすのには忍びなくてねえ」
穏やかに声をかけられ、チェズレイは声の主、モクマをじとりと睨めつける。
まずい。数時間も眠りこけてしまった。
この遅れを取り戻さなければ。敵が雲隠れしてしまう前に尻尾を掴まなければならないのに。
愛おしいボスからのプレゼントと相棒の気遣いに絆され、寝落ちてしまうなど不覚を取ってしまった。
慌てて立ち上がるチェズレイの背中を呼び止めたのは、相棒の低い声だった。
「仕事なら、もう無いよ」
「は……――?」
チェズレイは息を飲んだ。
モクマの手にはメモリーチップがあった。くるりと指を回し見せてきたラベルには、ターゲット組織の紋章。求めてやまない敵の情報チップだ。
チェズレイの身体が勝手に震え出した。興奮に血が騒ぐ。
なんということだ。この男、チェズレイが眠っていたわずか数時間の間に敵組織の重要施設に潜り込み、機密情報のチップを握りしめて帰って来たのか。
「モクマさァん……」
「隠密は忍びの得意技ってね」
「フフ。まるで俺を使えと私を責めんばかりの成果アピールですねェ」
「そうだね。お前さんにいつまでも書斎に籠もってられちゃあ、おじさん鈍って仕方ないもの。こんななまくらでも定期的に研いでもらわにゃ」
チェズレイは思わず鼻で笑った。
なまくら刀と自称するなど謙遜が過ぎる。毎朝トレーニングを欠かさず牙を研いでいる強者が。
チェズレイは深いため息と共に、モクマの隣へ座り直した。モクマの肩がソファの沈み込みに合わせて跳ね上がる。
「……こんな睡眠薬を盛るような手を取らずとも、明日は休みにしてましたよ」
「あ、そなの」
モクマの声が弾む。チェズレイもにっこり微笑んだ。
二人同じ気持ちであることが分かって嬉しいのだ。
「しかし、あなたのお陰で憂いなく過ごせそうですね。同道記念日」