藤の亡霊 いつもと同じ、何も変わらぬ日。いつも通りに1日を終え、眠りに就いてそのまま朝を迎える筈だったが途中でふと目が覚めた。外はまだ暗い。起きたところですることも無いので再び目を閉じようとするが変に頭が冴えていて二度寝は叶わない。
仕方なく体を起こし、電気をつけて何気なく時計へ視線を向ければその針は午前二時過ぎを指していた。丑三つ時か。古来より不吉とされる時間帯に目を覚ましてしまったことに眉間に皺が寄るのを感じた。水でも飲んで気を紛らわせようと台所へ向かう。
幼いまま時の止まった自分の身には背の高い調理台の前に踏み台を持ってくるとそれに乗り、流しの蛇口を捻って小さなコップに半分ほど水を汲み、それをちびちびと惰性で飲み干す。空になったコップを軽くすすいで水切り籠に置いた時だった。トントン。玄関の方から戸を叩く音が小さく鳴った。
こんな時間に現れるものは相手にすべきではない。そう思いつつも一族の者が何か急用で訪ねて来たのかもしれないと様子を見に向かう。念のため電気は消して、暗闇に目を慣らして行くと、暗い土間を月明かりが照らしていた。木材とガラスで出来た玄関の引き戸にはその明かりを遮る何者かの影があった。
「童よ、久しいな」
物音を立てないよう気をつけたつもりだったが、親族の誰のものでもない声が私に向けて言葉を発した。声はもうすっかり忘れてしまっていたが、その口調には覚えがある。そう思った瞬間脳裏に懐かしい人の姿が過ぎる。白を基調とし、毛先に向かうにつれて淡い紫に染まる癖のついた長い髪の毛を揺らし、私の訪問を喜び、私を腕に納め、薄紅色の唇を微笑みに形作る美しい女。
まさか。思わず戸に駆け寄ろうと身体が動くが一歩踏み出したところですぐに踏みとどまり、私は息を殺したまま戸の向こうの者の次の言葉を待つ。
「何故返事をせぬ。妾ぞ」
彼女は再びトントン、と戸を叩きながら呼び掛けてくる。
「この社の藤に取り憑いて再び身体を得たのだ、童よ、何故歓迎せぬ」
私は返事をせず、徐に腕を口元に運ぶと思い切り強く噛んだ。血が出る程強く噛むのは難しかったが、正常な人間ならば数日は内出血の跡がつく程度には力を込めた。
しかし噛み跡は目の前でスッと瞬時に消え去った。何があろうとも私を子供の姿のまま現世に留め続ける藤の君の不老不死の呪いは続いている。ならば藤の君の魂は私の中にある筈だという確信を得た。何より、この者が本当に藤の君ならば私のことを真名で呼ぶ筈だ。
これは『あれ』の趣味の悪い悪戯だ。そう結論づけるとふつふつと腹の底から強い憤りが沸いてきた。怒鳴り散らしたいのを飲み込み、口から出てこぬように唇を強く噛み締める。二度と戻らぬ恋しい者の姿を模して弄ぶなど、これ以上の侮辱があろうか。飲み込んだ怒りは身体の末端へ渡り、爪が掌に食い込む程強く拳を握った。
だが、これが『あれ』の用意したものだとしたら、自分の手には負えない。この紛い物への正しい対処は無視だ。
「童よ、お前の顔が見たい。ここを開けよ」
トントン、ドンドン、と戸を叩く音は次第に大きくなっていく。一度目を瞑り、脳裏に浮かぶたおやかな女の姿と目の前のそれを比べ、あのお方はこんなことしない、これは絶対に藤の君ではない、と自分を納得させ、玄関に背を向けて寝室へ戻る。敷かれた布団に潜り込むと掛け布団を頭まで被って両手で耳を塞いで強く瞼を閉じた。
ガンガンガンガンとガラスを叩き割らんばかりの玄関の戸を叩く音は耳を塞いでも鼓膜を震わせた。藤の君の声が「童、童、約束はどうした」「妾の孤独を癒してくれるのではなかったのか」と私を呼び続ける。お前は藤の君ではない。悪しきものよ去ね、去ね、早く朝日に焼かれて消えろと心の中で強く念じた。
「冷たいのね」
顔のすぐそばで『あれ』の声が退屈そうな色を纏い、私に囁いたかと思うと家中に響き渡っていた戸を叩く音と紛い物の呼び声がぴたりと止んだ。
恐る恐る目を開いても目の前に『あれ』の赤い目玉が光っているなんてことはなかった。そろそろと布団から顔を出してみるが辺りには何の気配もない。やり過ごすことができたのだと、安堵の息を吐くとどっと疲れが押し寄せて来た。用心して朝まで起きているつもりでいたが、瞼が重くて目が開かない。そう思っているうちに眠り込んでしまい、気づけば朝日が登っていた。
昨晩の出来事は悪い夢であれ、と思いながらのろのろと起き出して怖々と玄関を開くと、地面には首のない、十二単を纏った小さな人形と、黒く輝く長い髪が1本落ちていた。